仕入屋錠前屋46 傷ついたままでいい 2

「今ねーカレー食べてます!」
 秋野は携帯から聞こえてくる仙田の声に思わず笑ってしまい、仙田は仙田でそれが嬉しいのかこちらも笑った。隣では葛木が仏頂面をしているのだろう。容易に二人の姿が想像出来る。秋野は笑いながらテーブルに靴を履いた両足を乗せた。目の前のレイは当然酷くぶすったれた顔をしたが、それが目的でやっているのに下ろすわけがない。
「そうか。そりゃよかったな」
「ねえ、錠前屋さんて暴力的だけど、だからって別に暴力団とお友達じゃないよね?」
 思いがけない仙田の台詞に、秋野は眉を顰めて煙草を灰皿に押し付けた。テーブルに乗せていた足を床に下ろす。レイが高いテーブルなのに、とお決まりの文句を垂れた。
「違うと思うが」
 ナカジマか遠山と出くわしてまた拉致でもされたかと思いながらそう返す。レイがこれ見よがしにティッシュでテーブルを拭ったので、右足を上げ、手の甲に踵を思いきり打ち下ろしてやった。
「そっかあ。あ、関係ないけど、葛木は日替わり今日のお勧めカレーでね……って、ええ、いいじゃん言ったって別にさー、減るもんじゃないし」
 秋野は苦笑し、葛木の顔を思い浮かべた。結局何だかんだ言って葛木も仙田を嫌ってはいないらしい。文句を言いながらカレーを食べている姿を想像すると、哲より年上とは思えない。しかし所謂普通の男の子、という感じの葛木は学生のようでかわいらしく、仙田が構いたがるのが理解できるような気もする。
 レイがキーキー煩いので足を避け、秋野は仙田の話に注意を戻した。
「それで、あれがどうかしたのか」
「ああ、なんかね、如何にもー、ってシルバーのベンツから降りてきてさ、おにーさん達とビルの中入ってったのこの店から見えたんだよね。でも小突かれたり引きずられたりしてたわけじゃないし、仕事関係かとも思って……」
「脅されてるようじゃなかったってことか」
「うん、そうそう。ふつーの顔してたし」
「あいつは大抵普通だけどな」
「それもどうなの!? 危なくても傍目にはわかんないってことでしょそれ仕入屋さん!」
「あいつの危ないの定義はちょっとずれてるんだよ。俺がどうこう言って治ることじゃないからな」
「そうだけど、でもね、それって俺はどうかと思うわけ」
「分ったよ、電話してみる。お前はゆっくりカレー食ってな」
「よろしくね、気をつけてねって言っておいてね、気をつけないだろうけど」
 相変わらずよく分らないやつだが、仙田は邪険にされるわりには哲を好きらしい。電話を切り溜息を吐いて顔を上げると、レイが頬を膨らませてこちらを睨んでいた。
「そんな顔しても謝らんぞ」
「いいよ、お前に謝られたって俺の得にはならないもん。それよりさっきの続き——」
 レイが仕事のことを話しかけたところでまた電話が鳴った。レイが大袈裟に肩を落とすが無視して出る。てっきり仙田かと思ったら、声の主は仙田とは大分違う声で仕入屋さんかい、と呟いた。

 

 連れていかれたところは案外街中で、取り立てて危なそうなこともなければ日本家屋があったりもしない、ごく普通の雰囲気だった。単なる出先事務所のひとつだから当たり前なのだが、何となく肩すかしを食ったような気分ではある。
 新しくもなく古くもない雑居ビルの前に車が停められ、小宮山に降りろと促された。平日の昼間とあって人通りは余りない。助手席の男と小宮山、哲が降りると車はまた車道に戻る。恐らくどこかに駐車しに行くのだろう。現代のヤクザは駐車違反で切符を切られるのも避けるようだが、お礼参りはまた別物なのか。後続車からは二人とも降りてくる。この車は私物であちらは営業車、そういうことなのかも知れなかった。
 連れて行かれたビルの入り口に、後続車を運転していた若いやつが歩哨に立つ。一人残して三階までエレベーターに乗った。出された看板は、「下川コンサルタント」。何をコンサルタントしてくれるのか、怪しげには違いない。鍵を開けて事務所に入ると、小宮山以外の二人はせっせとテーブルや鉢植えを退かし始めた。
「リング設営か」
 哲が呟くと小宮山がきつい目をこちらに向けた。見返して暫しの間の後、小宮山が怯んだように目を逸らす。哲は鼻を鳴らして煙草を銜え、周りに構わず火を点けた。ドアが開き、ベンツを運転していた若い奴が入って来て慌てて大道具係に参加する。
「あんたさあ」
 哲の低い声に小宮山が身じろぎし、腕が僅かに動いた。
「コミヤマさん、つったか。一対五でお礼参り、楽しいか」
「楽しいとかそういう問題じゃねぇんだよ」
「面子の問題っての?」
「当たり前だろうが。お前、死ぬほど後悔させてやるからな」
 横目で小宮山を一瞥して、哲は思わず苦笑を漏らす。面子にこだわるなら正々堂々、とでも言えば格好がつくというのに、数を恃めば勝ったところで胸を張れるものでもない。そこらへんが下っ端ヤクザの限界というか当然と言うか、くだらない論理でしかないのに気付いているのかいないのか。
 いじめだ何だと騒がれる昨今、多勢が無勢を痛めつけるのは社会の風潮なのかも知れず、そういう意味では時代遅れのお礼参りも最先端の行為なのかも知れなかった。
「あんただけで来りゃあな」
「ああ?」
「見直したかも知れねえのによ」
 煙草の灰を床に払い呟く哲に、小宮山が歯軋りする。
「小宮山さん、用意——」
 哲は腕をしならせ駆け寄ってきた運転手の髪を捕まえると、力いっぱい手前に引っ張った。振り回すように引き摺られ、爪先を支点にして回った男の身体が裏返り、背中がこちら側を向く。腰の真ん中を蹴り飛ばすと男はくぐもった悲鳴を上げて床に這う。その背に跨り後頭部に握り合わせた両手を叩きつけると男は絨毯を敷いた床の上に昏倒した。
「松橋——!!」
 喚く小宮山を振り返って立ち上がり、哲は煙草を銜えたままにやりと笑って首を鳴らす。くだらない喧嘩だが、売られた喧嘩は買うのが信条だ。
「嬉しいね、素人さん相手と違って手加減要らねえってのは。勃ちそうだぜ」
 煙草を吸い込み目を細める哲の尻で携帯が鳴動する。哲は細かい振動を意識から追い払い、ベージュの絨毯の上に火のついた煙草を落として踏みにじった。

 

 マツハシと呼ばれた男は早々に倒れたが、それでも三人。テーブルやソファを取っ払った部屋の中で、それなりに蹴られ殴られしつつも、哲は切羽詰った危険は感じなかった。
 懐に飛び込んできた男の顎に膝をぶつけて仰け反らせ、掌底を鎖骨に叩き込む。男は棒切れのように仰向けに倒れ、小宮山と残る一人が発する威嚇の怒声も些か勢いが薄れ始めた。哲は絨毯の上に血の混じった唾を吐いて頬を歪め、髪をかき上げた。
 尻ポケットの電話は何度か鳴った後は沈黙している。ナカジマが連絡した秋野かとも思ったが、別に来て欲しいとも思わなかった。小宮山と林を相手にしていたときより余裕はないし、それなりにやられてあちこち痛むが、ひとつもやられない喧嘩と言うのも面白くない。別に秋野が来なければ命が危ないわけでなし、今あの男の顔を見たところで何がどうなるわけでもなかった。
「なあ」
 哲が声をかけると、小宮山ともう一人が身構える。小宮山は如何にも若いヤクザと言う雰囲気だが、もう一人はそうでもない。こいつが一番喧嘩慣れしているが、ジーンズの尻にナイフを挿していて、それがどうにも気に入らなかった。刃物を使う喧嘩は哲の好むところではない。
「下の奴、連れて来ねえのか」
 ビルの入り口に残してきた若いのは、結局姿を見せていない。長年で最早習い性となっている喧嘩の最中の挑発に、小宮山が青筋を立てた。しなければいいと分かっていてもしてしまう自分が馬鹿だと思うのだが、今更変えようにも変えられない。
「減らず口叩きやがって、こいつ」
「それが俺のいいところじゃねえか」
「この野郎、ふざけてんじゃねぇ!!」
 突き出された刃を掴もうとしたのは咄嗟の反射的な行動で、正直言って何一つ考えてはいなかった。やばいと思ったのは右手で刃を掴んでからで、指の第二関節の近くに鋭い痛みを感じて我に返る。しかし頭の反応より先に身体が動き、離そうと思った指はそのまま刃を握りこんで引いていた。
 引っ張られ倒れこんできた男の身体を、女にするように胸に抱きこんだ。ナイフから離した右手で顔の真ん中を殴りつけると、鼻の折れる感触が拳に伝わる。鼻血と哲の血で顔を赤く染めた男は、身を捩って甲高い声で悲鳴を上げた。
「おいおい、刃物なんか出すな、まったく。つまんねえやつだな」
 哲の声に被せて男が上げた声、小宮山の怒号、屋外を通るパチンコ屋の宣伝カーの喧しい音楽、勢いよく開いたドアが壁に当たる音。様々な音に一瞬状況を見失いながら、哲は開いたドアへ目を向けた。
 恐らく物のようにドアにぶつけられたと思しき、噂の見張りの男が勢いよく室内に転がり込んできた。体操選手か何かのようにきれいに床の上を転がると、小宮山の足に激突して止まる。背後に続くのは当然と言えば当然だが、煙草を銜えた仕入屋だった。
「派手な登場だな、おい」
「お前が電話に出ないから」
 呆れた哲の顔を見た秋野はそう言って薄く笑ったが、視線を落とし、哲の右手に目をやって顔色が変わった。その表情を見て漸く痛みに気づき、哲は血の伝う掌を見た。
「何だそれ。斬られたのか」
 言いながら秋野は素早く視線を巡らせた。視線は小宮山、床に倒れ失神している二人、自分が放り投げた男、鼻を押さえて床に座って呻く男と撫でていき、男の傍らに落ちたナイフを見て秋野は思い切り顔をしかめる。
「いや、刃掴んだ」
「馬鹿かお前は」
 秋野は不機嫌そうに短く吐き捨て、大股で部屋に入って来た。小宮山は秋野に気圧されたのか、視線は落ち着きなく泳いでいるが、突っ立ったままこちらを見ている。
 秋野は哲に近づき手首を掴んで掌を上に向けた。哲はそこで初めて自分の傷を見たが、浅くはないが危険なほど深くもない、もしかすると何箇所か縫うかもしれないという程度の傷だった。なまくらナイフでよかったと、ぼんやりと思う。血は今は流れているが、恐らくそのうち止まるだろう。
「……錠前をいじれなくなったらどうするつもりだ」
 部屋の温度が下がるような冷たさで、無表情に秋野が言う。
「指先じゃねえし」
「屁理屈こねるな。途中から指が落ちてたかも知れないだろうが」
「そこまで鋭い刃物——」
 最後まで言い終わらないうちに、哲は眼の端で光るものを見た。

 哲が反射的に行動に出たのと、小宮山が怒鳴りながら秋野に腕を振りかざしたのと、秋野が振り返ったのと。一度に起きた動きをすべて把握したわけではない。哲は殆ど頭で意識することなく、本能だけで腕を横に薙ぎ払った。
 痛みはまるで感じない。引き裂かれた皮膚の不快な感触と、一気に血が下がるような感覚、それに金属の冷たさだけを知覚する。吹っ飛んだ小宮山が壁にぶち当たってくぐもった呻きをあげた。哲の動きに一瞬遅れて振り返った秋野は瞬時に哲に目を戻す。哲の血が飛び散った秋野の顔から表情が消え、顔からそれこそ血の色が抜けた。
 秋野が黄色い瞳で凝視する哲の腕は、袖が裂け、そこからぱっくり開いた傷口が覗いていた。流れる血が腕を伝って袖口からぼたぼたと床に滴る。哲はその血が自分のものとは思えずに、酷く醒めた目で腕を眺め、案外と血の量が多いと呑気に考えてみる。
 動脈血じゃないから死にはしない。何となくそんな風にも思い、床に落ちる飛沫に目を向けた。

 秋野が身を翻し、起き上がろうともがく小宮山を跨いで立った。
「野郎、畜生……てめえら」
 小宮山の台詞を聞きもせず、秋野は屈みこんでシャツの胸倉を手荒く掴む。強烈な右フックが小宮山の顔に叩き付けられ悲鳴が上がった。ぐらり、と後ろに傾く小宮山の頭をシャツを引っ張って引き戻し、壁に身体ごと叩きつける。
 秋野は一言も発さず、表情も変わらない。ただ、フィルターを噛む顎に筋肉の筋が、こめかみに太い血管が浮いただけだ。いっそ怒鳴ったり顔を歪ませたりしていればいいものを、却って得体の知れない恐怖感がその場に広がるのが、まるで目に見えるようだった。
 小宮山はまだ右手にナイフを持っていた。哲の血がついたそれを、しゃがんだ秋野が優しくと言ってもいい仕草で取り上げ、滑らかに逆手に持ち変える。
「秋野」
 一瞬嫌な感じがして、哲は思わず秋野の名前を呼んだ。

「うわあああっ!!」
 躊躇も、手加減もなく。
 小宮山の腿に突き立てられたナイフは、その場の人間の視線を一身に集めていた。秋野に床に放り出された若い男とナイフの持ち主が見つめる中、秋野は突き刺したナイフの柄を掴んで無造作に捻る。秋野は大声で自分を罵倒する小宮山にちらりと眼を向け、酷く冷静な声を出した。
「黙れ」
 拳が柄に思い切り叩きつけられ、哲は思わず首を竦めた。見ていた男たちの口からそれぞれにか細い息が漏れ、部屋の空気が微かに揺れる。
 小宮山は最早声も出ないのか、唇の上にびっしりと汗を浮かべ、蒼白な顔で口をぱくぱくさせているだけだ。
「こいつの腕と指に少しでも後遺症が残ったら殺す」
 秋野は僅かに首を傾げ、脂汗の浮いた小宮山の顔を正視して低く、呟くように恫喝した。
「素人が、と思うか? 殺し方ならあんたよりよく知ってるよ」
 煙草を指で挟み、ナイフの柄に擦り付けて消すと、小宮山の腹の上に吸殻を放り投げて立ち上がる。
「来い、哲」
 普段と何一つ変わらない深い声の裏側に、氷のような冷たさが僅かに見えた。