仕入屋錠前屋46 傷ついたままでいい 1

 ドアを開けたら灰皿が目の前を飛んで行った。
 哲の後ろの男がああっ!? と、その生業にしては些か情けない声を上げた。部屋の中から逆に凄みの効いた大音声が突風のように吹き付けて、本気でよろけそうになる。
「ふざけてんのかてめえ! 出来る出来ねえじゃねえ、俺はやれって言ってんだ!! 金がねえならその目玉でも内臓でも売っぱらって都合しねえか!!」
 奥に見えるナカジマの、平素はキツネのように見える顔は、今は般若のような形相になっている。黙って踵を返した哲に、案内してきた男が慌てて追いすがった。
「ちょ、待って下さいよっ」
「待ってって、こん中入って待てってんですか? 冗談じゃないですよ」
「あ、まあそうっすね……」
 哲のしかめ面に男は頷き、ドアを恐る恐る閉めて戻ってくる。ドアの隙間から漏れるナカジマの声は、さすが本業、先日哲とやりあって逃げ帰った下っ端とは天と地の差だ。あのおっさんも本当に立派なヤクザなのだと、哲は変なところで感心した。
 へっぴり腰の男に案内され、小さな応接のような部屋に通されて顔をしかめる。飾られた模造品らしき日本刀とやたらと威勢のいい筆字が踊る掛け軸が、昼飯を食ったばかりの胃にもたれた。

「いやー、待たせたな、坊主!」
 一転、にこやかなキツネ面でナカジマはのたまったが、先程の人物と同一だと思えばこの笑顔すら嘘くさい。もっとも哲にいい顔をして得することもないだろうから、単に自分がナカジマにとって脅威ではない、威嚇する必要のない小物であるというだけなのだろうが。
 哲は灰皿の中の吸殻と空になった湯呑茶碗に目を落とし、別に、と呟く。ナカジマはマルボロライトを銜えると、毒々しい赤紫のシャツの襟を引っ張ってシルバーグレイのネクタイを僅かに緩めた。いつ見ても服の趣味が悪い。まるで場末のホストクラブのオーナーか何かのようだ。
「何の用っすか」
「いやあ、この間はウチの小宮山と林が迷惑かけたって言うじゃねえか。それでお前、上司としてこりゃ謝っておかねえと、と思ってよ」
「……おっさん、厚顔無恥って言葉聞いたことあるか」
「相変わらず言うねえ、お前さん」
 ナカジマは大口を開けて笑い、煙草の灰を灰皿の縁で払う。さっきはこれよりでかいクリスタルの灰皿を飛び道具にしていたが、今は本来の用途で使うことにしたようだ。
「そんなこと言うのにわざわざ呼び出したのか? そんな暇じゃねえだろ、あんた」
 哲が煙草を銜えて顔をしかめてみせると、ナカジマは喉を鳴らして笑う。こうして見ていると意外に愛想も愛嬌もあるが、それがこの男の本質だと思うほど馬鹿ではない。
 コミヤマとハヤシというのは、この間のスーツとパーカーのことなのだろう。そもそも自分が多少撫でてやれと言ったから哲に迷惑がかかったのだと言うことは、敢えて無視しているらしかった。
「別に謝ってもらう必要ねえよ。俺はやりたいようにやったんだし」
 実際、抵抗するなら好きにさせろというナカジマの言葉を目一杯自分の都合で解釈し、北沢組の末端を二人痛い目に遭わせたのは事実なのだ。本来なら組事務所で茶など飲める立場ではないのだが、向こうがその程度のことと認識しているならそれでいいし、言われたから来るというのも哲にとってはそれなりに妥協であった。
「あの桐原って男なあ。まあ、しけた男よ。結局女房に追ん出されて泣き付いてきたがね」
 ナカジマは煙草を吸い込み、目を細めて煙の行方を追いながら口を開いた。
「あんたらにか。馬鹿じゃねえの」
「お前さんもそう思うだろ? 大体がウチとの取引わざわざ帳面なんぞにつけやがって、かみさんがあれ持ってサツに駆け込んだらいちいち面倒くせえってのが分かってねえ。まあ、実際動かしてたのは俺じゃねえから嘴挟む気はねえがな、何の見返りもねえのに助けてくれってな虫がよすぎる」
「はあ」
「まあお前さんにはもう関係ねえ話だろうけどな」
「まあ」
「おいおい、もうちっと何か言えや」
「余計なこと言って海に放り込まれたくないんで」
 哲の答えに笑い、ナカジマは煙草を灰皿に放り込む。消えかけの煙草から立ち昇る煙を挟み、哲はナカジマの顔を眺めた。随分と機嫌がいいが、先程の相手が目玉か腎臓でも差し出したか。考えたくない想像を頭の外に追いやって、哲も煙草を揉み消し腰を上げた。
「そんじゃ、」
「ああ、待て待て、まだ終わってねえ」
「…………」
「そんな顔すんなって、つれねえなあ」
 顎で促され、哲は仕方なく再度ソファに尻を下ろした。

 

「ああいうのもいいけど、もっと楽しいもの作りたいよね」
 仙田は秋野にそう言うとへらりと笑う。仙田に頼んであったのは診断書の偽造だ。品物はいつもどおりの出来栄えで問題ないのは確認した。では何故秋野がまだこの安っぽいファーストフードの片隅のテーブルにいるかと言うと、仙田の隣で相変わらず不機嫌そうにしている葛木のためだった。
「じゃあこれが鍵だから。スペアは作っても構わない。あんたが出たら鍵は変える」
 仙田を無視してテーブルの上に鍵を載せると、葛木は小さく頭を下げた。
「ありがとうございます」
「礼の必要はないよ。あんたは客だろう」
「あーあ、ほんとに葛木出てっちゃうの? つまんないー、葛木の不味いカレーライス食べられなくなっちゃうじゃん」
「うるさいっ! 不味いなら食うな!」
 秋野は思わず笑い、葛木はばつが悪そうに一瞬黙った。
 合わなさそうな二人だが、普段はそれなりにうまくやっているようだ。葛木は以前の仲間内から干渉されたくないと言う理由で仙田のところに転がり込んでいたのだが、さすがにこの男と生活を共にするのは一苦労らしかった。
 最近葛木は、探偵の助手をしている。探偵は六十二歳、家出人探しを専らにする穏やかで優しい元警官だ。今まで助手は持たなかったが最近持病の腰痛が酷くなり、荷物持ちその他諸々の雑用係を探していたのだ。真っ当な会社に勤め月給を貰う身にはなれないが、犯罪者になるほど悪くもない。どっちつかずの葛木に斡旋するには、適当な職だったと我ながら思っている。
「ねえねえそういえばさ、この間女連れで歩いてたでしょ」
 葛木の文句をのらりくらりとかわしながら、仙田がさも今思い出したと言わんばかりの顔で言う。まったく、本当は言いたくて堪らなかったに違いない。確かに先日女と歩いた辺りの住所に、秋野はあっさりと頷いた。
「ああ、確かに行ったな。あそこのカフェの限定デザートが食べたいとか何とか、女ってのはああいう店が好きだな」
「あ、でもね、美味しいんだよ、あの角の店でしょ? あそこのガトーショコラね、それとね、意外にカレーもいけるんだよ」
「そうか」
「うん。あ、葛木、これから行こうか!」
「一人で行け!!」
「何で? 一人で行っても楽しくないもん。いいなあ、美女とデート。錠前屋さんに言っちゃうよ」
 仙田と話していると本当に訳が分からなくなりそうだ。秋野は葛木は案外大物なのかと思いながら煙草を灰皿に擦り付けた。
「言えばいいだろう」
「怒られたりしないんだ」
「何で? 俺がどんな女と歩いてようがお前にもあれにも関係ない」
「俺は葛木が俺以外と二人で歩いてたら嫉妬しちゃうかも」
「大抵お前以外と一緒だよ馬鹿仙田!」
「あれ? そうだっけ」
 まだ漫才を続けている二人に手を上げ、秋野はファーストフードを後にする。結局は二人でその店に行きカレーを食べ、仙田はケーキもつけるのだろう。秋野は小さく笑みを零し、平和だな、と呟いた。

 

「さっきも言ったが、あの件に関しては、俺は動いてねえんだ」
 ナカジマは二本目の煙草に火を点け、ゆっくりと吐き出した。痩せた身体には、あまりスーツが似合わない。あれだけ洒落者の遠山がついていながら、と思いもするが、スタイリストや女房ではあるまいし、服装までは世話はしないということなのか。
 煙草の煙に僅かに霞むワインレッドのワイシャツの寛げられた襟元を何となく眺め、哲はナカジマの台詞に頷いた。何を言いたいのか、別に言い訳をしてもらいたいとも思わないが、遮るのも何だから黙って聞く。
「小宮山と林が写真持ってうろうろしてたんで覗いたらお前さんが映ってたんで、あいつらの上の下川っての跳び越して俺が指図はしたけどよ。この下川ってのが桐原んとこ食い込んでてな。まあ、小さい事務所持たせて色々やらせてる、ウチの有望株なんだわ。おい、入れや」
 ナカジマがドアに向かってそう言うと、男が一人入ってきた。哲の顔を見て表情を険しくした男は、今日も開襟シャツにスーツを着ている。シャツは白、スーツはピンストライプがヤクザ臭い黒。ナカジマもせめてこいつを見習えばいいのにと場違いなことを考えた。
 哲が男の顔からゆっくりと視線を戻してナカジマを見据えると、ナカジマは苦笑して頭を掻いた。本当に困った、と顔に書いてあるが、どうやらこれは演技ではないらしい。素で苦笑するナカジマに、哲は思わず吹き出した。スーツが目を剥いたが、ナカジマは哲が笑うのを見て益々笑う。
「で、俺は錘つきで海に沈むのか」
「まさか。そこまではしねえよお前」
「じゃあ何よ」
「あの後小宮山が俺んとこ来てなあ。お前さんにお礼参りしたいっていうわけよ」
「——部外者の俺を庇って組の人間立てねえってわけにゃいかねえもんなあ、おっさんも」
「……物分りがよくて本当に好きだぜ、坊主」
「身に余る光栄ってやつか」
 ナカジマは煙草を乱暴に捻り潰すとスーツに目を向け、打って変わった低い声で鋭く言った。
「小宮山」
「はいっ」
「連れてけ。下川の事務所使え」
「はい」
 哲に対するときとは違う声に、これが本来のナカジマだろうと哲は思う。自分の身が危ないと言えば危ない状況にしては些か呑気に過ぎるかとも思うのだが、焦っても今更仕方がない。
「いいか、チャカはなしだ。連れてくのはお前が昨日言ってた四人だけ。この兄さんは強えからな、お前らも痛い目に遭うだろうが、絶対殺すな」
 スーツは唇を噛んで哲を見たが、哲が睨むと目を逸らし、ナカジマを見て首肯した。
「……分かりました」
 小宮山が動いたので、哲は促される前に立ち上がった。ナカジマがここまで言えば、殺されるまではないだろう。どうせ痛めつけられた仕返しと言うだけだ。
「坊主」
「ああ?」
 哲が振り返ると、ナカジマはソファに腰掛けたまま細い目を更に細めて哲を見た。
「ひとつ、用事を忘れてた。頼みたいことがあってな、仕入屋の番号、教えてもらえねえか」
「…………」
 哲は思わず眉を寄せてナカジマを見る。ナカジマはにっと笑うといいじゃねえかと言いながら携帯を取り出した。
「電話帳に登録したりしねえからよ」

 事務所から連れ出され、哲は車に乗るように命令された。小宮山はこの間のことをよほど恨んでいると見え終始顔を歪めていたが、哲にしてみれば些か逆恨みのように思える。大体において勝手に人をおばさんの不倫相手と勘違いしたのは小宮山側だ。ボクサーにしてもカウンターにいちいち腹を立てているようでは相手を殴れない。もっともそれを説いたからと言って状況が変わるものではないから黙っていたが、子供じみているな、と思わないでもなかった。
 今時刺青背負って肩いからせて、というのも流行らない。流行り廃りの問題ではないのかも知れないが、実際従来通りのやり方では暴対法にひっかかる。そういう世情を理解していないわけではないだろうが、下っ端というのはどこの世界でも洗練されていないものだから仕方がないのか。
 お礼参りとか何とか、今時高校生だってしないのではないかと思うが、そもそも不良高校生という存在自体がほぼ死に絶えているらしいから、そんな比較すら無意味ではある。シルバーの車体に濃いスモークガラスという笑ってしまうくらいそれらしい車の後部座席で、哲はこの後に思いを巡らせた。
 後続の一台——こちらは如何にも改造車という下品な低車高だ——には二人、小宮山と合わせて五人になる。広い屋外ならいいが、狭い室内で五対一というのはさすがに不利だ。四人がかりで押さえつけられでもしたら、小宮山のいいサンドバッグになるだろう。そう思いながらも取り立てて危機感を感じることなくここにいるのは、自分が既に興奮し始めているからだと気がついて苦笑が漏れた。
 何せ大っぴらに喧嘩出来る上、相手は素人と違って多少傷めつけても問題ない。これ以上楽しいことはそうそうないと、口の端が持ち上がるのを止められなくて薄く笑う。運転席の若い男がルームミラーで哲を見て、ぎょっとした顔をすると急いで目を逸らした。
 ふと事務所を出がけにナカジマに聞かれたことを思い出す。余計なお世話になるか、有難い加勢になるか。しかしこれは自分の喧嘩で、あいつの出る幕ではない。
 遅れて来い。俺が死んだら骨でも拾え。
 口の中で呟いて、哲はシートに深く身を沈めた。