仕入屋錠前屋45 傷を抱えた善 6

「っらぁ!!!」
 気合とともに、片手で掴んだパーカーの頭を壁に打ち付けた。勿論死ぬほどやってはいない。伊達に場数は踏んでいないし、すぐに終わっては意味がない。既に何箇所も赤黒く腫れ上がったパーカーの顔から血が流れ、壁に点々と染みが散った。
「野郎っ!!」
 罵声と共に背中にスーツの蹴りが入ったが、哲はパーカーの顔を壁面で擦るようにしながら支えにし、身体を捻ると鳩尾に踵を思い切り突っ込んだ。スーツが激しく咳き込みながらよろけて一歩後ずさり、哲は更に振り上げた足をスーツの肩に打ち下ろした。膝を折り、しゃがんだ男を踏み越えるように地面に叩きつける。つんのめって転がった顔をサッカーボールのように爪先で掬い上げ、落として踵で踏みにじる。
「うわあっ」
 やけくそのような雄叫びとともにパーカーが後ろから掴みかかってきたので、仰け反らせた後頭部をその顔面にぶち当てた。ぐしゃりという感覚は、パーカーの鼻が折れたのだろう。自分の顔が上機嫌に歪むのがよく分かる。人格も歪んでいると自覚はあるが、だから一体何なのだ。
 振り返って胸の真ん中を蹴り飛ばすとパーカーはもんどりうって地面に倒れた。スーツはまだ地面に転がって肩と顔を抑えて唸っている。パーカーの前に立って屈み込み、左手で胸倉を掴んで持ち上げて、哲は楽しげに囁いた。
「寝てんじゃねぇよ、立て、おい」
「——……っ」
「鼻が折れたか? 気にすんな、死にゃしねえ。あんたらもヤクザなら箔がつくってもんだろうが、ええ?」
 左手で鼻を押さえて呻くパーカーの視線は既に弱々しい。哲は服を掴む手を捻り上げ、パーカーの首を締め上げた。パーカーは苦しそうに息を詰まらせ、やめてくれ、と小さな声で訴える。
「さっきまでの偉そうな態度はどうしたよ。俺が思ったより弱くなかったか? 相手によって変えんならよ、」
 爪先を脇腹に押し当てて抉るとパーカーの目尻に涙が浮かぶ。嗜虐趣味はないからまったくもって嬉しくない。嬉しくないが、哲はにたりと笑ってパーカーの鼻先に顔を近づけた。
「最初から調子に乗んな、下っ端が!!」
 思い切り怒鳴りつけ、右のフックを顎めがけて振り下ろす。骨の硬い感触を拳に感じ、一瞬肘まで痺れが走った。左手を離すとパーカーはどさりと地べたに転がって、意識が飛んだのか動かない。息を吐いて右手を振り、哲はスーツを振り返った。
「てめえ、ただで済むと思うなよ…………!」
 よろけながら立ち上がったスーツが叫びながら肩から突っ込んで来たが、哲は咄嗟に重心を落としてスーツを肩から背中に担ぎ上げ、捻りながら払い落とした。背中から落下したスーツが頭を打って大きな声を上げた。その腹の上に片足を乗せて体重をかける。
「くそぉ……!!」
「寝るには夜は早えっての。生憎俺は強欲なんでな、こんなんじゃ——ああ?」
 足の下のスーツを見下ろした哲の尻で、携帯が振動し始めた。出る気はなかったが、スーツが転がったまま呻いているので取り敢えずと思って引っ張り出す。スーツの上から足を退け、一歩下がって携帯を覗き込む。液晶画面に表示される秋野の番号に、哲は思い切り顔をしかめた。
「この電話は現在お取り込み中だ。くっちゃべってる場合じゃねえ」
 相手の声も聞かずにそう言って通話を切ったが、ポケットに戻す前に携帯はまた鳴動し出した。
「ああ畜生、うるせえ野郎だな、てめえは! 切るぞ!」
「切ったろうが、さっき」
「何か用か」
 言いながら、起き上がったスーツの腹をひとつ蹴る。スーツがぐえっ、と情けない声を出した。
「——哲、何してるんだ?」
「喧嘩」
「……そういう、幸せそうな声も出せるんだな、お前」
 秋野の呆れたような声音に、哲は思わず笑いを浮かべる。
「おお、滅多に出ねえぞ。耳の穴かっぽじってよく聞いとけ、記憶に刻んどけ」
「何人?」
 スーツが立ち上がろうともがいている。それを目の端で眺めながら、哲は煙草を銜えて火をつけひとつ吸い込んだ。
「二人。ナカジマのおっさんとこの」
「ヤクザか。まずくないのか」
「ナカジマのおっさんの許可付きだからいいんじゃねえの? あのおっさんも無害に見えて結局極道だよなぁ。性質の悪いとこはお前に似てるわ」
「大丈夫なのか? そっち行くか」
 秋野の問いに、哲は不機嫌に煙を吐き出した。スーツが立ち上がりかけて咳き込み、膝を折った。気がついたパーカーが起き上がって袖で鼻血を拭い、尻餅をついたまま後ずさる。
「誰に向かってもの言ってやがる、仕入屋。殺されてえか」
「大丈夫ならいい。好きにしろ」
 切れた電話をポケットに突っ込み、哲はこちらを見つめるスーツの男に向かって片頬を歪めてみせた。
「来ねえってよ」
「…………は?」
 男の怪訝な顔に、怯えの色が濃く滲む。哲は銜え煙草の先を揺らしながら、更に笑った。
「あのクソ馬鹿の、こういうところがたまんねえんだよな。ま、大方はむかつくんだけどよ」
 スーツが何か言いかけた瞬間、パーカーが突然立ち上がり脱兎の如く走り出した。哲は咄嗟に手の中の携帯電話を振りかぶり、パーカーの頭に向かって投げつけた。前のめりに倒れたパーカーの姿にスーツはかくりと膝を折る。
「あーあ。壊れちまったかな」
 哲は顎を掻き、まあいいかと呟いて煙草を靴底で揉み消した。
「……さて、まさかこれで仕舞いじゃねえだろうな」
 吸殻を拾いながら邪悪に笑う哲の低い声に、スーツの男は地面にぐったりとうつ伏せた。

 

「全然足りねえ」
 哲の台詞に、秋野は片方の眉を上げ、銜えた煙草の穂先を赤く光らせた。吸い込んだ息が呆れなのか笑いの兆しなのか、哲には分からないしどうでもよかったが、点る小さな火の色に、何とはなしに目をやった。
「お前、絶対いい死に方しないんだろうな」
「それがどうした。てめえにゃ関係ねえだろが」
 哲の携帯は液晶画面にヒビが入り、角の部分がへこんで事故車のようになっていた。呼び出された秋野は何十分かどこかに消えると新しくなった携帯を持って、何事もなかったように帰ってきた。手渡された小さな機械をろくに見もせずジーンズに捻じ込むと、哲は立ち上がって首を鳴らす。
 結局哲のお楽しみには呆気なく幕が下りた。パーカーは携帯をぶつけられて昏倒し、スーツも地面に伏したまま動かない。動かないものを痛めつける趣味はないから、携帯を拾ってみたら壊れていた。そこで秋野に電話をしたと言うわけだ。携帯と同じようにボロボロになったスーツとパーカーの二人組は暫く経って這うように起き上がったが、何も言わずに放っておくと支え合うようにしてひっそりと姿を消した。
「エンジンかかんのはこれからだってのに、まったく……。仮にもヤクザなんだからもう少し殴り合いの訓練くらいしておかねえと」
「今時武闘派でもないだろう。それより何であんなのが出てくる?」
「あのオバサンの浮気相手に間違われたんだよ」
 哲の台詞に秋野は一瞬動きを止め、吹き出した。
「ああ、そういうことな。旦那がヤクザに別れさせ屋を頼んだってことか。分かってないねえ」
 肩を震わせて笑う秋野を睨みつけ、哲は自分も煙草を取り出した。
「よくは分かんねえけど、ナカジマのおっさんが隠し撮りの写真見たんだろ。そこで事情は分かったはずなのに飲み込んだってことは相当キツネだぜ。ま、顔はまんまキツネだけどよ。それとも旦那が女房にもヤクザにも、そろそろ捨てられ時だったっつーことか」
 喋りながら煙草を銜える哲に秋野が近づく。煙草を右手の指で挟むと顔を寄せ、こちらは煙草を銜えたままの哲の唇を緩く吸い上げた。唾液に湿る煙草が唇の端から地面に転げ落ちる。哲は秋野の髪を手荒く掴んで力任せに引き剥がした。
「あのオバサンとこには行かねえだろうな」
「行かないだろう。行ったところで仕方がない」
 秋野は何事もなかったように煙を吐き出し、哲の顎に乱暴に手をかけた。気遣いの欠片もない荒っぽさで仰のかされ、低く唸る。
「何だって、凄惨だな」
「ああ? 何が」
「顔中に返り血ついてるぞ」
「そんな流血してたか? あいつら」
「べったりじゃないが、飛び散ってる」
 言われて顔を擦ると確かに掌に赤い筋がつく。パーカーの鼻血か何かに違いない。
「帰って顔洗えば取れんだろ。そういやお前俺の煙草落とさなかったか」
「かもな」
「かもなじゃねえよ」
 顔をしかめ、秋野の手を振り払って煙草を拾う。さすがに吸う気にはなれないそれを、秋野の上着のポケットに突っ込んだ。ポケットごと手を掴まれたと認識した瞬間腹を蹴り飛ばされる。手加減なしで食い込む踵の勢いに吹っ飛びそうになりながら、掴まれた手のせいで哲の身体はその場に留まった。
「ぶち殺すぞこのクソ虎ぁ!!」
 怒声を上げる間もあらばこそ、煙草を持ったままの右の掌底が頬にめり込む。頬の肉を噛んでしまい口内に金気臭い味が広がった。唾を吐き出し手を捻るが、馬鹿力で振りほどけない。右手で骨ごと顔を掴まれて、哲は腹の底から唸りを上げた。
「死にてえのか」
「いや」
 煙草の熱をこめかみの辺りにうっすら感じる。秋野の色の薄い瞳が煙の向こうで酷薄な色を浮かべた。
「……てめえは、傷のある善人どころか」
「ん?」
 鉤爪のような指が顎の骨を掴んで無理矢理口を開かされた。押し入ってくる舌の凶暴さに眩暈がする。思い切り噛まれた舌に痺れるような痛みを感じ、傷を吸われて怖気が走った。
 カラーコンタクトの嵌らない瞳は、既に開けられた錠前なのか。
 凶暴さと獰猛さを薄い膜一枚で金色の向こうに閉じ込めて、獣は笑う。自分の内臓と血の上に立ち、笑いを浮かべて次はお前だと吼える虎。
 夫を捨てきれない女、何かを間違った夫、兄思いの服部、杏子。人間が傷を抱えた善であるというのなら、果たして俺もそうなのか。そのことばは哲にはしっくり来なかった。悪だといきがるつもりもないが、善というには秋野も自分も壊れすぎているのだと思う。そうか、だからお前は俺を惹きつけるのかと違うところで得心した。
 アスファルトを踏む足音がして人の存在を感じたが、圧倒的な秋野の気配にそれはあっさりかき消された。秋野の頭の向こうに、星の見えない都会の空が見えていた。

 秋野の右手から長い灰になった煙草が滑り落ち、白い粉を撒き散らした。通りすがった誰かの気配は既にない。
 深く長く、暴力的な口付けを交わす。舌で突かれる興奮に小さく呻き、哲は秋野の髪に手を差し込んだ。両手で秋野の髪を握り締め、仰け反った頭を戻す反動で勢い良く頭突きを食らわす。秋野が低い罵声を上げ、その腕から逃れた哲は乱れた息の隙間で笑った。
「油断大敵ってな。やってる最中でも気ぃ抜くな。俺を誰だと思ってる、仕入屋?」
「まったく、手加減しろよ」
 舌打ちした秋野は不機嫌に顔を歪ませ、前髪をかき上げた。
「生憎俺は善人じゃねえ。傷のあるなしにかかわらず」
 今度こそ煙草を銜え、火を点ける。
「——だからお前は俺の手に負えないって言うんだよ、哲」
 溜息と苦笑が半々、吐き出された秋野の息が、白く浮かぶ煙を揺らした。
 女のスカートの裾のような儚い煙。開けてしまった錠前を閉じるかそのまま放置するか、それは持ち主次第なのだ。
 傷を抱えた、善でない何ものかは暗がりの中うっすら笑う。じゃあな、と呟いて遠ざかる背中に感じるものは何もない。
「秋野」
 呼びかけた声に背中が立ち止まり、低い声が穏やかに返事を寄越した。
「何だ」
「お前って奴は本当にろくでもねえ」
 にたりと笑い、秋野はそのまま路地に消えた。哲は煙草を吸いきるまで、漢方薬局の裏手でぼんやり立ち尽くす。路地の隙間、雑居ビルや店舗が建て込んだその場所の四角く切り取られた夜空に僅か、星が見えた。立ち昇る薄い煙が星の合間を縫う川のように流れていく。
「いかれてんな」
 お前も、俺もだ。
 四角い空にぼんやり呟く哲の低い声を聞いたものは、多分誰一人いなかった。

 

 数日後、服部が笑顔で哲にのたまった。
「佐崎さん、漢方薬局の裏で彼女と会ったりしちゃ駄目ですよー、色気ないですね!!」
「……は?」
「園美ちゃんがバイト始めたダイニングバー、あそこのすぐそばなんですよ。帰り道に佐崎さんが恋人とキスしてるの見ちゃったって、すんごいテンションの電話来たんですけど」
「………………」
 手に持った煙草をぐしゃりと握りつぶすと、服部が「佐崎さん、火! 火ついてます!」と大きな声を出した。見上げる夜空は、いつもと何も変わらない。秋野に食いつくように口付けられながら見た空も。一人紫煙と眺めた空も。
 あのろくでなしめ、次に顔を見たら起き上がれないくらい殴ってやる。傷を抱えて呻くがいい。
 低く唸る哲の真上、都会の空に瞬く星の輝きはごく弱い。緞帳のように分厚い空に跳ね返るネオンが、いつまでもけばけばしく夜空を染めていた。