仕入屋錠前屋44 ドラマティック・アイロニー 6

 レイの事務所は相変わらず洒落ていた。高級感なら今しがた寄ったばかりの善行の事務所も負けていないが、レイの方がこだわりとセンスがある分垢抜けている。しかしそれが何かを量る物差しになるかといえば、決してそんなことはない。
「はい、これ」
 そこそこ厚みのある茶封筒を秋野の前に置き、レイは小首を傾げて見せた。
「お前の話通りみたいだよ。怪しいことはしてない中小企業のオーナー社長。奥さんとは六年前に結婚、辰村は前妻と病気で死別、奥さんの方は前夫と離婚しての、お互い再婚。業績とか素行調査とかの結果も全部入ってるから」
「そうか」
 秋野は煙草に火をつけて、封筒の中身を取り出した。ざっと辰村の調査内容に目を通し、写真の類は捲らずに袋に戻す。あっという間の検分に、レイが不思議そうに瞬きした。
「ちゃんと見ないの」
「本人が読めばいい。俺は知らん」
 レイは先程受け付けの女の子が持って来た煎茶を啜った。今日はどこぞのブランド物と思われるワンピース姿の受付嬢は相変わらずタレントのように完璧な見かけだったが、出された茶は薄くて不味い。レイがそれを口に運ぶのは茶の味が分からないのかそれとも単なる見栄なのか、どちらもありそうで秋野には判断がつきかねた。
「その、奥さんの息子の佐崎くんだっけ? お前最近その彼と組んでるんだって」
「そういうわけじゃない」
 秋野は素っ気無く返したが、レイは構わず突っ込んできた。
「でも随分一緒に仕事してるみたいじゃないか? 腕がいいんだね」
「錠前屋としてはな」
「ふうん。お前が買ってるなら俺も一回見てみたいかも。そのバイト先の居——」
「レイ」
 秋野は喋り続けるレイの、茶碗を持った手首を捕まえた。レイが口を噤んで秋野を見上げる。その顔は人畜無害の見本のようにすら見えるものの、本性と程遠いのは昔から変わらない。馬鹿ではないし信用も出来る。だが、この抜け目ない見かけとは違う男に哲の周りをうろつかせる気は秋野にはまるでなかった。
 別に過保護なつもりもないし、庇っているわけでもないが、自分のせいで哲を余計なことに巻き込む気はない。レイは表向きはともあれ、情報屋として裏側に通じすぎ、自分はもうそちらに戻る気がないというだけだ。
 一見無邪気に見つめてくるかのような黒い目を覗き込みながら、秋野はレイの手首を渾身の力で締め上げた。
「アキ、おい、痛いよ」
 レイの顔が紅潮し、茶碗を持つ手が震え始める。そのまま更に力を籠めると不意にレイの指の力が抜けた。茶碗が床に滑り落ち、思いの外音を立てずにきれいに割れて飛び散った。
「哲にちょっかいを出すな」
「そんな怖い顔しなくてもいいだろ。俺は別に」
「お前の気紛れにあいつを付き合わせる気はない。殺すぞ」
「……お前が言うと冗談にならないよ」
 レイが怖気づいたように秋野から目を逸らす。秋野はレイの手首を離し、茶封筒と自分に出された茶碗を持って立ち上がった。
「アキ」
「誰が冗談だって言った?」
 手の中の茶碗の中身を床に空け、薄緑の水溜りの中に白い陶器を落下させる。砕けた茶碗がそこらに飛び散り、後片付けは受付の彼女がするのだろうかという疑問がちらりと頭の隅をよぎった。
「……ドラマティックだね。お前がそんな風に言うなんてさ。恋じゃあるまいし」
 あっという間に赤くなった手首をさすりながら気の抜けた声で呟き、レイはもしかして、と秋野を見上げて何度か瞬きした。
「あんまり想像したくないけど、恋してたりして? それともあれ? ヤクザのよく言う弟分ってやつ? どっちでもいいけど何でそんな大事なの」
 秋野は床の上の欠片を踏みつけた。音を立てて破片が砕け、レイが叱られた子供のように首をすくめる。
「皮肉なもんだよ」
「——何が?」
「本当はお前よりあいつを殺したい」
 血の滴る肉を銜えた虎のように、秋野はにたりと笑ってみせる。レイはまるで不味いものでも食べたような顔をして、柔らかなソファにへたり込んだ。
「…………ビョーキなんじゃないの、アキ」
「まあな。あいつがどこで誰とどうしようが構わんのは本当だが、それとこれとは別なんでね」
 大きく息を吐いたレイを一瞥し、秋野は応接室のドアに向かった。何か言いたげな気配は感じたが、付き合ってやる気分ではない。ドアを開けると受付の女の子がにっこり笑って立ち上がる。
「お茶ご馳走様。美味しかったよ」
 特別優しげに言ってやると、彼女は当然ですと言わんばかり、女王然として微笑んだ。彼女の作り笑いに負けないくらいにっこり笑ってやると、秋野はレイの事務所を後にした。

 

 手の中の封筒がいやに重い。
 美也を善行の事務所に送り届けてその足でここまで来たが、道中も何故か気分が重かった。別に美也に対して腹を立てているわけではないが、浮かない気分は間違いなく彼女のせいだ。ここの所親とか家族とか、埒もないことを考え続けたせいもあるかも知れない。
 哲の母親がどんな人間で、哲がこの後どうしようと構わない。離れていくならそれもいい。自分が決めることではないし、いなければいないで多分それなりに時は過ぎる。多少刺激は少なくなるかもしれないし、いくらかの時間は物足りない思いもするだろう。
 だが、多分それだけのことなのだ。
 哲は多香子ではない。狂おしいほど欲しくはあっても愛情はない。哲は誰とも知れない父や殆ど会わない母ではない。血の繋がりは問わないが、どちらにしても家族ではない。ダンボールに詰められた、切断された死体のことが頭をよぎる。
 家族でも恋人でも友人でもなく。それでも、殺したいほど我が物にしたい、何ものかではあるのだった。

 ニュースと哲がナカジマから聞いた話を総合すると、哲の部屋の近くに捨てられていた死体は四十五歳の会社員のもので、容疑者は十六歳の長男だそうだ。母親に連れられて出頭した長男は、暴れるでも泣くでもなく、虚ろな表情だったという。父親に勉強しろと叱られ、むかついたからバットで殴ったという元野球少年はナカジマのところの若いのが使い走りにしていたらしい。今回の事件はまったく無関係で寝耳に水、北沢組も正直迷惑しているらしかった。
 今時珍しくもない事件だが、だからといって驚かないわけではない。秋野の感覚からすれば到底理解できない若者の心理に恐怖に似たものすら覚えつつ、口を開く。
「それにしてもナカジマさんとこも災難だな」
「何で俺に世間話したがるのかわかんねえよな」
 哲が肺から無理矢理押し出すような溜息を吐く。封筒を渡しにバイトから帰る時間を見計らって哲の部屋を訪ねた。昼間に顔を見たときは寝不足でぼんやりしていたが、今はいつも通りの顔で煙草を銜えて火をつけている。
「余程暇なのか、他に知り合いがいねえのか」
 毎度文句を言いながらも、哲はナカジマが自分との間に引く一線を信用しているのか違うのか、普段から別にナカジマを厭う風もない。だからと言って連絡が来るのを喜んでいるわけではなく係わり合いになりたくないというのは一貫しているようだ。相手が相手だけに露骨に邪険にして刺激するのも馬鹿げていると思うのだろう。
「信用してるのか」
 秋野が試しに訊いてみると、哲は顔をしかめてみせた。きつい目付きはいつものことだ。尖った視線で秋野を射つつ、哲はまさか、と吐き捨てた。
「ヤクザを信用する馬鹿がいるか。まあ、お前よりは信用出来るかも知れねえけどな」
「へえ。向こうは随分気に入ってるよな。どういう意図があるのか知らんが」
「……知らね」
 短くいい加減な返事の後、哲は僅かに逡巡するような間を見せて、低い声で呟いた。
「…………明後日」
「どうした?」
「いや、電話かかってきて、会うことになった。川端のおっさんの話ってのが、電話が来たっていう内容で」
「お前の母親から?」
「いや、あの辰村って旦那。おっさんのこともまあ、父親からじいちゃんの方調べりゃすぐ分かるからよ。おっさんも驚いたけど母親には会っとくべきだっつーんで……。で、おっさんから旦那に連絡取って、明後日ってことになって。まあ、避けても仕方ねえしなあ」
 哲は秋野が渡したっきり中身を見ようともせず置いたままの茶封筒にぼんやりと目を遣った。興味がないのか、怖いのか。秋野には分かるはずもなく、恐らく哲にもその辺りは曖昧なのではあるまいかと想像する。秋野の視線に顔を上げ、哲は煙をゆっくりと吐き出した。
「嬉しくないのか」
 秋野の問いに、哲は僅かに眉を寄せる。吐き出した煙が薄い幕のように顔の周りにたゆたって、哲の表情を覆い隠した。
「嫌じゃねえけど嬉しくもねえよ」
「そんなもんか」
 哲がふ、と片頬を歪めて笑う。長いままの煙草を揉み消し、哲は腰を上げると秋野の足を跨いで台所へ向かおうとする。その足首を掴んで引き倒し、秋野は哲の身体に覆い被さった。