仕入屋錠前屋47 真夜中の邂逅 2

 結局澄子の旦那が現れたのは占いと称した雑談を暫く続けた後だった。ファーストフードを出たところに停まった車の中、六十がらみの男はダブルのスーツを着こなしていた。
 澄子の説明に頷くと哲に会釈し、感じよく微笑む。ヤクザといえど、いや、ヤクザだからこそ、飲み歩くときはスーツが多い。下っ端のチンピラはともかく、ある程度の身分になれば酔っ払って店でクダを巻くこともないし、どちらかと言えば行儀がいいものだ。だからいいとか悪いとか言うことではなく、澄子の旦那はそれ相応の地位にあるのだろう。
 その足で例の雑居ビル——秋野の知り合いの住居らしき部屋——に戻り、顔だけ洗って服もそのままにベッドに入った。壁を叩く雨の音に眼を覚ましたのはついさっきだ。昼間からどっちつかずだった空模様は哲の寝ている間にやっと踏ん切りをつけたようで、久しぶりの雨が規則正しい音を立てている。
 哲のアパートの部屋は二階だが今いるここは四階で、そのせいで風が強いのか、叩きつける雨粒の勢いが強かった。その音に目覚めてみれば、暗がりの中男がベッドの脇に立っていたというわけだった。
「起きたのか」
 聞き慣れない声に見慣れない顔。哲は自分を見下ろす同じ年頃の茶髪の男の顔を見て、誰だったっけな、と首を捻った。
「あんた誰だ」
「家主、一応な」
「……ああ、二ヶ月戻らねえって聞いてたが」
「仕事がひとつキャンセルになって、こっちで新規が入ったんで、二ヶ月が二週間になったってわけだ」
 哲が腕に怪我をして二週間。ヤクザの逆恨みを警戒した秋野に強制的にこの部屋に放り込まれて同じだけ。他人のねぐらという居心地の悪さに、哲も些か辟易してきた頃であった。抜糸も済んだしそろそろ戻ってもいいだろうと勝手に決めていたところだから、頃合としては適当だ。名も知らぬ家主の顔を見て、哲は掌で顔を擦った。
「明日には出ようかと思ってたから丁度いい。あんたが今日ここで寝るなら、俺は別に今からでも——」
「出てくことはねえだろ。一緒に寝ようぜ」
 ぎしり、とスプリングが軋みを上げ、男の膝がベッドに乗り上げた。哲は近づいてきた男のきつくつり上がった眼元を見て、こいつは何をしてるんだ、と首を傾げる。秋野よりは少し低そうだがそれでも長身の身体が覆い被さって、哲の機嫌も空と同じく急速に下り坂になっていく。
「おっかねえ顔するな、あんた」
「てめえは何で断りなく人の上に乗っかってんだ、失礼な奴だな。蹴り落とされてえか」
「あんまり好みじゃねえんだけどな……。まあ面白いって言えば面白いか。据え膳食わぬは、って」
 男が言い終わらないうちに哲は膝を蹴り上げた。確かに哲の膝は男の脇腹に入ったが、左肘を押し付けられて押さえ込まれる。突き上げた掌で男の顎を押し上げて、腹筋に力を入れて身を起こす。
「暴れんなよ、面倒くせえ」
 不意に額に当たった金属の硬さと冷たさに、哲は思わず動きを止めた。確かめなくても、それは銃口に違いない。
「……野郎」
「俺のベッドで寝てるあんたが悪いんだよ」
「お前も只じゃ済まないからその辺で止めとけ、弘瀬」
 稲光のように眼を刺したのは単なる蛍光灯の明かりだった。だが、急に灯った照明に一瞬目が眩んだのか、額の硬い感触が僅かにぶれる。哲は両膝で男の胴を挟んでベッドに手をつくと、腰から下を捻って男の身体を振り落とした。
「っ!?」
「そこで寝てろ、くそったれ!」
 男が床に転げ落ち、入り口に立った秋野が「だから言わんこっちゃない」、と呆れたような声を出した。

 

「あんた足速いな。電話したの、ついさっきだろ」
「近くに居たんだ。じゃなきゃ血の雨が降ってたぞ」
 頭をさすって唸っていた男は腰を上げ、ベッドに腰掛けた不機嫌な哲を一瞥した。秋野が足元の銃を拾い上げ、男に差し出す。弘瀬と呼ばれた男はそれをテーブルの上に置き、頭を掻いた。
「んな怖え顔することねえだろ。撃とうと思わなきゃ弾は出ねえよ。ちょっと脅かしたら大人しくなるかと思って」
「脅かしたら余計に歯を剥くんだよ、こいつは」
「って言ったって、」
「お前だって本気でやらなきゃのされるぞ。俺だって危ないんだ」
「へえ」
 例えけなされているわけではなくとも、目の前で交わされる自分についての会話というのは何とはなしに不愉快だ。不満げに唸る哲を見て、銜え煙草の秋野は僅かに肩を竦めた。
「こいつがこの部屋の借主だ。男も女もいける上に見境がない」
「まったく、勘弁してくれ」
 溜息を吐くと弘瀬がげらげら笑う。すっかり眠気も醒めた哲は煙草を探して辺りを見回した。
「哲」
 秋野が煙草の箱とライターを放って寄越す。受け取って最後の一本を取り出して銜え、箱を右手で握り潰す。こういうことをやってもやっと痛まなくなった。視線を感じて眼を上げると、秋野が哲の右手を眺めている。見られているのに気付いたのだろう。視線が上がり、哲の眼を見つめると口元を歪めて微かに笑った。
「まだここ使うんなら使っても構わねえよ」
 弘瀬は哲に向かって言い、椅子に腰を下ろして脚を組んだ。言いながら秋野を見上げ、右手でうなじを掻きながら欠伸をし、哲を見る。
「行くところなら他にもあるし」
「いや、どうせもう戻ろうと思ってたから丁度いい」
「俺は別にあんたが居たって気にしないけどな。まあ、ケツの安全は保証しねえが」
「……弘瀬」
「別に無理強いしようってんじゃねえよ。だけど別に新境地拓いたからって」
「周一」
 秋野の低い声がぴしゃりと続く言葉を遮った。弘瀬が驚いたように口を噤み、うなじを掻く手を止めて秋野を見上げる。雨の音が一瞬止み、また大きくなって窓を叩いた。秋野は弘瀬の座る椅子の脇、小さなテーブルに屈み込み、灰皿に短くなった煙草を押し付けて最後に肺に残った煙を吐く。顔を上げた瞬間に弘瀬に向いた薄茶は底光りして酷く鋭く、弘瀬の指の先がぴくりと動いた。
「哲、帰るぞ」
「は?」
「車で来たから、送る」
 逆らっても仕方がないから立ち上がった。今から動くのも面倒だが、家主を追い出してここで寝るというのも気が引けるし、掘られる心配をしながらではおちおち眠ってもいられない。
「そういやお前、何で服着たままなんだ」
「あ? ああ、遅くなったから面倒で」
「何かあったのか」
「それがお前、何かバイト帰りに占い師のおばちゃんに捕まって、ホストクラブの店長になる気がないなら今付き合ってる会社員でも水商売でもねえオンナと結婚したらどうだって説教くらってよ」
「……何?」
「オンナは俺にぞっこんだそうだ。冗談じゃねえ、これ以上食い込まれたら骨から肉が剥がれるわ」
 吐き捨てた哲に二人の視線が集中した。弘瀬は首を傾げて眼を瞬き、秋野は少しの間の後喉の奥を鳴らすように苦笑を漏らす。
「靴履いて荷物持って来い。弘瀬、鍵返す。ほら」
 何もついていないむき出しの金属がきれいな放物線を描いて弘瀬の手の中へと落ちていく。秋野が投げたスペアキーを受け取って、弘瀬は不思議そうに眉根を寄せた。
「何であんたが持ってんだ」
「そいつは錠前屋だから鍵要らずでな。最初は置いてったんだが、失くすと面倒だって返された。哲」
「うるせえな、今行く」
 弘瀬は何かが腑に落ちないような顔をしてしきりと首を捻っていたが、哲にはどうでもいいことだ。先に降りた秋野を追ってビルを出る。さすがに電気の消えた無料案内所の脇に停まった車に向かううち、落ちてくる雨粒に、ゆっくり歩く哲の肩はびしょ濡れになっていた。