仕入屋錠前屋44 ドラマティック・アイロニー 5

「ごめんなさい、急に」
 一見晴れ晴れとさえ見える美也の笑みは、どこか昏い。秋野はレンタカーの助手席に乗り込んできた美也を横目で見て、内心で溜息を吐いた。

 本当なら携帯を処分した後レイの事務所で調査結果を受け取るはずだったが、レイには電話を入れ、代わりに善行の事務所へ足を運んだ。善行は眉間を親指と人差し指で数度揉むと、心なしか弱った視線を秋野に向けた。普段なら善行に同情など決してしないが、さすがに今回は少しばかり可哀相な気がしてくる。可愛がる対象の回路がどこか飛んでいると、苦労が耐えないに違いない。
「……刃傷沙汰も二度目になると隠し切れん。悪いが——」
「俺だって警察呼ぶ羽目にはなりたくない。まあ、適当に何とかするさ。下手に今止めても同じ事を繰り返すだけだろう」
 善行は安堵したような表情で秋野を見上げ、軽く息を吐いた。
「すまんな」
「俺に頭を下げるのは不本意だって、顔中に書いてあるぞ」
 秋野は低く笑い、顔をしかめた善行を見て、更に笑みを大きくした。善行は面白くなさそうに手元のメモ用紙を千切るとくしゃりと掌に握り込む。
 秋野は善行が嫌いなわけではない。美也に言われるまでもなく共通点が多いことは分かっていたし、だからこそお互いが鼻につくのだということも知っていた。所謂同族嫌悪という言葉が一番近い。
 例えば友人であるヨアネスとも似ている部分はあると思うし、哲ともそういう部分はあるだろう。ただ、善行を鏡にして見えるのは自身のどちらかと言えば暗部が多く、そのせいか反発しあうのはある意味自己嫌悪と言ってもいい。それだけに善行のこういう顔を見て感じる喜びは不健康だし、後味がいい訳では決してない。
「恩に着ろよ」
「——はっきり言えよ。何が入用なんだ」
「錠前屋には会わせない。それでいいな」
 秋野がそう言うと、善行は紙屑を秋野に向かって投げつけた。紙屑は秋野に届くはるか前に、かさりと頼りない音を立てて床の上に転がる。視線を戻して善行を見ると、善行は目を眇めて秋野を見、掌を顔の前で合わせて首を傾げた。
「うちの店に連れてこなかった奴か?」
「連れて行ったさ。お前が会えなかっただけだろう」
「秋野」
「それでチャラだ」
 口を開きかけた善行を目で制し、秋野は穏やかに笑ってみせる。掌の中の携帯を善行に見せ、踵を返しながら語を継いだ。
「お前の大事なお姫様が仕入屋をご所望だ。じゃあな」

 

 先程目にした善行と今目の前にいる美也は、本当に似ていない。両方がそれぞれの親に似たのか、まるで違う顔立ちだった。それでも笑顔の下に何かほの暗い感情を見え隠れさせる美也は、先程の善行とどこか似ていなくもなかった。
 美也の言うまま車を走らせ、郊外の高級住宅地に入り込む。大きな公園のすぐ横に建つマンションはデザイナーズマンションというやつで、外から眺めるエントランス部分だけでもリゾートホテルのような趣だった。
 車を止めると、美也はマンションを見上げてちょっと呆けたような表情になる。その瞬間、美也の顔は幼女のように見え、秋野は酷くいたたまれない気分になって目を逸らした。
 平日の午後、気温の下がり始める時間に遊んでいる親子の姿は見えなかった。マンションの入り口に若い主婦らしき女がタクシーで乗りつけ、幼い子供の手を引いてガラス戸の中に消えていく。美也はぼんやりとそれを目で追い、何事もなかったようにまた秋野の顔を見た。一瞬目が合い、するりと逃げるように逸れた視線がまたマンションへと流れていく。
 マンションの前でどれくらいそうしていたか、秋野が口を開きかけた時、ガラスの自動ドアの向こうから四十代半ばくらいの男が現れた。黒いハーフコートを着た男は、秋野が想像していたようなスマートでいかにも若い女の子にもてそうなタイプではない。コートは上等そうだが、中肉中背で顔立ちは至って平凡。毛髪こそ豊かだが、遠目にも白いものが目立ち、格好いいと騒がれるようには見えない。中年を認め、身体を硬くした美也が大きな目を瞬いて身を乗り出す。
「尾山さん、私ちょっと知り合いが」
 コートの下で包帯は見えないが、間違いなくこの男が美也の相手なのだろう。平日の昼間に自宅にいるのは怪我のせいか。ドアを開けようとした美也の肩を咄嗟に押さえ、秋野は運転席から助手席のドアをロックした。
 美也が小さな叫び声のようなものを上げて腕を振り払おうともがいたが、秋野は手の力を緩めなかった。
「放してよ!」
 歪んだ美也の顔は、眦が吊り上って青ざめていた。
「どうしたいんだ」
「何よ。何がよ」
「出て行ってどうしたいんだ? 決着はついたんじゃなかったのか、美也さん」
 美也は何度も口を開きかけては窓の外の背を目で追う。美也の視線にも気づかず、男はどこか悄然とした様子で遠ざかって行く。角を曲がった男の姿が視界から消えた途端、美也の目に涙が溜まり、あっという間に零れ落ちた。
「私、彼を愛してるのよ。彼もそう言ったわ。行かせてよ」
「誰だって都合のいい女には都合のいい事を言うんだよ」
 冷たい秋野の声に美也は憤然と振り返ったが、秋野の顔を見て目を逸らし、両手をきつく握り締めた。細い指の、きれいに手入れされた爪の先が白くなっている。右手の薬指にはめたきらきら光る華奢な指輪が酷く不釣合いに煌いた。
「君だけだ、生涯一人だけだ、ずっと一緒にいようって言われたか? 笑わせるなよ。子供じゃあるまいし、言うのはタダだって気づいてないわけじゃないだろう」
「でも……」
「男なんて馬鹿な生き物なんだよ。結婚したい好きと下半身で考える好きは別物でね。あんたに言ったことは彼が奥さんに言ったことの繰り返しだと思った方がいい。それも、より誠意がない」
 美也の目は真っ赤で、涙で落ちたマスカラが下睫毛の周りにこびりついて無残だった。
 幾らきれいに装っても、美也は自制心のない子供となんら変わりない。褒められたことではないにせよ、妹を想ってやっと事を収めた兄の行動すら、美也は顧みてはいないのだ。
 家族愛と恋愛が違うのは当然だが、恋は愛より利己的で、ある意味自己愛だと秋野は思う。恋に目が眩んで自分以外の誰をも思いやれなくなる人間が個人的には余り好きではなかったし、破滅するなら好きにすればいいとも思う。
 あの男も眼前で泣きじゃくる美也も、現実が見えないほど楽しかったのだろう。それは二人の勝手だが、周りがどれだけ迷惑するか、まだあの自分勝手な錠前屋のほうが考えているというものだ。
 美也が片手で頬を拭うと、流れた化粧が擦れて薄く斑になった。見たいものだけ見て突っ走った結果がこうなら自業自得というものだが、善行が不憫な気がする。煙草に火をつけ煙を吐く。薄青い煙が車内を漂い、沈黙と同じだけの苦さが広がっていく。
「……知り合いの家の近くでバラバラ死体が出てね」
 突然の台詞の意味を図りかねたのか、美也は濡れた睫毛を数度しばたたいた。穏やかな陽射しがフロントガラス越しに美也の頬を優しく照らす。光に当たってうっすら浮かんだ産毛がまるで紛い物の後光のようだった。
「さっきテレビで見たわ。息子が父親を殺したんでしょう」
「家族っていうのは、複雑だな。半分しか血が繋がっていなくても妹を大切にする兄貴もいれば、親を殺す子供もいるし」
「だから何だって言いたいの」
「あんたがしてることもそう変わらない。性質が悪いよ」
 吐き出す煙が車内にこもる。秋野が窓を少し下げると冷たい空気がゆるりと流れ込んできた。一瞬押し流された煙はすぐに薄く散り、消えてゆく。窓の外に流れたか、それとも魔法のように掻き消えたか。人の心のように気紛れで不確かな紫煙がどこに彷徨い出たのか、秋野には分からなかった。
 ダッシュボードを弱々しく拳で叩き嗚咽を漏らす美也の声が、どこか芝居がかって空々しく聞こえたのは何故だろう。男の消えた方角を眺めながら、秋野はゆっくりアクセルを踏んだ。