仕入屋錠前屋45 傷を抱えた善 4

 家族がどうのという話には些か食傷気味の哲は、服部が兄に何をやるのかそんなことはどうでもよかった。それでも秋野から預かった包みを受け取る服部の無邪気な笑顔を見て、男兄弟ならいてもよかったかも知れないと気紛れに思ってみたりはしたのだが。

 岩倉杏子は哲のバイト先にも顔を出し、その服部、親父さんを始め従業員の鼻の下をいいだけ引き伸ばして帰っていった。結局講師の女のテレビの収録だか何だかで日程が延びていたのだが、明日の夜会ってもらうということだった。今日は揚げ物がよく出た店内の油の臭いの隙間を縫うように、彼女の輝きの欠片が煌いているように錯覚して哲は目をしばたたく。
 カウンターの天板を布巾で拭きながら、哲はぼんやりと錠前のことを考えた。杏子のように艶やかな女と、古くて装飾が美しい錠前はよく似ている。一見単純で、見掛けだけが美しい。だが、触れてみればそれは誤解で、単純であればこその頑健さや繊細さというものもまた存在するのだ。
 どこかの複雑怪奇で自称安易な虎男とは大違いだ。そんなことを考えながら、何事もなく時間は過ぎた。

 

 伊藤と会ったら面倒だなと思いはしたが、そんなことを考えても仕方がない。やましいことも何もないのだが、自分の顔を見ることで伊藤がまたぞろ思い悩むというのもちょっとばかり可哀相だと思ってみただけだ。
 背の高い鏡が並ぶ窓ガラスを見上げたのは一瞬なのに、気付けば秋野がこちらを見ていて、哲が睨むと唇の端を曲げてにたりと笑った。まったくもってむかつく野郎だ。
「お前、ここにいて依頼人待ってろ。上見てくる」
 秋野はそう言ってさっさと哲に背を向け、ビルの中に入っていった。哲は煙草を取り出して銜え、眉を寄せて煙を吐き出す。
 以前見たときはそこまで気をつけていなかったが、伊藤の美容室は五階のようで、最上階の空きフロアは八階だった。エレベーターで鉢合わせする可能性も捨てきれないし、ここに突っ立っていても遭遇の確立は結構高い。しかしだからと言って特段足掻く気にもなれず、ぼんやりと目の前の通りに目を遣った。
 人通りは表通りのように多くはないが、誰もいないということもない。路上駐車も何台かいて、一台は濃いスモークガラスがやけに目に付く。何かが光ったように思えて車の窓に視線を向けると、視線を遮るように若い女が目の前を通って行った。アスファルトの裂け目に彼女のヒールがひっかかり、石を引っかく音がする。それに被せるようにタイヤが地面を擦る音がして、目の前に車が止まった。
 黄色い車体のタクシーから降りた女は、確かにどこかで見た顔に思える。バラエティ番組ででも見たのだろう。名前は覚えていなかったし、女も別に名乗らない。結婚した娘がいるのだからいい歳なのだろう。確か五十代と言っていたか、皺はあるが、若い頃の面影を打ち消すほどの皺ではなかった。結い上げた髪も細い首に巻いた薄いスカーフも、なるほどそこらへんのおばさんとは違って垢抜けている。
「……若いのね」
 そう呟き、女はきれいに弧を描く眉毛を僅かに動かして哲を見た。
「荷物は」
「後で来るわ。一緒だと目立つの、大きいから」
 ここでしょう、とさっさと脇をすり抜けて女が行く。女っぽい甘い香りの香水が、ふわりと哲の鼻先を掠めて行った。

 女の香水の甘い匂いと埃っぽいフロアの空気にくしゃみが出そうになる。そうしたからと言って何が変わるわけでもないのに、哲は目の前で埃を払うように手を振った。
 女はさっさとエレベーターに乗り込み、秋野を見てちょっと表情を動かしたが別に何も言わなかった。黒いカラーコンタクトを入れた秋野は相変わらず腹の底の見えない微笑を浮かべて低い声でどうぞ、と椅子を勧める。ギーギー音を立てるパイプ椅子が四脚置いてあったが、うちの一脚は螺子が外れて殆ど分解しかかっていた。
 女が椅子の音に綺麗な眉を顰めていると、男が三人、長い箱を抱えて入ってきた。
「ご苦労様。そこに置いてくれる?」
 テレビ局のスタッフか何かのような若い男たちは勢いよく箱を下ろした。何と説明されているのか、それとも何も考えないのばかりを選んだか、彼らは何を疑うこともいぶかしむ事もなく、ぼんやりと立っている。
「ありがとう。車で待ってて。終わったら小杉君の携帯に掛けるから」
 指示されると途端にスイッチが入るのか、男たちは重要な任務を仰せつかった兵隊のように出て行って、後には三人と箱と埃とパイプ椅子が沈黙とともに残された。

 

 酷く精巧な模様が一面に彫りこまれたアンティークと思しき木の箱だった。合板でないのは素人目にも間違いない。さすがに何の木なのかまでは分からないが、高価なのは一目瞭然だ。
 箱の表面に指を滑らせ、錠前にたどり着く。本当なら素手で触れたい装飾だった。この間錠前のことを考えていてぼんやり杏子を思い浮かべたが、こういう錠前がまさにそれだ。作りは単純至極、てこずることもないだろう。それでもこの美しい頑健さに思わず溜息が出る。
 中に何が入っていようと構わない。
 それがいつもの哲の姿勢であり、今回もそれは同じだ。錠前に限らず人間をも、哲は錠前屋の目でこじ開けるのだと秋野が言った。あれはいつのことだったか、それとも実際に言われたのではなかったか。そのこと自体はどうでもいいし、秋野の言うとおりなのかどうかも、哲にはよくわからない。
 秋野が何を思ってそう言ったのか、分かるような気はするが、だからといってどうすることも出来はしない。要は開けるのが自分の仕事で、閉じるのも壊れるのも、開いたままでいるのも扉なり蓋なりの自由なのだ。
 目の前の中年の女が何を思ってこれを開けるのか、それは哲が知らなくてもいいことだ。錠前の事情も、持ち主の事情も哲には関係ない。もしも出てきたものに傷つけられたとしたら、それは仕方のないことだった。
 無意識のうちに目に見えない凹凸を指で探り、ひっかかりを捕まえる。噛み合った部分を回すとがちりと大きな音を立てて錠前が開く。
 眩暈がするようなこの瞬間、傍らにいることが増えた男の深い部分を、一体いつ開けたのか。
 ふと浮かんだ疑問に哲は僅かに身震いした。

 出てくるのは浮気の証拠か何かかと漠然と想像していたが、箱から出てきた袋に入っていたのは束ねられた何冊ものバインダーや通帳だった。別に興味もないが、女が目の前で袋から引っ張り出したので否応なく目に入る。
「裏帳簿……っていうのかしらね。世間様に知られたくない取引の記録。相手はヤクザみたいね。そうじゃないかと思ってはいたけど」
 ありきたりな話で申し訳ないわ、とおどけた仕草で肩を竦め、使い込んだ大きなブランドバッグに無造作に放り込む。
「これを公表するか離婚かって言えば、主人も四の五の言わないはずよ。訴えられるより別れた方が得だもの。岩倉さんからお聞きになったでしょうけど、離婚するしないで揉めててね」
「——鍵、掛けときますか」
 哲が訊くと、ちょっと考えて彼女は頷いた。箱を閉じ、精巧な鍵を静かに回す。携帯で呼び出された小杉君始め若い連中がまた箱を抱えて部屋の外に出て行った。
 雑居ビルのワンフロア、大した坪数でもないが、何もないだけに広く見える。箱に集中していた意識が分散すると尚更で、目の前のセレブとか呼ばれる女が、急にただの疲れた中年女に見えた。いたたまれない気分になって目を逸らしたその先で、リノリウムの床にうっすら積もった埃が空気の流れにゆらゆらと揺れている。
 女が不意に強い声を上げ、哲は床から再度女の顔に視線を戻した。
「お金お金お金! あの人が好きなのはお金だけよ」
「…………」
「浮気だって多分したことないわね。せいぜいホステス侍らせて大尽遊びの気分を味わうくらい。でもそれだって妻を愛してるからとか、女が嫌いだとかいうわけじゃない、ただお金の方が好きだからってだけなのよ」
 白けたように笑う女に、哀しいものは感じない。彼女の言うことは大方合っているのだろう。誰しも他人の胸のうちを百パーセント把握することなど出来ないが、長年共にあれば自ずと分かることもある。
 自分のことのように知っている連れ合いの、それでもなお分からない何か。それがお互いを愛しむことにも苦しめることに成り得ると、分かっていてもどうすることも出来はしない。
「完全な善人なんかいないんじゃないですか」
 秋野が不意に口を開いた。ずっと黙って座っていたので、存在を半ば失念しかけていたが、口を開いた途端感じる威圧感に自然と体が身構えた。それは女も同じようで、組んでいた足の先が僅かに震える。
「善人だと思ってても、必ずどこかに瑕疵はある。でもそれが当たり前の人間だと思いますよ」
 静かな声に気圧されたように、女は唇を引き結んで床の上に視線を向けた。
「別にご主人を庇うわけじゃありませんが。他の女性から見たら、ご主人が抱える傷が気にならないこともあるでしょう。そういうものだから、あなたもご自分を責めるのは止めた方がいい」
 カラーコンタクトで黒くなった秋野の目は、平素の獰猛さや何かを一切合財封じ込め、穏やかな光を湛えてそこにあった。それがただ黒い小さなレンズで覆い隠されただけだとしても、元からそこにないものと錯覚することは可能だろう。よくよく見知ったものならともかく、そうでないなら尚更だ。
 女が自分の内部の小さな部分に覆いを掛けているということを、同じようにして何かを隠す秋野は敏感に嗅ぎ分けるのかも知れない。例えば、初対面であるということすら物ともせずに。
「私、自分なんか責めてないわよ。あの人だけを責めてるわ。これ以上ないくらい」
「——そう仰るならそれで、僕は別に構いませんがね」
 秋野からふいと目を逸らし立ち上がると、女は哲の方を向いて口を開いた。
「あれ、私が昔、新婚の頃仕事で海外に行ったときに見つけて買ったの。素敵だなと思ってね。元々は多分、箪笥なんじゃないかしらね」
 男達が運び出した箱のことだろう、女は既に目の前にはないそれを見据えるかのように視線を宙に彷徨わせて呟いた。
「彼に、貴方の夢をしまっておいてね、なんて。今考えれば小娘の、夢みたいな、馬鹿な台詞だけど」
 別に答えは求められていないのだろう。哲は女のスカートの揺れる裾を眺めてみた。微かな動きと空気の流れにさらさらと衣擦れの音を立てて揺れる布。淡い色合いが酷く女らしくて目に染みた。
「——あんな人じゃなかったのに、どこで、どうやって狂っちゃったんだろう? 今はあの人が何を考えてるのか、私にはわからない。あの人がああなってしまった過程だって分からないわ。ねえ、きみ」
「はい?」
 目尻の小皺に自嘲の色を濃く滲ませて、女は口元を軽く歪めた。
「人間の心の鍵は開けられないのかしらね」
 肩を竦める女に何を言えばいいのか分からない。考えても分からないから黙っていると、秋野がゆっくり口を開いた。僅かに語尾が掠れるような深い声に、哲の首筋の毛がちりちりする。
「出来ないことはないですが、開けた側も開けられた側も見て楽しいものとは限りませんよ。ぶちまけられた内臓抱えてのたうちまわるのは自分か相手か。見なくていいものは世の中にごまんとある。すべて曝け出せばいいなんてのは幻想です」
「そう。そうね。君はそうされたらどう思う? 参考までに聞きたいわ」
 女は尋ねながら嫣然と微笑み、目を伏せた。開いた瞼の下の目は、マスコミに向けるものと変わらない。透明な幕が下りてしまったかのようにその奥は窺い知れなくなっている。秋野はそれでも下りた幕を透かすように彼女の目を見つめながら低く呟く。
「さあ。どう思いますか」
 秋野は薄く笑い、目だけ動かして哲を見る。時間にしてほんの一瞬、投げつけられた一瞥の意味など分かりはしない。ただ脊髄の真ん中に針金を差し込まれたような、不快で鋭い衝撃が走っただけだった。
「何見てんだよ」
「……別に」
 僅かに笑いを含んだ声で答え、秋野は椅子から腰を浮かせた。