仕入屋錠前屋44 ドラマティック・アイロニー 4

 哲の携帯が振動している。それはさっきから気付いていた。画面が明るくなっているのは見えるが、誰からかはそれだけでは判断出来ない。
 先程から床の上を自らの振動で僅かずつ移動していた携帯が、暫く間をおいてまた鳴り出したのだ。哲が再度動き出した携帯に手を伸ばす。伸ばされた腕を無理矢理引き戻し、硬い指に歯を立てた。小指から掌の縁をあま噛みし、手首を辿って冷たい親指を口に含む。口内の指に齧り付くと、哲の歯の間から軋るような威嚇音が押し出された。
「電話」
「ああ、鳴ってるな」
 凄い目で睨まれたので、仕方がないから取ってやる。哲は秋野に剣呑な一瞥をくれると携帯を手に取った。
「何か用か、おっさん」
 どうやら電話は川端らしい。何を言っているかまでは分からないが、だみ声が漏れ聞こえて秋野は何となくおかしくなった。
「ああ? いや、部屋——は? 何だいきなり。おい、寄るんじゃねえ」
 哲はドスの利いた低音を出したが、反応したのは秋野ではなく電話の向こうの川端だった。顔を近づけたので誰かいるのか、と問う大きな声が聞こえてくる。わざと身体を押し付けて首筋をがぶりと噛んでやると哲の拳骨が飛んできて、秋野はすんでのところでそれをかわした。
「人間じゃねえ、猫だ猫!!」
 投げやりに吐き捨てた哲の台詞に乗ってやろうと顎を掴んでこちらを向かせ、耳元で喉を鳴らすと川端の声が聞こえた。それにしても大きな声だとおかしなところで感心する。
「本当だ。へえ、お前猫なんか飼ってたのか。けどなあ、そのアパート、動物禁止だぞ」
「飼ってねえよ。躾のなってねえ野良猫……噛むなつってんだろうがボケ!」
「こらこら、動物を虐めちゃいかん」
 哲は秋野の顔を手で乱暴に押し退け、携帯を耳に当てなおした。頭を捕まえ反対の耳に舌を突っ込むと、強烈な膝蹴りが肝臓の辺りに食い込んだ。さすがに腹を押さえて唸る腹の上の秋野に険悪な表情を惜しげなく披露しつつ、哲は川端に頷いている。
「ったくクソ猫が…………ああ、わかった。ああ? 一時間後? のんびりしてんじゃねえ、年寄りが。今すぐ来いよ、今すぐ! ……——わかった。わかったよ、はいはい」
「川端さん、来るのか」
 圧し掛かる秋野に満足げな笑みを向け、哲はにやりと笑って頷いた。
「十分後にな」
「…………」
「幾らなんでも十分じゃ無理だよなあ。さあ退いた退いた」
 半分脱がされたシャツを引っ張ってボタンを嵌める哲はどこまでも楽しそうで、先程までの仏頂面が嘘のようだ。秋野を喜ばせようという気持ちなど露ほども持ち合わせていないのは知っているしそこがいいのだが、それにしてもあまりの上機嫌っぷりに、秋野は急に意地の悪い気分になった。
「まあ、最後までは無理かな。どうせやるなら満足したいし」
「だからさっさと退かねえか」
「——あまり調子に乗るなよ、哲」
 秋野の低く掠れた声に、哲が怪訝そうに眉を寄せる。秋野は口の端を曲げて笑うとおもむろに屈み込み、ゆっくりと哲に顔を寄せた。

 

 六十秒掛ける五。およそ三百秒。
 キスと言ってしまえばただの二文字。発音するのには一秒しかかからない。だが、秋野は結局三百秒の間、思いつくやり方を端からすべて実践してその行為を継続した。
 動けないように圧し掛かって押さえつけ、頭上で一纏めにした手首を痣が残るほどきつく掴む。暴力すれすれの——もっとも哲以外が相手ならすれすれどころか立派な暴力だが——じゃれ合いを何と呼ぶかは知らないが、哲が不機嫌なら不機嫌なだけ、行為が暴力的であればあるだけ蕩けそうになるのは何故なのか。
 暴れる哲を押さえつけ、時間をかけて隅々まで蹂躙する。息苦しさに生理的な涙を滲ませ縁が赤くなった二つの目は、底意地の悪い気分を助長こそすれ、その逆にはなり得ない。その目だけで職務質問を受けそうな凶暴性が、尚更秋野の口付けを深くする。
「哲」
 唇の僅かな隙間から哲を呼ぶ。哲が秋野に向かって悪態を吐きかけたが、素早く塞いで食むように舌を嬲る。このまま喰いちぎってやりたいという衝動と本気で戦いながら、秋野はぬるりと滑る舌と罵声を纏めて吸い上げた。

 結局のところ一時間あって最後まで済ませようが、十分しかなくて舐めあうだけで済ませようが、どちらでも構わないのが本心だ。もっとも哲がどう思っているかは知る由もないが、秋野は取り敢えず満足して身体を離し、哲の頭と腕を拘束していた手も離した。
 酸素不足で最後には息も絶え絶えになった哲は、それでもしゃがれた声で秋野に対する独創的な暴言を撒き散らすくらいには元気だったし、秋野の舌には一箇所深い傷が付いて血が出ていた。
 哲が漸く起き上がり、いささか焦点のぼやけた目で秋野を睨んでいたところに川端が予定より早く到着した。哲のなんとも言えない表情に、秋野はこみ上げる笑いを噛み殺した。
 どこにも姿が見えない猫と哲の腫れた唇、慇懃な態度の仕入屋の存在から川端が何かを読み取ったか、それとも案外何一つ見えていないか。よく分からないが、今更だから何だと言う程度のことだ。川端と二言三言交わし、不機嫌な哲の唸り声を聞きながら秋野は部屋を後にした。

 

 レイからの電話を切って知り合いの店に依頼された品物を届けに行き、暫くぶりに会う店のママ——と言っても年齢的にはグランマとでも呼んだほうがしっくりくる——と世間話をしていたらまた電話が鳴った。
 それは美也との連絡用に持っていた携帯で、これから処分しようと思っていたものだった。三科が連絡先を知っているから破棄していても特に困ったわけではないが、僅かの差に驚きながら応答した。
 美也は別に嫌いでもないが好きでもないし、おまけにあの三科の溺愛する妹だ。必要以上の係わりは持ちたくないと言うのが本音である。仕事は昨日で終わったから別に出なくてもいいのだが、廃棄する直前に連絡が来たことに意味があるならそういうものなのだろうと思い直す。
 ママの手作りの焼き菓子を片手に持ったまま、秋野は電話を耳に当てた。
「もしもし」
「ごめんなさい、美也です」
「どうも」
 テーブルに片肘をついただらしない格好でありながら、声だけはいかにも優しそうな秋野に向かってママがぐるりと目を回した。肥ったママの仕草が何とか言うお笑い芸人に良く似ていて、秋野は漏れそうな笑いを堪えて電話に意識を引き戻した。
「あのね、昨日で終わったのは分かってたんだけど、どうしても今日行きたい所があるの。連れて行って頂けない? 勿論その分の代金は支払うわ」
 気乗りはしないが、断る口実も思いつかない。秋野は笑いの次は溜息を飲み込んで、柔らかい声を出す。何もかも、真綿のように柔らかいものでくるんでしまえば誰の目に触れることもない。
「……いいよ。じゃあお兄さんに連絡してから迎えに行くから」
「お兄ちゃんにはもう連絡したから、尾山さんからはしなくていいわ」
 美也の声が必要以上に甲高くなり、秋野は思わず菓子を置いて椅子の背もたれに身体を預けた。嘘をつくのが下手だというのはいいことだと思っているが、敢えて騙される時——特に面倒に巻き込まれそうな時——は相手に向かってもっと上手くやってくれと言いたくなる。ピンクの布巾でテーブルを拭くママの太い指を見ながら秋野は努めて穏やかな声を出した。
「分かった。何時にどこに行けばいい?」
 一時間後の時刻と場所を告げる美也に返事をして、通話を切る。ママが未だに訛りの抜けない日本語で訊いてきた。
「彼女じゃないんだろ、そんな、食べ物手に持ったままで電話にでたりなんかして」
「その通り。彼女じゃなくて仕事だよ。行かなきゃ」
「アキ、そうやってまた食べないつもりだね」
 わざと怖い顔を作るママの頬に軽くキスして秋野はコートを手に取った。
「もし俺の好みを聞いてくれるなら、せめてその白い砂糖衣だけはなんとかしてよ」
「好き嫌いすると、恋人に嫌われるよ。食事作ってくれるのに文句つける男なんて、最低だよ」
 そう言いながらママは笑っている。どうせ秋野が歯茎がどうにかなりそうなほど甘い焼き菓子を食べないのは彼女も良く知っている。なんだかんだとお説教をしたいだけなのはお互い分かっているのだし、どうせ菓子はママが平らげるのだ。
「残念ながら恋人は今はいないよ。食事作れそうなのはいるけど、それも平身低頭で頼まないと作っちゃくれないし、俺は完全にあれにいかれてるのに向こうはまるでその気はないしで」
 コートを羽織って肩を竦めた秋野を見上げ、ママは濃い化粧の顔いっぱいでにんまり笑う。
「アキにはそのくらい冷たい子がいいよ。あんたはすぐ手に入るようなものは欲しがらない、そうだろ」
「俺は鋭い女は嫌いなんだよ」
「選り好みもいい加減にしなよ。だからってレイみたいに誰でもいいっていうのも困るけどねえ」
「あいつは見た目が好みで性別が女なら何でもいいんだろ」
 子供の頃から二人を知るママは丸い肩をひょいと竦め、戸口に向かう秋野に声をかけた。
「レイだっていい子だけどね。でも、あんたがもうああいうことに深入りしたくないならレイとは付き合わないほうがいいよ。だろう?」
「分かってるよ。レイは嫌いじゃないけど俺と合わない。知ってるだろ? それに俺はあの野犬で手一杯だよ」
「やけん?」
 首を捻るママに笑うと、秋野は店のドアを開けた。ママは手を振りながら、なにやらぶつぶつ呟いていた。