仕入屋錠前屋44 ドラマティック・アイロニー 7

 哲の口から低い怨嗟の声が吐き出される。その響きに悦楽は微塵も感じられないのに、身体の反応はまた別だった。
 身体的な反射と脳が感じる感覚が別物というのはある意味人間だけなのではないかと秋野は思う。同じ刺激を与えられてそれをどう取るか、心の持ちようで変わる動物が他にいるとは思えない。少なくとも秋野の知る範囲にはいなかった。
 哲の物に手を伸ばし、握った掌を滑らせる。哲は喉を反らすとざらついた呻きを漏らし、秋野の頭を思い切り引き寄せ、耳元に口を近づけた。噛まれるかと思ったが、予想に反して痛みは襲って来ず、哲の低い声が聞こえた。
「——秋野」
 哲が余り口に出すことのない秋野の名前。哲が吐き出すだけでどこか不穏な響きを帯びる自分の名が、秋野は妙に気に入っていた。生物学上の父親の苗字であるという名前を、嫌ったことはないが好きだと思ったことも別にない。少なくとも、錠前屋を雇ったあの日より前までは。
 何か言おうとした哲の口を無理矢理塞ぎ、腰の下に手を添える。勢いをつけて持ち上げ、哲の身体を腿の上に抱き上げる。秋野の髪を掴んで唇に思い切り齧り付くと、哲は軋るような唸り声を奥歯の隙間から押し出した。
「何つー格好させんだよ、くそったれが」
 これ以上ないと言うくらい嫌そうな顔になり、哲は上体を離そうと身を捩った。その硬い身体に腕を回し、拘束して喉笛に歯を立てる。

 哲の骨ばった喉の形。
 歯の間で感じるそれは、どんな行為よりも秋野の神経を刺激した。末端まで痺れるようなこれは熱なのか、それとも火傷しそうなほどの低温なのか。
 しっかりと噛み付いて離さぬまま、哲の身体の一点を突く。圧迫された哲の気管、狭隘な隙間から漏れる吐息はか細く、しかし熱かった。
 獣の断末魔のような呻き声、粘膜が擦れる淫靡な音。顎に銜え込まれたまま上下する喉仏、反り返る背骨の曲線。哲の両手が秋野の髪を鷲掴み、引き剥がそうと力を籠めた。

 顎の力を緩めても、哲は何も言わなかった。秋野の肩にお返しとばかりに歯形を残す。秋野は哲の肩と腰に腕を回し、更に深く繋がろうと引き寄せた。それは傍から見れば熱い抱擁と思えるかも知れないが、抱擁とは程遠く、攻撃のひとつのあり方でしかない。
「何……なんだ、一体」
「——何が」
「何が気に入らねえのか知らねえけど、……俺に当たるんじゃねえ、よ」
 前髪の間から見下ろす哲の視線は、掠れ、途切れる声とは裏腹に、どこまでも強かった。
「うるさい、黙れ」
「お前な」
「——どうして欲しいかだけ、言えよ……」
 犬が口の大きさを比べるように歯を立てず、唇も合わせず威嚇し合って、口外で舌を絡めた。腰を動かす度に繋がった場所から漏れ聞こえる濡れた音が、咀嚼音のようにも聞こえる。お互いに内臓を啜り合っているような感覚に、自分たちにとってセックスと愛が同義ではないことを思い知る。
 喉を反らし、掠れる声で悪態を吐いた哲の下肢が引き攣って、一瞬全身が硬直する。次の瞬間弛緩した筋肉が痙攣するように僅かに跳ねた。
 達した哲の身体を無理矢理押し倒し、何度も乱暴に突き上げる。すべて吐き出しきらないうちに秋野に激しく穿たれて、抜き差しする度、哲はしゃがれた声を上げた。密着した下腹を汚す生温かい哲の体液。これがこいつの臓物の温度かと、くだらないことを頭の隅で考えた。

 

 秋野から受け取った調査結果で、辰村の話に嘘はないと分かった。
 何がどうしたと言うのか知らないが、不機嫌な顔をして散々やりたいようにやった人食い虎は明け方に帰っていった。お陰さまで哲は昼まで泥のように眠り、鉛のように重く感じる身体を引き摺るように起き出したのだ。
 実直な中年の身辺調査は寝起きの頭で読むには些か面白みに欠けていたが、少なくとも母親がどこかの詐欺師にひっかかっていないことは確認出来たし、それさえ分かれば別に何の問題もない。そもそも当初から今更母親と一緒に暮らす気などなかったのだから当然だった。
 辰村と母親の敦子との約束は明日だったが、改まって会う気は哲にはない。考え抜いた結果ではなく、ただそうしようと感じたからそうするまでだ。幾ら突き詰めてみたところで、自分の頭でもっともらしい理由など思いつくはずもない。
 書類から知った辰村の自宅の住所を地図で調べ、哲は砂が詰まったように重く言うことを利かない身体に鞭打って腰を上げる。母のことを思うべき時なのかもしれないが、昨晩間近で瞬いていた薄茶の目の鋭さと、部屋に低く響いていた息遣いばかりが甦った。内股を這う秋野の舌の感触を不意に思い出し、哲は大きく舌打ちした。

 

 辰村の自宅にたどり着いたのは、予定通りの時間だった。辰村は会社にいるし、調査結果によると母はこの時間、パート先から戻ってくる。
 暮らし向きからするとパートの必要性は感じられない、と調査員は書いていた。かつて父と暮らしていた頃の名残なのか、根っからの貧乏性なのか哲にはよく分からないが、ごく普通の家庭でごく普通の主婦だった敦子のことだ。奥様でございます、という顔も出来ないのだろうというのは想像出来た。
 哲は、驚くほど大きくもないがないがそれなりに立派な一戸建ての前に立った。生垣に囲まれた家はこげ茶色のシックな外装で、庭はそれなりに広さがある。夏になればお決まりのガーデニングとやらが始まるに違いない。その庭を右手に、門から真っ直ぐ進んだ家のドアの前、女性が一人、手に持ったバッグの中を覗いて立ち尽くしていた。
 僅かに丸くなった背中に一気に記憶が甦る。普段は思い出すこともない母の背中が随分小さいことに、哲は少々面食らった。
 砂利を踏んで近づくと、敦子の背中がぴくりと動く。緩いパーマをかけた短い髪はロングだった昔とはまるで違うが、今のほうが垢抜けて、綺麗に見えた。
「……哲」
 敦子の顔からさっと色がなくなり、ハンドバッグを持った腕がだらりとぶら下がった。
「——何やってんだ、自分ちの玄関先で」
 哲の声に、敦子はバッグの持ち手を両手で揉みしだく。
「あ——……鍵」
「鍵?」
 哲が聞き返すと、敦子は指で自分の鼻を触り、今度は頬を触った。何となく見たことのある仕草のような気がする。恐らく母親の癖なのだろう。そう思っても、実際それを目にした今、哲の内心にそれ程大きな漣は立たなかった。
 敦子は小さな声で地面に向かって落とすように言葉を連ねた。
「明日、哲に会うって、今朝聞いたのよ。それで、……ぼーっとして、鍵、置いてきちゃって。あの人が閉めたから」
「退けよ」
 哲は敦子を退かし、ジーンズの尻からピッキングの道具を取り出した。敦子が目を見開き、哲の顔と手元を交互に見る。哲と目が合うと敦子はすっと目を逸らしたが、幾分かの非難を籠めて小さな声が囁いた。
「あんた、それ——。今仕事、何してるの?」
「居酒屋の厨房。これは趣味」
「趣味って……」
 小さな頃に親子三人で住んでいた借家とは大違いの立派な家の錠前は、それでも哲の手で難なく開かれすぐにかちりと音を立てた。敦子の視線は回った錠と哲の顔を行ったり来たり、本人も気づいていないのかもしれないが、何度も往復してやっと哲の顔の上に留まった。

 哲は両親どちらにより似ているということはない。
 両方の色々な部分を貰った顔で、昔から親戚にも両方に似ているとか、どちらにも似ていないとか言われてきた。写真で見比べたりしてみると、どちらかと言うと母親似かも知れないが、自分はこんな頼りない目はしていないと何となく思ったりした。
「ねえ、哲、上がっていったら?」
「いや。明日も、行かねえから」
「哲……」
 子供が親に感じる思慕は勿論ある。敦子の泣きそうに歪んだ顔に何も感じないほど冷血なわけでもない。それでも哲と敦子の道は完全に離れ、哲は今更敦子の息子に戻れる気がしなかった。
「俺は別に、恨んだり憎んだりしてるわけじゃねえよ、母さん」
 哲は煙草を銜え、火を点けると敦子を避けて煙を吐き出した。
 中学に上がるか上がらないかで別れた息子が怪しげな道具を使って鍵を開け、堂に入った仕草で煙草を銜える。それを見て母親が一体何を思うのか、哲には想像の及ぶところではなかったし、想像できたところで正しいかどうかは分からないのだ。世の中には数え切れないほどの親子がいて、中には殺し合う者もいる。結局どれが正解か、分かる者などいないのだろう。
「ただ、あんたが恋しくはなかったし、いなくても生きて来られた。これからも同じじゃねえかな。それに、俺はあんたと旦那の望むような息子じゃねえよ。そんなの分かってんだろうが」
 敦子の目の端に涙が盛り上がって頬を伝った。はたはたと冬の雨のように地面に落ちる涙の滴を、哲は不思議なものを見るような気持ちで暫し眺めた。
「別に二度と会わないとまでは思わねえけど、今更家族でもねえだろ。あんたはあんたの人生があるし、俺は俺だ。跡継ぎが欲しけりゃもう少しマトモなの貰えよ」
「あんたって子は——」
 皺の増えた目尻に、言いようのない感情を覚える。過ぎた時間は、長い。取り戻せないものは確かにあるし、取り戻すほうが幸せかどうかも哲には何とも判断できかねた。
「泣くなよ。責めてねえだろ。あんたが元気で生きてりゃそれでいいんじゃねえの」
「…………うん」
 哲が笑うと、敦子は呆けたような顔をした。幼い頃とは明らかに違うだろう息子の笑顔に感じたのは失望なのか、それとも成長を見た喜びか。敦子は嗚咽を漏らし、広げた両手で顔を覆った。
 煙草を地面に落とし、靴底で踏みにじる。哲は立ったままの敦子に背を向けてそのまま門を出、角を曲がった。吸殻を拾う気にならなかったのが何故かは分からない。悲しくも、辛くもなく、だからと言って嬉しくもなかった。あんたが今幸せなら別にそれでいいじゃねえか、と胸のうちにひとつ呟きが落ちる。それだけだった。

 

 携帯を取り出して、発信する。
 感動の、ドラマティックな親子の再会などどこにもない。母親の胸に飛び込む方がいくらかマシかも知れないのに、進んで虎穴に入ろうとするとは一体自分はどこまで頭が悪いのか。
「哲?」
 柔らかく、深い声が哲の名前を呼ぶ。哲は思わず、口元を歪めて笑った。
「どうして欲しいかだけ、言うぞ」
 電話の向こうは続きを促すように沈黙する。
「くたばれ、くそったれ虎野郎」
 喉の奥を震わせるような、ごく低い笑い声。寝起きなのか、それとも他に理由があるのか、幾分掠れた傲慢な声が耳元で優しげな声を出す。こいつがこういう声を出すときは、正直ろくなことがない。分かってはいたが、唸り声で答えると、哲は携帯をジーンズに押し込んだ。
 嬉しくもなければ、嫌でもない。皮肉なことに、何より心が動くだけだ。
「来いよ、哲」
 ろくでなしの甘い台詞は笑止の至りだ。だが、分かっていて舐めるのなら甘い酒も悪くはない。
 遠ざかる辰村の自宅を肩越しに一度振り返った。当然母親が見えるわけもなく、黒っぽい屋根とこげ茶の外壁が、建物の隙間から僅かに見えた。