仕入屋錠前屋45 傷を抱えた善 5

「佐崎さん、今の人って桐原蓉子じゃないんですか」
 岩倉杏子から電話が入り、依頼人が今から行くと言って来たのは翌日の夜だった。報酬を持ってきたという女を断る理由もなく、短い受け渡しの後走り出す車に頭を下げる。目撃した誰の目にも哲の姿は上得意を送り出す飲食店の店員そのものに見えたに違いなかった。
「キリハラ? 知らねえ」
「知らないって」
「知り合いの知り合いで……この間なんかテレビに出てたな、そういや」
 説明する気もないので適当に誤魔化すと服部は聞いたことのあるバラエティ番組の名前を二つ上げたが、そうじゃなくて、と眉間に皺を寄せて声を潜めた。
「兄貴の会社、あの人の旦那さんの会社と取引があるんですって」
「へえ?」
 哲が振り返ると、服部は手の中の煙草の箱を弄りながら続けた。裏口の煙草休憩は最近すっかり服部と一緒になっている。子犬のようについて回るのを足蹴にするほど暇ではないのでそのまま放ってあるというだけだが。
 兄貴と言えばジッポは喜んだのだろうかと思ったが、しかしわざわざ口を開いて訊くことはせず、哲は服部のピアスが行列する耳に何となく目をやった。
「大きい商談になると必ず第五営業部長っていう人が来るらしいんですけど、それが、ヤクザじゃないかって」
「結託してるってか?」
「見た目はすごい地味な眼鏡の普通のおじさんらしいんです。でも、こう、怖くて逆らえないっていうか、絶対素人じゃないって。脅されたっていう話もあって、でも担当者も怖いのか何もされてないって言い張ってるんですって。それにしてはキリハラの言い値で交渉成立しちゃって、見積もりの意味なんかないとか……兄貴は直接の関係部署じゃないみたいですけどね」
 服部はそこまで一気に言うと煙草の箱をジーンズに仕舞い込み、大きく一つ伸びをした。
「まあ、奥さんには関係ないんでしょうけど。あと二時間ですね」
「もう一踏ん張りだ、ケツの穴締めてけよ」
「……佐崎さんって時々意外と下品ですよね?」
「おお、下品で悪ぃか。うるせえんだよガキが。殴るぞ」
「うわぁ、すみません」
 笑いながら謝る服部のひよこ頭を軽く叩いて、哲は裏口のドアを開けた。
 服部の話は女の話の裏づけでしかなく、報酬を手にした今は忘れて然るべき情報だった。気にしたところで意味はなく、鎧のようにきれいな色を纏った中年女にも、何かを失くした代わりに金にしがみつく男にも、哲は何の興味もなかった。

 

「オニイサン、ちょっと顔貸してくんないかなぁ」
 店を出て、コンビニで煙草を買った。欠伸をしながら歩いていたら背後から分かりやすい台詞が聞こえて肩を掴まれた。
 哲がゆっくり振り返ると、男が二人立っていた。一人は黒いパーカーにジーンズ、スニーカーに茶髪でそこらへんの若者と変わりないが、スーツに開襟シャツの年嵩のほうは明らかに筋者だった。舌打ちしそうになるのを飲み込んで、身体を二人のほうへ向ける。
「何か、用ですか」
 ヤクザと言えど、末端は自分と変わらないチンピラだ。それでも組織が後ろについたチンピラと揉め事を起こせば思わぬ災難を呼び込みかねない。準構成員だろうが幹部だろうが、ヤクザはヤクザ、用心するに越したことはないだろう。
「用っつうかなぁ。まあ、ちょっとこっち来なよ」
 二人に挟まれ、哲は大人しく歩き出した。一体どこの組の人間なのか、それすら分からないで喧嘩を売るほど馬鹿ではないつもりだ。
 暫く肩を押されて歩かされ、シャッターの閉まった怪しげな漢方薬局の裏手に連れ込まれる。来る、と思ったら思ったとおり拳が飛んできて、腹に食い込んだ。
 わざと激しく咳き込んで地面に膝をつく。パーカーの足が脇腹を蹴りつけて来た。打撃には威力はないし角度も甘い。多少蹴られたところで大したことにはなりそうもなかったが、理由がよく分からなかった。
「何すんですか……いきなり」
「お前、年、俺と変わんねえじゃん? あんなオバサンのどこがいいわけ? 金?」
「——は?」
「は、じゃねえんだよ!!」
 スニーカーが鳩尾に入り、さすがに噎せた。スーツが哲の髪を掴み、持ち上げる。睨み付けないようにすると言うのも案外と難しい。哲が視線を逸らすと、スーツの男はあっさりと手を離し、ポケットに手を突っ込んだ。
「人の女房に手を出しちゃいけねえだろう、なあ? 兄ちゃん」
 その台詞でようやく得心がいき、哲は不本意さに眉間に皺を寄せた。
 今思えば、昨日ビルの下に路駐していたスモークガラスの車は如何にもヤクザ臭かった。光ったのはカメラのフラッシュか何かだったか、どうやらあのキリハラとかいうおばさんの浮気相手と間違われでもしたらしい。何やら酷く納得がいかないが、まあそこは問題ではないのだろう。興信所ではなくヤクザが出てくるあたり、夫とやらのどこか抜けた感覚がおかしくもある。
「俺は」
「女の旦那は言い訳は聞きたくねえってよ!」
 スーツの男の革靴の先がまたも鳩尾に入る。哲は何度か咳き込んで、パーカーに頭を押さえられるまま地面に顔を向けた。こいつらがどこまでやるつもりか、あと何発殴られてやろうかと、哲はぼんやり考える。
「しかしアレですね、何で中嶋さんこいつの面知ってたんすかね」
 黒いパーカーの台詞に、哲は思わず顔をしかめた。俯けたままだったのが幸いで、その顔を見たらまた一頻り蹴飛ばされたに違いない。
「ナカジマ……さん?」
「あぁ?」
「ほら、やっぱ知ってるんじゃないすか、中嶋さんのこと。お前、中嶋さんにご迷惑おかけしたんじゃねえだろーなぁ」
 スーツが膝で哲を小突きながら腕を組んで低く唸った。
「どう見てもこっちの人間にゃ見えねえけどな。何の知り合いだ?」
 最悪だ、そう胸の中だけで呟いて、哲は小さく息を吐いた。数あるヤクザの中で何故北沢組の系列を選んだのか、見知らぬ依頼人の夫を一発殴ってやりたくなる。実際北沢組本体と繋がっているのか、その下部組織となのかは知らないが、どちらにしても大差ない。一切関わりたくないと言う熱い想いが、どうにも天には届かないらしい。哲は心底気落ちして、肩を落とす。パーカーはその様子をすっかり読み違え、ご機嫌な口調で喋りだした。
「女と会ってるとこ写真に撮ったからな、証拠はあるんだ。写真見せたら中嶋さんが、この男をちょっと可愛がってやれって。でもやりすぎると後が面倒だから適当にってな。だからお前、こんなんで済んでるんだからな」
「お前喋りすぎだ、馬鹿」
 そうは言いながらも、スーツの男もパーカーのよく回る口を止めようとはしなかった。地面に膝をついて大人しくしている哲にすっかり油断しているのは明らかで、頭を押さえつける手の力も緩んでいる。哲は出来るだけ弱って聞こえるよう努力しつつ——実はこれは大層難しかったが——下を向いたまま口を開いた。
「ナカジマさんは、他には何か……」
「てめーに関係ねえだろうが」
 スーツのドスを利かせた声に、パーカーの高音が被さる。
「いいじゃないっすか、別に。どうせこいつ何も出来やしないんだし。お前を適当に痛めつけろって言われてんだよ。お前が抵抗するようなら好きにさせろって。中嶋さんはカンチしないって……カンチってなんだっけ? まあいいや、だからどうせ何の抵抗も出来ないお前は言うこと聞いてすっこんでろってことだよ。あのオバサンから手を引きな。まあ俺なら頼まれてもあんなババアじゃ勃たねーけどな」
 哲は長広舌をふるうパーカーの汚れたスニーカーを眺めつつ、ナカジマのキツネ面を思い浮かべた。哲を気に入ったとか何とか言いながら兵隊はしっかり送りつけてくる。しかしその反面「抵抗するなら好きにさせろ」とは、上司としては無責任極まりない。哲が好きに抵抗すればこの程度の配下二人、どうなるかはよく分かっているだろうに。
 自分には今のところ害はないが、あのオヤジもやはりその筋だと哲は半ば感心し、半ばうんざりした。
 それでもこみ上げてくる笑いの発作に、筋者にはそれなりの筋があるが、自分は単なる馬鹿だと実感する。まったく、一発でも多く殴りたい、この野蛮さはどうだろう。
「……マジかよ。ほんと性質悪ぃな、あのおっさん」
 突然笑い出した哲にスーツとパーカーは揃って間抜けな声を上げる。
「——は?」
「最初から言えよな、あんたも。お陰でしなくてもいい我慢したじゃねえか、柄でもねえ」
 頭を振ってパーカーの手を退け、哲はやおら立ち上がる。男二人は今ひとつ哲の変化の意味が分からないのか困惑顔で立っていた。
「一応体裁だけは俺をしめたことにして、後は知らんってか? あんたらも狐の下で苦労すんな」
「何だこの、てめぇ」
 スーツが険しい表情で詰め寄ってくる。哲は素早く後ろに頭を引き、男の額の真ん中に反動をつけたヘディングをかましてやった。男が大きな声を上げて地面に転がる。横合いから殴りかかってくるパーカーの拳を腕で受け止め、がら空きになった胴に反対の拳を叩き込んだ。腹を押さえたパーカーの襟首を両手で掴み、こいつにも頭突きをひとつくれてやる。パーカーは蛙が潰れたような声を出してその場に派手に尻餅をついた。
「あーあー、そのくらいで寝るなよ、頼むから。俺はやられたら三倍返しって決めてんだからな。楽しませてくれ」
「てめぇ……! 俺らにこんなことしてただで済むと……」
 立ち上がったスーツの眦が吊り上って口元が歪んでいる。哲は肩を竦めて溜息を吐いた。
「関知しねえって、ナカジマのおっさんは言ってんだろが」
 パーカーはうんうん唸りながら立ち上がって再度カンチ? と呟いたが、さすがにスーツは顔が青くなった。
「って、だってお前……」
「ヤクザと面倒起こす気はねえから少ない忍耐力掻き集めて我慢したけどよ、そういう話なら好きにさせて頂こうってことだよ。何せお許しが出てんだから、なあ?」
にやりと笑った己の顔が果たしてどれ程凶悪なのか、哲自身には知りようもない。しかし目の前の二人の顔が、赤青また赤と色を変えていくことから推し量ると、少なくとも見て楽しくなる笑顔には程遠いに違いなかった。
「では、ナカジマさんのお言葉に甘えてせいぜい抵抗させて頂きますよ」
 哲は両手の骨をばきばきと鳴らすと、首を回して地面に唾を吐いた。パーカーがじりじりと後退りし始める。
「こら何逃げてんだてめぇ。殺すぞ」
 歯を剥いて唸る哲の声音に、二人の顔は、今度ははっきりと白くなった。