仕入屋錠前屋46 傷ついたままでいい 3

 秋野の手はまるで金属の金具か何かのように哲の腕を締め上げて、離れなかった。秋野のシャツを巻きつけた上から痛いほど握られる、それが圧迫止血をしているのだというのに気付いたのは、輪島が「秋野、もういいよ」と言ったからだ。
 結局哲の腕は十五センチの傷に対して十二だか十四針だか、きちんと聞かなかったが縫われて終わった。傷は骨や太い血管を傷つけるほど深くはなかったが、切れない刃物を腕の力で薙いだせいか、肉が抉れた部分が結構あったらしい。そこからの出血も多かったのだと輪島は言う。そこは傷が残るかもしれないと言われたが、腕に傷が残るからと言って、別に気になるものでもなかった。
「一週間かそこいらしたら抜糸してあげるからおいで」
 指の傷も深いところを三箇所、それぞれ二針縫ったが、あとは軟膏を塗り、絆創膏を貼って終わり、やはり大した傷ではなかったし、関節部分は無事だった。診察室である部屋を出て階下の店に下りると、秋野が煙草を吸っていた。狭い店に充満する煙が鼻を刺激する。灰皿には待たせた時間に見合わない吸殻が溜まっていて、秋野は酷く不機嫌に見えた。
「秋野、吸いすぎ。煙い」
「……すいません」
「一般人になら深いって言うけど、まあ実際はそれほどでもない、ってとこだよ。そんな顔しなさんな」
 輪島はカウンターの上に抗生物質の入った袋を置いて、哲が受け取るのを笑顔で眺め、換気扇のスイッチを入れて秋野を振り返った。哲が上着を羽織るのを一瞥し、秋野は輪島に目を戻す。
「腕は骨とか神経とか腱とか、そういうのは全部大丈夫。佐崎くんの筋肉が硬かったせいもあるしね。まあ、表面上傷が残ったとしても、後遺症はないと思う。指は大したことないし」
「日常生活は?」
 秋野の低い声は平静で穏やかに響いたが、哲の耳には先程までと何一つ変わらないように聞こえた。凍りつくほど冷たいはずなのに煮えたぎる何かが漏れ、哲の背筋を撫で上げる。恐怖感と言えばいいのか、得体の知れない感覚に哲は不機嫌に眉を寄せた。
「お風呂はちょっと我慢だね。シャワーで濡らさないようにしてって感じじゃないか。あとは無理しなければ普通どおりでいいよ」
「どうも」
「秋野、」
 輪島がかける声に反応せず、秋野は哲の左腕を掴んで店を出た。秋野の手で引き戸がぴしゃりと閉められ、輪島の声は途切れ背後に取り残された。

 

 秋野は電話を掛けていた。タクシーの中で、低く、運転席からは聞き取れないくらいの声で会話が続く。
 お前、今どこだ。——いつまでだ? 分かった、何日か部屋を借りる。鍵は……ああ、分かった。掃除して返すよ……馬鹿、それはお前の女に言うんだな。
 哲は窓の外を見るともなく見ながら、秋野の声を聞いていた。タクシーの外を流れる景色が、焦点の合わない視界のようにぼやけて背後に流れていく。信号が赤になり、停車する。隣に停まった車の後部座席の、小学生らしき女の子が哲に向かって手を振った。振り返してやると、手に巻かれた包帯と絆創膏に、女の子が表情を曇らせたのが窓ガラス越しにもよく見えた。
 いたいの?
 女の子の口が動いたが、答える前に信号は青になり、女の子を乗せた車は左折して離れて行く。哲は正面に顔を戻し、深く座席に沈みこんだ。
「——運転手さん」
「はい?」
「携帯灰皿使うから、煙草吸っていいすか。やっぱり、無理?」
 どうしようもなく煙草が吸いたくなった。今時のタクシーは禁煙だが、運転手のワイシャツのポケットに煙草のパッケージが見えたから、駄目で元々と声をかける。白髪の運転手はルームミラーで哲を見て、優しげな笑みを浮かべた。
「今日はそろそろ上がりだから、どうぞ。大丈夫ですか、怪我」
「はい、平気っすよ。吸えればもう何でも平気」
「馬鹿が」
 秋野が前を向いたまま低く唸る。
「うるせえよ」
「まあまあ、僕も吸いますから分かりますよ。落ち着くもんね」
 運転手はそれきり口を噤んで前を見た。実際は「僕も吸う」ところの秋野は、相変わらず前を見たままむっつりと黙り込んでいる。哲は煙草を銜えライターを取り出したが、石を擦る指先の痛みに手の中のライターを座席の上に取り落とした。秋野は視線だけ動かしてライターを見ると舌打ちし、取り上げる。火を点けてくれるかと思ったら、ライターはそのまま秋野のポケットに消えた。
 火の点いていない煙草を銜え仏頂面で唸る哲を肩越しに振り返り、運転手が思わずといったふうに小さく笑う。秋野は相変わらずの無表情。滑るように進むタクシーの中、ラジオから流れるグループサウンズが、いやに平和で長閑だった。

 タクシーを降りて少し歩き、秋野は雑居ビルの中に入った。表から見ると小汚いが、中は意外と片付いている。余計なものの一切ない廊下の端にはゴミや埃が溜まっているが、それほどの量ではない。
 秋野の知り合いの住居だというそこは、四階に当たった。一階は無料観光案内——案内は無料だが、案内される店は少々高めが多い——で、二階はいかがわしい大人の玩具屋、三階は店仕舞いしたらしいイメクラ。五階建てのようだが、看板を見てこなかったので最上階が何かは分からない。エレベーターは止まっているのか、秋野は躊躇う様子もなく階段へ向かった。哲は秋野に続いて階段を上り、四階に着く。途中寄った店で預かってきたと言う鍵で秋野が部屋を開ける。
「こんなもん、すぐ開けてやったのによ」
 秋野は無言で哲を見下ろすと、指、とだけ低く吐き捨て中に入った。
 同じビル内の住居でも、耀司のところはきちんと住宅として成り立つように改造されているが、ここは生活臭というものが欠如していた。恐らく、仮住まいのようなものというか、何かあったときだけ使う場所なのだろう。以前チャイニーズに絡まれたときに秋野に連れて行かれた場所にもこんな雰囲気があった。恐らく警察や、もっと性質の悪い何かから身を隠すときにでも使うのだろうが、そう思えば秋野もそういうことがあるのだろうかと疑問に思う。
「多分何もないとは思うが、お前暫くはここ使え」
 タクシーを降りて以来、秋野が始めて一語以上の言葉を喋った。低く、黙っていたためにひっかかるように掠れた声は普段と殆ど変わらない。
「持ち主は二ヶ月は戻らない」
「何で」
「お前が知っても得はない。荷物は俺が持ってきてやるから、寝てろ」
 靴のまま入る構造が、尚更住居であると言う感覚を薄れさせる。秋野が哲の背中をベッドに向かって強く押した。
「眠くねえよ、余計なお世話だ」
「寝たほうがいいんだよ、鎮痛剤が効く」
「いちいちうるっせえ奴だな」
 哲は渋々壁際のベッドに腰掛けたが、実際別に眠くはないし、寧ろ神経は昂ったままだ。先程結局吸えなかった煙草を取り出し、ライターの所在を思い出す。
「眠くもねえし、心配されるようなことでもねえよ。おい、ライター返せ」
 日が傾いてきたのか、部屋の中の光が僅かに色づき始め、彩度が低くなった気がして哲は何度か目を瞬いた。煙草を挟んだ右の指がしくりと痛む。顔をしかめた哲の身体が突然傾き、指の間から煙草が床に滑り落ちた。突然視界一杯が天井になって、飾りのない平板な白い面に瞬きする。ぎしり、とベッドが軋む音がして、秋野が哲を見下ろした。

 哲の身体を跨いでベッドの上に立った秋野は土足だった。靴を脱ぐスタイルの部屋ではないから当然だが、それにしても何と適当なやつだろう。哲は呆れ、秋野を見上げて顔を歪める。先程までの無表情はやはり抑制の賜物だったと思ったからだ。
 百八十五センチの高みから、秋野は哲を睨み下ろす。薄茶の瞳は色が褪せたかのように白っぽく、瞳孔が際立っている。忌々しげに歪めた不機嫌な表情。獰猛な気配を全身から滲み出させ背を伸ばした立ち姿に、忌々しいが暫し見惚れた。
「あまり俺の寿命を縮めるな。指だけは大事にしろ」
 吐き出された声の柔らかさと凶暴さに本能的に恐怖してか、包帯の下の腕がぴくりと一度痙攣した。ブラインドの向こうで徐々に色を濃くする光が秋野の顔半分を淡いオレンジの縞模様に染めていく。その美しさと恐ろしさを、一体どうすれば払い除けてしまえるのだろう。
 秋野は靴の先で哲の脇腹を軽く蹴り、髪をかき上げて物憂げに息を吐く。暫しの間の後、秋野は片膝をベッドについて哲の上に被さるように顔を近づけた。もう一度、ベッドのスプリングが不穏な音を立てる。目の前の秋野の目は、長い睫毛が落とす陰と光で言いようのない色を見せて光っていた。
「大人しく寝てろ」
「いちいち指図されんのがどれだけ嫌いか知ってんだろうが。胸糞悪ぃんだよ」
「今日くらい黙って言うことをきけないのか。犯すぞ」
 陳腐な脅しが、背骨を軋ませ視界を狭める。普段はそんなことを言わない秋野を睨み上げ、哲は歯噛みしながら秋野のジャケットの襟を掴んで引き寄せた。
「犯せよ」
 首を持ち上げ、鼻先が触れ合うくらい顔を寄せる。何も言わずただ底光りする目で見据えてくる男に向かって、哲は唸るように喉から言葉を引っ張り出した。
「そしたら何だってんだ。お前とやって、それで何がどうなるって?」
 殆ど触れ合うくらいの距離で唇から零れた秋野の息は、哲の唇の上で音にならず消えていく。瞬く凶暴な瞳に対して明確に怖いという感情はないが、歯の根が微妙に合わずかちかちと硬い音がする。哲は歯軋りして僅かな震えを飲み込んだ。
「哲、お前は」
「傷が開いても泣いたりしねえから殴り合おうぜ、仕入屋。お前が半分切れたの見るの、悪くなかった」
 掠れた声が、音を鳴らす歯の間に収まりきらずに拡散する。自分の声が酷く苛立たしげで挑戦的であるのは何故か、今更考えるまでもない。獣のように威嚇音を発しながら首筋に噛み付く真似をする。微動だにせず受け止めて、秋野は大きく深い溜息を吐いた。

 唐突に動いた秋野が乱暴に哲の頭と左腕をベッドに叩きつけた。一瞬の動きで豹変した秋野は有無を言わさぬ迫力で、哲の全身を押さえ込む。地を這うように響く低音が腹の底から絞り出されて耳の中に吹き込まれる。
「いい加減にしろ。これ以上俺を怒らせるな、哲」
 哲の額を押さえつけ、枕に沈める掌はやけに冷たく乾いていた。
 哲の髪を両手で握り、乱して頭をかき抱く。ベッドを軋ませながら舌や歯まで食らうように激しく口付ける秋野の怖さに、思わずしゃがれた声が漏れて腹が立った。淫靡に蠢く濡れた舌を喉の奥に突っ込まれる興奮は、暴力的に犯されるより始末が悪い。背筋が冷えるような痺れと苛立ちに、目を開け踵で秋野の背を蹴飛ばした。
 片膝をついた姿勢のままで覆い被さる姿は正にネコ科の大型動物で、沈みかけの夕陽が更に、現実のものとは思えない色に瞳を染め上げ揺らめかせる。いいだけ貪り、ごくゆっくりと離れていく。最後まで名残惜しげに絡んだ唾液も舌も、オレンジの陽射しに濡れて光った。
「何かあったら電話しろ」
 ベッドから下りて低く言い、秋野はライターを投げて寄越した。顔のすぐ傍に落ちたそれを横目で見て、哲は手の甲で濡れた口元を乱暴に拭う。むかっ腹が立ってベッドの横の壁を思い切り蹴飛ばした。
「やんねえのか」
「怪我してるんだろうが」
「別にいいじゃねえか」
「血塗れのセックスなんかしたくない」
「馬鹿、そっちじゃねえ、殴らねえのかって話だよ」
「同じだろ」
「同じじゃねえよ」
「黙れ!!」
 秋野が大声を出し、近くにあった椅子を思い切り蹴飛ばした。派手な音と共に安っぽい椅子は部屋の向こう端まで吹っ飛んで、小さなテーブルを薙ぎ倒してやっと止まる。滅多に声を荒げない秋野の爆発に思わず身体を起こすと、秋野は煙草を銜え、苛々と火を点けた。フィルターを噛み締めながら歯の隙間から大量に煙を吐き、ぎらつく目で哲を睨む。
「壊されたくなきゃ突っかかるのは止せ」
「…………」
「俺は今暴力もセックスも手加減できるような心境じゃない。崖っぷちぎりぎりで踏ん張ってるんだって、見りゃわかるだろうが。これ以上挑発するな、錠前屋」
 叩きつけるようにドアを閉めて秋野は出て行き、哲は枕に頭を落とした。

 たかが面子一つのために多勢に無勢の卑怯さを気にも留めずに暴力を振るう小宮山も、単に血が騒ぐと言うだけでそれを受け取る自分もくだらなさにかけては人後に落ちない。
 自分勝手な筋を通して秋野に電話を掛けたナカジマ、それに傷ついたのが例えば顔や脚だったならあれほど怒らなかったであろう秋野という男。この二人は外道と言う意味であれば自分や小宮山より余程外道で、しかしくだらなくはないと思う。哲は左手で顔を擦って目を閉じた。
 錠前をいじることを一瞬忘れ、刃物に躊躇なく利き手をぶつけた自分に秋野が怒って当たり前だと分かってはいる。分かっていても今更どうしようもない己の馬鹿さ加減と、血相を変えた秋野の腹の底を思って重ねて吐く息は長かった。
 自己嫌悪にも似た自嘲半分、秋野を切れる一歩手前まで追い込んだほくそ笑みが半分。自分の口元が笑みを刻むのを自覚しながら、哲は突然現れた睡魔に進んで身を任せ、組事務所を出て以来初めて四肢の力を完全に抜いた。
 鎮痛剤が効いてきたのか、しくしくと痛む右手が麻痺してきたように感じられた。腕の痛みなどそのうち消える。あんな顔をさせるのは本意ではないし、されたからと言って嬉しくもない。しかし嬉しくはないがぞくりと背を這い上がったのは何だったか。血の気の抜けた秋野の顔に、痛んだのは何だったか。少女に痛いのかと訊かれたら、傷ではなくて他の何かが痛いのだと言うよりない。
「くそったれ」
 うっすら目を開け、低く呟く。
「殴りてえな、畜生」
 哲は身体の左側を下にして転がり吐き捨てて意識を手放す。あっという間に空白になる意識の隙間、右手の傷が引き攣るように痛んだのを知覚した。

 

 真っ暗な部屋の中、寝息を立てる哲の枕元に腰を下ろし、秋野は深い溜息を吐いた。あれからそのまま寝入ったのか、相変わらず施錠もせず、煙草を吸った形跡もない。足元に煙草を見つけ、秋野はそれを掌で暫し弄んだ後、銜えて噛み締め火を点ける。ライターの炎に照らされた包帯が暗がりの中白く浮き上がり、昼間感じた悪寒がまた甦った。
 哲を失うということを、考えてみたことは今までなかった。哲が誰かを愛してここから去るとか、刺されて死ぬとか、そういったことは想像しても意味がないし、想像そのものに興味がない。恋愛感情を感じないという利己的に過ぎる執着は、あくまでも自分の感情がすべてであって相手の都合を斟酌していないからなのかも知れない。
 哲が錠前屋であると言うことが執着の根源であるのなら、昼間の己の動揺は腑に落ちる。落ちるが、それでも尚それだけでないという思いが腹の底をひやりとさせるような何かになって秋野のどこかに傷をつけ、傷は開いて何かが一本ぶち切れたようなそんな気もした。
 今も、その何かは切れたままだ。
 それが一体何なのか、自分でもよく分からなかった。切れたままぶらぶらと揺れているそれは、何かを変えるのかそうでないのか、それすらも見えては来ない。
 ただ、思う。哲が欲しいというその上に、更に求める自分の強欲さを。手に入らないならそれでいい、傷ついたままでいい、動かなくなってもいいからここに在れと。錠前屋でない哲に確かに何一つ意味はないが、意味はなくとも欲しいのだと。
 俺より執着する誰かが出来たらそのときは行けばいい。だが、そうでないなら例え四肢が利かなくとも、何が傷ついても俺に食らいついて名前を呼べ。
 口に出せば鼻で笑われるだろう言葉を飲み込んで、秋野は静かに立ち上がった。
 暗がりの中点る赤い点が哲の不機嫌な寝顔に映る。傷ついた野犬は今は夢の中、俺を殴る夢でも見ているか。

 

 秋野が静かに閉めるドアの音が微かに響く。
 眼を開いた哲は小さく舌打ちし、消え残る煙草の煙に向かって悪態を吐いた。光源がなくなった部屋の中、哲の表情を照らすものは何もなく、微かに残った煙の色も、闇に溶けていずれ消えた。