仕入屋錠前屋45 傷を抱えた善 3

「ああ、あれお前のとこのバイトの子なのか」
 秋野は自分の部屋のソファにだらしなく身体を伸ばして何やら本を手にしていた。
 格好も部屋の中も小奇麗で洒落た感じに見える癖に、怠惰とも見える手足の投げ出し方がやけに似合うのが面白いといつも思う。だらしないように見せているだけなのかも知れないが、長身なだけに邪魔臭いのは間違いなかった。
 秋野が身体を起こして頭を掻くと長い前髪が目にかかる。半分寝てでもいたのか、重たげな瞼をした秋野はひとつ欠伸をし、ゆっくりと哲に目を遣った。
「ジッポが欲しいらしいぞ。限定生産の稀少品で、ネットオークションなんかに出るとえらい値段になっちまうのがあるらしくて」
「ああ、何か俺も聞かされた。結婚祝いなんだってよ、兄貴の」
「へえ。麗しき兄弟愛だな。じゃあ品物が手に入ったらお前に渡すよ」
 哲が煙草を銜えてポケットを探っていると、ライターがものすごい勢いで飛んできた。咄嗟に受け止めて睨みつけると、秋野はにやにやと笑っている。
「根に持つんじゃねえよ。避けたじゃねえか、お前」
 しかめ面の哲を見て、秋野は満足そうに喉を鳴らした。まったくむかつく男だと呆れつつ、ライターを投げ返す。受け取ったライターを弄りながら、秋野はのんびりと口を開いた。
「この間の話だが、川端さんのところ、お言葉に甘えて使わせてもらおうと思ってな」
「伊藤の美容室の上とかって、あれか?」
「ああ」
「いちいち報告しなくていいから好きにすりゃいいじゃねえか」
「ああ」
 気のない返事を返しながら立ち上がり、冷蔵庫の扉を開ける。ミネラルウォーターのボトルを取り出し呷る秋野の筋の浮いた足の甲を、哲は見るともなしに眺めていた。

 何の本を読んでいるのか、水を飲み終えた秋野はまたソファに身体を沈めると、本を開いて読むことに没頭し始めた。もしかしたら読んでいるように見えて寝ているのではないかと思うほど、身動きひとつせずに頁の上の活字を追っている。哲は煙草に火をつけ、天井に煙を吐き出した。
「哲。飯、食ったか」
 秋野は暫くの間の後で、本に目を落としたまま低い声でそう訊いた。
「ああ——、店で少し。食ってねえのか」
「ああ」
 どうせ本を読んでいたら面倒で忘れてしまったに違いない。見かけより実際の方が数段物ぐさな男は顔を上げ、ちらりと笑う。
「お前の顔見たら食い物のことを思い出した」
「何だそりゃ。どういう意味だよ」
「いろんな意味だよ」
 片頬を歪めて笑うと、秋野は前髪をかき上げてひとつ伸びをし、ソファの肘掛に頭を乗せた。長い身体はソファには収まらず、組んだ足が向こうの肘掛からはみ出している。
「何か作って」
「甘えるな」
「面倒なんだよ。大体お前何しに来たの」
「ああ? てめえが呼んだんだろうが」
「……ああ、そうか」
「認知症じゃねえの」
 哲の減らず口もどこ吹く風で、秋野はだるそうに腕を持ち上げると冷蔵庫を指し、色々入ってるよ、佐崎さん、などと呟いた。
「出張料、部品代、設置料を頂きます」
「電気屋か」
「いや、錠前屋だ」
 話しながら尻を移動させて冷蔵庫に届くところまで身体をずらし、腕を伸ばした。秋野はそれなりに料理も出来るのだが、余り作りたがらない。本当に気の向いた時しか作らないから冷蔵庫は大抵空だ。それが今日は言葉通り野菜やら何やらが入っているが、宝の持ち腐れとはこのことだろう。
「珍しいな、棚板が見えねえぞ」
「んー、耀司と真菜の差し入れ」
「はあ?」
「真菜の実家から色々送ってきたらしい」
 秋野は本を置き、寝転がったまま哲のほうに目をやった。
「さっき寄ってった。用事があるからお前がバイト終わるまで待ってられないとさ。どうせ俺のとこに置いとけばお前が何とかするだろうって」
 まったく、誰も彼も揃って人を仕入屋の世話係か何かのように言うのは一体何故なのか、と哲は忌々しさに舌打ちした。
「どいつもこいつも」
「ん?」
「独り言だ、てめえに話してねえんだよ」
 哲が不機嫌に吐き捨てると、秋野は低くくぐもった声で笑い、薄茶の目を細めて哲を見た。
 正直言って料理など作ってやりたくもなかったが、この冷蔵庫の中身を秋野がどうにかする可能性はかなり低い。アルバイトとはいえ料理で賃金を貰っている以上、これだけの食材を無駄にするのは気が引ける。
「……仕方ねえな」
 腹の底から本意でないと溜息を吐きながら、哲は煙草を揉み消した。
「腐らせんのもな」
「そうそう、農家の皆さんに申し訳ないよな」
「てめえが言うか」
 投げつけた煙草の箱が軽く乾いた音を立てて秋野の頭に当たり、落下する。秋野は箱を拾うと一本取り出し、銜えただけで火をつけず、哲を見上げてにたりと笑う。
「デザートは料理長で」
 わざとらしい嫌がらせの台詞に、阿呆臭くて真面目に答える気も起きない。哲は眉間に皺を寄せつつジャケットを脱いで立ち上がり、台所の電気をつけた。
「なあ、哲」
「——黙ってねえと二枚におろすぞ」
 背中を向けたままの哲に、秋野がはいはい、と適当な返事をする。哲は秋野のことは頭からさっさと追い出して今あるもので何を作るかと、そちらに頭を切り替えた。

 

「いただきます」
 秋野はテーブルの前に正座すると律儀に頭を下げ——作り手であるところの哲になのか、それとも農家の皆様になのかは知らないが——、足を崩して胡坐を掻くと食べ始めた。いつもそうだが、食事中会話することは余りない。別にそれ程話したいこともないから、一緒にいる時間が長い割には会話の量は多くはないのだ。
「で」
 味噌汁椀を置いて、哲は秋野に目を向けた。
「俺を呼んだのはあれか、飯を作らせようって?」
「だったら怒るのか」
「別に」
 揚げ出し豆腐の上の生麩を箸でつまみながら、哲は気のない返事を返した。
 幾ら冷凍が出来る食材とはいえ、一人暮らしの男に生麩は無用のものだ。いくらなんでも秋野が生麩をどうにかするとは思えない。だからと言って自分がどうにかしてやることもないと思うが、今更言っても仕方ない。
 テーブルの上に並んだ料理はそれなりに見栄えがして、哲はそういう意味では満足して生麩を口に突っ込んだ。出汁巻き卵にほうれん草とえのきの梅和え。椎茸と小海老の餡に生麩と白髪葱付きの揚げ出し豆腐。焼き茄子の味噌汁、ひじきと蓮根とツナの煮物。まったく、自分で自分を嫁にしたいくらいだ。
「この間の岩倉のとこの講師の話、あれを川端さんところでと思ってな」
 秋野の声に目を上げると、秋野は箸を置いて哲の顔を眺めていた。薄茶の目には何の感情も浮かんでおらず、口調も平坦だった。
「結局、その鍵つきの箱ってのがでかいらしくて、一人じゃ運べんそうだ。アンティークだとか何だとか何とか言ってたぞ」
「へえ。俺は錠前さえついてりゃハコが何で出来てようが関係ねえけど。やっぱあれなのか、浮気の証拠とかそんなんか」
「さあな。中身はともかく、お前も腰を据えてかかれるところがいいだろう? それにあちらさんも余り寂れてたり危ないところには行きたくないとか何とかうるさいから、ちょうどいい場所だと思うがね」
「まあな」
 秋野は再び箸を手に取り、白髪葱をつまむとぼんやりそれに目をやりながら哲に言った。
「お前、川端さんに話繋いでくれよ」
「自分で連絡取れよ。……そんなんで俺を呼んだのか、てめえは」
 哲は、無作法承知で箸の先で秋野を指すとそう訊いた。秋野は口の端を曲げてにやりと笑う。箸で豆腐をきれいに分断しながら、秋野は低い声で呟いた。
「それと、飯を作ってもらうのと」
「くそったれ」
「食ってるところ見るのは嫌いじゃないよ」
「ああ?」
「頭から噛り付きたくなるね」
「くたばりやがれ」
 突き刺すように鋭く冷たい哲の台詞に可笑しそうに目を細め、秋野は喉の奥で笑いながら箸を動かす。哲は秋野の楽しげな表情に顔をしかめ、舌打ちをして、再び食事に取り掛かった。