仕入屋錠前屋45 傷を抱えた善 1

 秋野の黒いジャケットが、淡いオレンジのライトに照らされて鈍く光る。
 細身の美しいシルエットに高級な生地。ベルギーだかどこだかのデザイナーのもので、数十万はする。その癖一見ただのジャケットで、服にも生地にも興味がなければ、その価値には気づかない。なんだか秋野そのもののようで気に入らねえなと、哲は内心で吐き捨てた。
 長い脚が際立つジーンズも、履き込んだブーツも、いい加減に着ているようで洒落ているのが秋野らしいが、哲はだから一体なんなのだくらいにしか思わない。
 しかし二つ隣のテーブルに座った二人の女はそうは思っていないようで、先ほどからあからさまな視線をこちらに寄越していた。秋野は視線に気づいているがまるでそ知らぬ顔をしている。哲は秋野に向けられる女の秋波などどうでもいいが、仕事の話もろくにできないこの場所を選んだこの馬鹿に無性にむかつき、テーブルの下でブーツの足を踏みつけた。
「おい」
「痛いよ。何だ?」
 悠然と煙を吐き出し、秋野は哲に目を向けた。普段出入りする場所とは明らかに雰囲気が異なる店の照明に、秋野の薄茶の虹彩が不思議な淡い色に見える。
「あそこの二人がさっきから物欲しそうにしてるぞ」
「だから?」
「仕事の話すんじゃねえのか。聞き耳立てられてちゃ余計なこと言えねえじゃねえか」
「仕方ないだろう。俺だってここで話したかったわけじゃないが、向こうの指定なんだよ」
 秋野の低い声は通らないから、女二人に聞こえているとは思えなかったが、少なくとも聞く気は満々であるらしい。視線を離さず食いつかんばかりの体勢は、さながら獲物に飛び掛る直前の猫のようだ。
 まったく傍迷惑なのは色気ばかりで常識のない女二人かそれともその気もないのに引き寄せて歩く目の前の男なのか。
 片方の、茶色い髪を派手に巻いた女が自分では魅力的なつもりの笑みを投げてよこしたが、如何せん長すぎて作り物めいた睫毛にばかり気を取られ、顔立ちも笑顔の魅力も哲にはとんと響かなかった。
 もう一人の肩までのパーマも似たような化粧の似たような女で、二人とも十代ではないだろうが二十代半ばまで届くかどうか。
 金をかけた身なりも化粧もある程度の水準をクリアしてはいるものの、頭の中身も同じ程度とは思えない。
 もっとも人のことをどうこう言えるほど自分の頭が上等であるわけもないが。
 薄暗い店の中で彼女らが瞬きするたびに、周囲にぎらついた燐粉が舞うような気がした。
「それなら仕方ねえけどよ。それにしたってやり辛いって」
 哲が顎を振ると、秋野は女達の方へ目を向けた。同時に目を向けたせいか女二人のテンションは目に見えて上昇し、しかし秋野はさっさと視線を逸らした。
「放っとけばいいんじゃないか。それとも立って行って、俺は珍獣じゃないし、こいつも見た目ほど扱いやすくないし、そもそも仕事中で時間の無駄だからあっち向いててください、って言えばいいのか」
「何だそりゃ。俺が扱いにくいってか」
「違うのか」
 どうやら秋野自身もこの二人にいらついていることに変わりはないらしい。
 哲はなるべく女の視線を無視しようと努めながら、手元の灰皿に目を落とした。銀色の洒落た灰皿に、歪んだ自分の顔がぼやけて映っている。
「大体、何で俺が会わなきゃなんねえんだ」
「お前も顔を見たことがあるから、会ったほうが話が早いかと思ってね」
 長い指が軽くテーブルの天板を叩く。一瞬その動きに気を取られ、続く言葉を聞き損ねた。
「あ?」
「岩倉杏子。顔は覚えてないかも知れないが」
「……ああ、あの脚が綺麗で胸のでかい」
「…………お前、そこしか覚えてないのか」
「るせえな、俺の記憶力に何か文句あんのか、こら」
 岩倉杏子は、哲にとっては知らぬ女だが、秋野の依頼人であったことが過去に何度かあるらしい。
 以前彼女の仕事がらみで哲は旧知と言えば響きがいいが、単に昔のした男を一人また痛めつけたということがあって、その時実際その場所にいたのをぼんやりと覚えていた。
「彼女が依頼人?」
「いや、彼女の旦那の知人だとさ。まあ別にどっちでもいいが——」
 秋野がテーブルの上の手を動かした瞬間、きゃあ、と甲高い声がして話がそこで途切れた。何がツボに嵌ったのか、件の女二人がこちらを見て自分達の思うところの色気を振り撒いている。
 秋野は普段は女に優しいが、仕事中であれば目の前で好みの美女が裸で脚を広げていてもその気にならないと言う自分勝手な男だから、眉間に刻んだ皺も要するに今は彼女らが気に入らないという証拠だった。
「だから、やり辛いって言ったろうが」
 哲が溜息を吐いて椅子にふんぞり返ると、それを何の合図と取ったのか、茶髪の巻髪がもったいぶった仕草で立ち上がりかけた。

 腰を浮かせた彼女を横目で認め、秋野はテーブルに左肘をつくと体を乗り出し、低い声で「哲」と呟く。なにか妙案でもあるのかと体を起こしたら、秋野の右手が蛇のように素早く伸びてきた。
 目の前が白くなったのは、ショックではなく呆れに近い。
 秋野の指の長い大きな手が哲の髪をしっかり掴み、引き寄せた。哲の唇を覆う秋野のそれは乾いていて微かに酒の味がする。いつもと違う、周囲に見せ付けるような緩慢な口付けは、少なくとも哲の興奮は煽らなかった。抗議の意味を込めて低く唸ると、喉の奥で秋野が笑う振動が、ねっとりと絡みつく舌を通して伝わった。

 握った拳の指の付け根の骨で思いっきり頬骨を殴りつける。叩きつけた直前にうまく頭を動かされて呆気なく力は逃がされたが、その分傍目には随分派手にやられたように見えただろう。
 おまけに食いしばった秋野の歯に皮膚を破られて、何故か流血したのは自分の方で頭に来た。返す手の甲でもう一度殴ってやろうと思ったものの長い指に払われて果たせず、それこそ猛烈にむかついてテーブルの下の脛を踵で力いっぱい蹴り上げる。
 天板の上の灰皿とグラスが一瞬飛び上がって着地し、騒々しい音を立てたが、BGMと喧騒の中で特に気にする者はいないように見えた。幸い、店中の晒し者になったわけではないようで、こちらを注視している者は誰もいない。勿論、例の二人組の女を除いては、だが。
「痛ぇ」
 珍しく汚い口調で悪態をついた秋野が顔をしかめ、哲は僅かに溜飲を下げたが、それは本当に束の間だった。まったく、どうしようもないにも程がある。自分のことはさて置きそう相手に最悪の評価を下していると、椅子ががたがたと床をこする音がした。そちらを見ると、黒いアイラインとたっぷりのマスカラでただでさえ大きく見える目を目尻が裂けそうなほど見開いた二人の女が、我先にと立ち上がって飛び出して行った。
 あれは今目の前で起こった暴力に怯えたのか、それともその前の茶番に呆れたのか。哲は人の顔色を読めるわけでもないからよく分からなかったが、どちらにしてもなけなしの世間体とか言うものがぼろ雑巾のようになったのは確かに違いない。もっとも二度と会うこともないだろうし、取り敢えず仕事の話に専念できると言う意味では結果良ければ、かも知れない。
 そうやって無理矢理自分を納得させてもう一度秋野の向こう脛を蹴っ飛ばしたところで、上から声が降ってきた。
「何やってるの、あなた達は」
「あんたが遅いからだろ」
 いつの間にかテーブルの脇に、体にぴったり合ったツイードのスーツを着た女が立っていた。取り立てて美人と言うわけではないのにやたらと色気がある。しかし媚びたような所が微塵もないのが気持ちよく、以前哲がちらりと見かけた時とその印象は変わらなかった。
「ファンサービスだよ、ファンサービス」
 秋野がそう言って口の端を曲げて笑う。杏子に対する秋野の口の利き方は、いつもよりどこか可愛げがある気がする。それが彼女に対するポーズなのか何なのか哲にはよくわからないが、まあどちらでも別に構いはしなかった。
「馬鹿ねえ、秋野。ここ、大手の酒類メーカーの直営店よ。あなたが普段出入りしてるいかがわしいところと違って毛並みのいいお客さんばっかりなんだから、出入り禁止になっても知らないわよ」
「困らないからいいよ、別に」
 椅子を引いて腰掛け煙草を銜えた杏子にホストのように火を差し出すと、秋野は腕を組んで椅子に背を凭せ掛けた。
「ご主人は元気なの」
「まだ暫くくたばらないって鼻息荒いわ。言葉通りであってくれると信じてるのよ、私」
 杏子はにっこり笑って煙を吐く。哲に向き直って微笑むと、煙草を銜えて右手を差し出す。男のような仕草だが、女らしさは損なわれない。なんとも不思議な女だと、哲は思った。
「初めましてじゃないけど、初対面みたいなものよね。岩倉杏子です。よろしく」
「佐崎です」
 握った杏子の手は思いの外力が強く、しかし華奢でとても柔らかかった。
「ところで、手懐けられたわけ」
 杏子は哲の手を握りながら秋野に向かって流し目をくれる。秋野はわざとらしく悲しげな顔を作ってかぶりを振った。
「さっきの、見てたんだろ。長期戦は覚悟の上だよ」
「阿呆か」
 哲が吐き捨てると杏子は笑い、哲の顔を見上げて悪戯っぽく微笑んで来た。
「秋野ね、あなたを手懐けて捨ててみたいって言ってたわよ。でも、どっちかというと捨てられるのは秋野だと思わなくて?」
「余計なことを言いなさんな」
 憮然とした秋野と頬を歪めた哲を交互に見てからから笑うと、杏子は両手を合わせてぱしりと大きな音を立て、商談商談、その前にアルコール、と朗らかな声を上げた。