仕入屋錠前屋45 傷を抱えた善 2

「うちの主人が絵画キチガイなのは、秋野は知ってると思うけど」
 想像を裏切らない酒豪っぷりを披露しながら杏子が語った話はこうだった。
 杏子の夫岩倉直弥は政界にも顔がきくと噂の画廊主で、画廊のほかにも画材屋から始めた文房具チェーンや、郊外の公園に併設の美術館やミュージアムショップなども経営する男だ。その岩倉が数年前から始めた事業のひとつがいわゆるお稽古事というやつであった。
 油や水彩は勿論、流行のWEBデザイナー講座から簡単なイラスト教室まで、とにかく幅広くクリエイティブと言われる分野を網羅している。腕のいい講師と適当な金額、それに金をかけて建てた洒落た校舎——カフェや本屋、雑貨屋がテナント入居しているのは言うまでもない——が人気を呼んで、あちらこちらの女性雑誌にオンナを磨く、とか何とかいう言葉が冠された特集を組まれているらしかった。
 講師にも色々いるが、今回の依頼人は水彩を受け持っている五十過ぎの女性で、セレブとか何とか呼ばれ、雑誌やテレビにもしょっちゅう顔を出しているらしい。元々親が資産家で、入り婿の夫と既に成人した娘が一人、娘は何とか言う映画監督と結婚し、ご多分に洩れずパリに住んでいるとか言う話だった。
「彼女の依頼は二つで、ひとつは鍵の掛かる古い箱を開けてほしいってこと。もうひとつはその場所を提供して欲しいんですって。知り合いにもマスコミにも漏れない地味で安全な場所をね」
「金持ちなんだろ。自分でどうにでもなるんじゃねえの」
 哲の気のない台詞にうーんと唸って杏子は言った。
「彼女、ご主人と離婚係争中なのよ。どうやらご主人が頑として離婚に応じないらしくてね。まあ、放り出されたらどうしようもないのはご主人のほうでしょうからね」
 煙を吐き出し、銜え煙草で杏子は続ける。
「きっとその関係なんでしょう。興味ないから詳しいことは聞いてないけど」
「知って得する内容じゃなさそうだな」
 秋野もそう言うと天井に向かって煙を吹き上げた。椅子に背を預け、長い脚を投げ出している。その脚が邪魔臭くて蹴飛ばすと、秋野は小さく呻いて哲を睨む。哲が黄色く光る薄い色の瞳を睨み返して歯を剥くと、杏子がおかしそうに声を上げた。
「秋野、おっかない顔するのねえ。別人みたい」
「こっちがホンモノなんじゃねえの。いつもこうだぜ」
「そんなことありません。俺は穏やかな人間です」
「いかれ野郎」
「まーまー、いちゃつくのは後にして」
 哲はうんざりして黙り込んだ。秋野がげらげら笑い出し、杏子は涼しい顔をしている。まったく、どうしてこの野郎の周りにはこういうのしかいないんだと哲は自分の不幸を内心本気で憐れんだ。右手で弄っていた百円ライターを秋野に向かって素早く、且つ力一杯投げつけてやる。一瞬遅れたがしっかり反応した秋野の掌がライターを叩き落し、哲は盛大な音を立てて舌打ちした。

 

「佐崎さん佐崎さん見てください!」
 開店前のそれなりに忙しいひと時、皆がそれぞれの仕事に勤しんでいると、下ごしらえをしていた服部がスキップしかねない勢いで厨房から飛び出てきた。
「店長店長見てくださいよ佐崎さんに教えてもらってこれこれ」
「お前なあ、服部、ちっとは句読点をつけて喋れよ、ええ?」
 さすがに呆れ顔の店長もカウンターを拭く手を止めて服部の顔を注視する。哲のバイト先の居酒屋では他にも何人かアルバイトを置いているが、服部はその中の一人で、中程度の私立大の学生である。昔縁日で売っていたひよこのような色の髪で耳にはピアスを山ほどぶら下げているが、礼儀正しい好青年だ。
 その服部が手にしているのは、桂剥きにした大根だった。服部は薄い帯のような大根をひらひらさせてほらほら、と店長の前に差し出して見せた。
「どうやってもうまく出来なかったんですけど、やっとですよー」
「そりゃあ練習した甲斐があったな」
 店長に大きく頷き、服部は首を傾げた。
「今日、友達が飲みに来てくれるんです。きっと刺身の盛り合わせとか頼むと思うんですけど、俺これでつまとか作っちゃっていいすか? や、もう頼まなかったら頼ませますから!」
「ああ、いいぞ」
「やった!」
 足取りも軽く引っ込む服部を見送り、店長以下その場にいた店員みんなでひとしきり笑い冗談を言って、開店準備が再開された。哲も洗った灰皿をカウンターの端に積み上げながら、服部の友達のことなど次の瞬間には忘れていた。

 

 派手に食器がぶつかる音がして、若者達の慌てた声がそれに被さる。
 店員が布巾を差し出し、女の子がテーブルを拭く。幸い壊れたものは一つもなく、巨峰サワーが布巾をけばけばしい紫に染めた以外何の被害もなかったが、哲は自分の顔が不機嫌に歪むのを止められなかった。
 目と口を丸くして厚焼き玉子の皿を持った哲を凝視しているのは、服部の友達連中の一人だ。
 忘れもしない、まるで刷毛のように密生した睫毛とパーマのかかった肩下までの髪は、先日なんとかいう洒落た店から逃げるように立ち去った、隣のテーブルの女のうちの一人に間違いなく、哲がうんざりした顔をするとやっと瞬きして目を逸らした。
 心なしか青くなった彼女の隣、坊主頭に髭を生やした青年の前に皿を置く。
「お、うまそー。園美ちゃん、ほら」
 鼻の下を伸ばした坊主を一瞥し、哲は無言でソノミと呼ばれた女とテーブルに背を向けた。彼女が誰に何を言おうと勝手だし、それで自分の評判に傷がつこうとそれは致し方ないことだ。しかし、次に顔を合わせる時にあの馬鹿虎を殴り倒すまで、哲の聞き分けの悪い腹の虫はどうにも収まりそうもなかった。

 

「佐崎さん」
 店の裏で煙草を吸いながら、どうやって奴を痛めつけてやろうかとぼんやり思案していると、背後から声がかかった。服部が満面の笑みで立っている。この顔はまだ何も聞いていないのか。正直なところおかしな噂を立てられるのも癪だから、僅かばかりの安堵を覚えつつ返事をした。
「今戻る」
「あ、いいっすよ。今空いてますから、もうちょっとゆっくりしてていいって、店長が」
 服部の友人は総勢八人、騒がしかった上やたらと食うので厨房は忙しなかったが、店に金を落としてくれたことには変わりなく、店長は上機嫌だった。彼らが腰を上げそうな頃合を見計らって一服しに来たのだが、哲が裏へ回った直後に帰っていったということだった。
「佐崎さん園美ちゃんと顔見知りだったんですね」
「……って言うほど知らねえよ」
 哲の渋面を見て笑うと、服部は煙草を銜えた。
「園美ちゃんが、この間別のお店で逆ナンしたら丁重にお断りされたって嘆いてましたよ。武幸はよくぞ断ってくれたって、こっそり佐崎さん拝んでましたけどね、あいつ園美ちゃん命だから」
 タケユキというのが誰だかまったく分からないが、どうでもいいので黙って頷く。服部は相変わらずの笑顔で続けた。
「その時一緒にいた人ってよく来る目の色のきれいな人ですか?」
「ああ」
「そうなんだ。園美ちゃんすごく残念がってましたよ。二人とも格好よかったのに、って」
「仕事の話してたからな。彼女と友達には悪かったよ。謝っといてくれ」
 哲の世間体を慮ってくれたのか、それとも単に女のプライドがそう言わせたのか知らないが、どちらにしても有難い結果には違いなく、哲はそう言って息を吐いた。他人にどう思われようと基本的には頓着しないが、やはりものには限度というものがある。人様に後ろ指を指されるような言動には昔から事欠かない自分ではあるのだが、自分で分かってするのとそうでないのとでは大違いだ。
「仕事って、何してるんですか」
「あ?」
 ぼんやりしていて聞き損ね、顔を振り向けたら服部と目が合った。
「——何?」
「いえ、詮索するわけじゃなくて……。俺、稲盛浩介さんと同じ大学の同じ学部だって知ってました?」
 哲が煙草を指で挟み煙を空に吹き上げる仕草を見て、服部は知りませんよねえ、と笑う。
「結構でっかい学校だから、俺も稲盛さんの顔知りませんでした。前、稲盛さんここに来たでしょう? 佐崎さんがお客さんっていうか、あの暴れた奴追い出してくれた時。あの時は俺、同じ学校の先輩だなんてまったく知らなかったんですけどね。たまたま友達が稲盛さん知ってて、最近話すようになったんですけど」
 稲盛浩介は秋野がたまに仕事で使う古本屋で、哲自身も面識があった。以前彼の友人が秋野に銃を仕入れてくれと依頼してきたことがあり、その時稲盛も店に来ていたことを思い出す。そういえば服部は丁度あの頃バイトを始めたばかりではなかっただろうか。
「俺、兄貴がいるんですよ」
 服部の兄は哲より二つ上らしい。その兄がもうすぐ結婚するのだという。兄への結婚祝いの品を手に入れるのにいい方法はないかと言う話から、稲盛が知り合いに聞いてくれることになったそうだ。その知り合いと言うのが仕入屋のことなのは哲には改めて聞くまでもない。
 稲盛から秋野の名前は漏れなかったが、そういえばお前のバイト先にその人の知り合いがいるじゃないか——、と当然の流れで哲の話になったのだとか。
 兄との思い出話を無邪気に語る服部の横顔を眺めながら、哲は稲盛の割りに整った、アイドルのような顔を思い出そうとそれなりに努力をしてみた。しかし思い出すのはふにゃりと気の抜けた笑顔の雰囲気だけで、代わりに浮かんだ仕入屋の相貌にまた軽い苛立ちが甦る。服部の兄弟自慢を上の空で聞きながら、哲は何もない平らな地面を衝動のままに蹴飛ばした。