仕入屋錠前屋47 真夜中の邂逅 1

 運命とは、何だ。
 生き死にか、それとも出会いか。

 

「ねえ、あんたの未来、占ってあげようか」

 仕事を終えて店を出た哲にそんな声が掛ったのは土曜の夜、日付も変わって暫く経った頃だった。
 給料日前の土曜、客の入りは多くなかった。近隣の店も幾つかはこれからが書き入れ時なのだろうが、勤務中の暇も手伝ってこちらはそろそろ眠たくなってきている。
 哲の勤める居酒屋の斜め向いには、以前はなんとかエンジェルとかいう名前のキャバクラが入っていた。しかし最近店長だかマネージャーだかが売り上げを持ち逃げしたとかでごたついていたらしく、結局キャバクラは閉店し、ホストクラブが入ったという話だった。若くてお洒落で目つきの悪い若いのが、たまに店の前でぼんやり虚空を見つめていることがある。
 今哲に声をかけたのは、そのホストクラブの前に立った女だった。なかなか美人だが、明らかに元水商売。化粧は濃くてお世辞にも今風とは言えないが、これより酷い女は幾らでもいる。年齢は五十代より下ではないというくらいしか分からない。中々上等そうな、しかし如何にもそれっぽい黒いロングスカートの裾が夜風に揺れていた。
「ねえ、お兄さん」
 女は今時の赤とは違う、流行遅れの深紅の口紅を塗った唇を大きく笑みの形にし、明らかに哲のほうを向いている。大きな声が店の挟間に響いてこだました。
「未来?」
「そう。未来じゃなきゃ恋愛、金運、仕事運、何でも」
「興味ねえなあ」
 ホストクラブの客にしては、こんなところで哲に声を掛けているのはおかしな話だ。では、通りすがりの酔っ払いか何かなのか。しかし完全に素面と思える口調と表情で、女は煙草を取り出し火を点けた。
「いいじゃない、少しくらい付き合ってくれても」
「眠い」
「変な子だね」
 女は酒に焼けたようなハスキーヴォイスでそう言うと笑いながら哲を手招き、意外にも無邪気な顔でにっこりと笑ってみせた。

 連れていかれたのはどこにでもあるファーストフードの二階席、土曜の夜とはいえまだまだ行き交う人が絶えない交差点を見下ろして、紙のカップに入ったコーヒーを挟んで女と向き合った。
 腕を取られ強引にここまで引っ張ってこられたが、彼女が誰で何なのか、哲にはさっぱり分からない。皺の一本まで容赦なく照らし出す白い蛍光灯の下で見ると、女はさっきより老けて見えた。
「……お姉さんな」
「スミコだよ。澄んだ水、のスミに子供のコ」
「澄子さん、俺に何の用」
 細いプラスチックのマドラーでテーブルを叩きながら訊いてみる。まさか本当に占い師と言うわけではあるまい。子供が飲むような甘ったるい飲み物のストローに口をつけながら、澄子は上目づかいで哲を見た。年齢のせいか、彼女の性質なのか、格好と雰囲気の割には媚は微塵も感じられない。品定めするようなきつい視線を受け止めて見返すと、澄子はほんの僅か、頬を緩めた。
「本当はねえ、スカウト」
 メンソールの煙草の箱を取り出して、火を点ける。煙と一緒に澄子は歌うように節をつけて続けた。
「ホストクラブのスカウトだよ。若い子達はどんどん入ってくる。で、どんどん辞めていく。常に補充が必要なんだよ」
 反対側の奥の席で、けたたましい笑い声が上がる。どう見ても高校の制服を着て、化粧だけは一人前の少女達が馬鹿笑いを響かせた。偽物の観葉植物の葉を透かして彼女達を眺めると、澄子はうるさいね、と顔をしかめた。
「今時の若い女の子っていうのは下品だね」
 蓮っ葉な口のきき方をしてはいるが、確かに澄子のほうが女子高生達よりは余程上等な女に見える。
「うちの娘も幾ら言ってもあの下品な化粧をやめないんだよねえ」
「ふうん」
「息子もいるんだけどね、別れた亭主が連れていったから今は一緒じゃないんだよ。まあ店にあれだけ男の子がいりゃ、同じ数だけ息子抱えてるようなもんだし」
 澄子が差し出した名刺には、月原エンタープライズ、月原澄子とあった。(株)も(有)もついていないところをみると、単にそう名乗っているだけで会社組織はないのだろう。名前自体が源氏名かも知れない。斜め向かいのホストクラブの、彼女は客ではなくてオーナーだったというわけだ。
「でもあんたは駄目だねえ。ぱっと見いいかと思ったけど。思ったより大人だし」
「そりゃどうも、年寄りってことか? 期待はずれで悪かったな」
 哲が笑うと澄子も笑った。
「女を夢中にさせるタイプじゃないね。そういうの面倒なんだろ」
「おお、すげえな、占い師」
「からかうんじゃないよ、馬鹿な子だねえ。けど店長とかにしたら気の荒いのもうまいこと纏めてくれそうだね。どう?」
「冗談言うなよ、俺には無理だ。それにヤクザ屋さんとは関わりたくねえ。澄子さんとこだって無縁じゃねえだろ? あんたのパパ、どこの人」
 マドラーをテーブルに放り出し、哲も煙草を銜えた。習慣なのか、自然にライターが差し出され、断るのも何なので火をつける。澄子は哲を眺めて肩を竦め、天井に煙を吹きつけた。
「うーん、そう来たか。こりゃますます向いてないわ」
「だから言ってんのに」
 こういう女にヤクザの旦那がついていないわけがない。そんなのは当たり前の話だが、哲は本気でヤクザと関わりたくないと常日頃から思っている。
 先日も望みもしない小さな縁から痛い目に遭ったばかりだ。抜糸も済んだし傷も塞がったが、これ以上何かあるのは嬉しくない。
「そういうわけでパスな。帰るわ」
「分かったわよ。占ってだけ上げるから、もうちょっと待って」
「占うのか、本当に」
「旦那と待ち合わせしてんのよ。時間つぶしたいから付き合って」
 こんなファーストフードでヤクザと待ち合わせか。出かかった言葉を飲み込んで、哲は椅子に座り直す。澄子の表情に一瞬見えた寂しさに、何となく胸を打たれたといったら陳腐だろうか。
 ヤクザの情婦というには薹が立ちすぎ、ホストクラブなどやっていてもホストは子供と変わらない年頃の男ばかり。旦那と言っても彼女は旦那当人にとってはその他大勢の女に過ぎないのだろう。そんな女はこの街には掃いて捨てるほど存在するが、抜け出すに抜け出せず、占いなどと言って哲を引き止めるのはどこか可愛くもある。
「——仕方ねえなあ。はい、どうぞ」
 澄子はにっこり笑い、煙草を右手に持って哲の顔をじっと見る。睫毛が濃いが、これはマスカラの成果なのかそうでないのか、哲にはよく分からない。
「うーん、今付き合ってるのは、二十代の……そうだね、真ん中くらいの可愛い子だね。会社員じゃないだろ? 水商売……でもないのか。あんた随分惚れられてるんだろうねえ。あんたもその女の子が好きだけど、結婚で人生決めるほどでもないってとこかい? それとも本気になって捕まるのが怖いかな」
 哲は思わず吹き出して、煙草を取り落としそうになった。脇腹が痛くなるほど笑うと、澄子は真っ赤な唇を尖らせた。
「笑いすぎだよ」
「いや、悪ぃ」
 真面目な顔で煙草を銜えたもののすぐに肩を揺らした哲の手をぱしりと叩き、澄子もまた堪え切れなくなったように笑い出す。
「笑いすぎだってば! 分かってるよ、当たってないんだろ。インチキなんだから仕方ないよ」
「インチキなのか」
「そりゃそうでしょ、人間の未来を占える人間がどこにいんのよ。私はねえ、話する時の相手の顔色見たり、身なり見たりね、まあ当り前の大人なら誰でも出来ることをちょっと上手いことしてるだけよ。どうとでも取れることを格好つけて言や、自分の思いたいように解釈して当たってるって喜んでくれんのが、占いなんかする人種なのよ」
「そういうもんか?」
「そういうもんなのよ、人間って。だから可愛いんじゃない」
 騒いでいた女子高校生が立ち上がって移動する。澄子はぼんやりそれを眺めながら、長い息を吐き出した。
「あんたも私も、真夜中に」
「え?」
「運命に邂逅するわ」