仕入屋錠前屋44 ドラマティック・アイロニー 3

「死体?」
 思わず大きな声を出した秋野に、哲はうるせえな、と飢え死にしそうな野良犬のように不機嫌な顔を見せた。
 乱れた髪を片手で更にかき回すものだから、状態は更に酷くなった。立てた膝の上に右肘を乗せ、煙草を持った手をぶらぶらと振ってみせる。寝起きの錠前屋は猛烈に不機嫌で、目の前の動くものなら何にでも殴りかかりそうに殺気立っている。恐らく腹も減っているのだろう。それでも話の続きを放っておくわけにはいかなかった。
「まさかお前」
「阿呆」
 短く吐き捨てられて、取りあえず一抹の不安は解消された。秋野はまだ寝足りないのか瞼が重そうな哲の眼に睨まれながら、自分の煙草に火をつける。哲が眉を寄せて煙草を吸い込み、灰皿に穂先を押し付けた。
「しかし物騒な話だな」
「何かそこの十字路に捨ててあったらしいぞ。警察が山ほど来てたって、角の蕎麦屋の婆さんが言ってたな。今日の朝刊に出てんじゃねえ?」
 秋野が耀司のところを出て用を済ませ哲のところへ立ち寄ると、辺りが妙に騒がしかった。パトカーも何台か出ており、脛に傷持つ身としてはどこか落ち着かない気分で足を速めた。哲は前の日のバイトの後に飲みに行ったと見えてまだ寝ていたが、外の様子を話すと「ああ、死体が出たからだ」と返事が返って来たのだった。
 段ボール箱に入った切断された死体の一部は、近所の年寄りが発見したものらしかった。
 ごみの収集日でもないのにまたどこぞのアパートの若いもんかと引き摺ってみたらやたらと重い。隙間から中を覗けばどうにも見てはならないものを見たような気がしてそのまま警察を呼んだと言うから賢明な年寄りだ。迂闊にも蓋を開けて中を見たら今頃死体は二つになっていたかも知れず、警察もそれはそれで頭を抱える羽目になったに違いない。
「確かなことはわかんねえみたいだけど、全部揃ってたわけじゃないらしいな。どっちにしても俺の部屋の近くに捨てるのは勘弁して欲しいぜ。警察とは一切関わりたくねえんだからよ」
 ぶつぶつと死体を遺棄した殺人犯に文句を垂れる錠前屋を見て、流石に秋野は溜息をついた。こいつのことだから、もし第一発見者になっても平気な顔でダンボールの中を覗き、舌打ちして箱を蹴っ飛ばすくらいはしかねない。
 まあ殺す側に回らなければ別にそれでも構わないか、と思い直してその顔を眺めると、哲は興味なさげに秋野を見返しマットレスの上に仰向けになった。
「用がないなら俺は寝る」
「この間の話」
「……ああ」
 哲は身体をごろりと転がして、うつ伏せになると顔だけ秋野のほうに向け、ゆっくり一度瞬きした。
「悪ぃな」
「いや、別に構わんよ。その男の話の真偽だけ確かめればいいんだろう」
「ああ。——いや、嘘ついても仕方ねえから多分本当なんだろうと思うけどな。なんつーか……今更、家族でもねえし」
「いないよりいた方がいいだろう」
「そういうもんかね」
 秋野は溜息を吐く哲の布団の横に腰を下ろし、銜えた煙草を右手に持ち替えた。哲が何も言わずに灰皿を秋野の方へ押して寄越す。
「この間、イタリアンの店で連れてた子いたろ?」
「顔とか覚えてねえけど」
「知り合いの腹違いの妹なんだが、ちょっと事情があるらしくて、妹馬鹿の兄貴がお守りを頼んできたってやつでね。耀司は父親が他所で作った娘を可愛がるなんてそいつの気が知れないって言ってたが」
 哲は何も言わずに秋野の顔を見上げている。腕の上に載せた顔は半分しか見えないが、特にこれと言った感情は窺えなかった。一見無表情な顔の下で、哲が母親に思いを馳せる時間は一体どのくらいあるのだろうかと不思議に思う。
「…………で?」
「——いや」
「何だよ。訳の分かんねえ奴だな」
 哲は面倒くさそうに息を吐くと顔を向こうに向けてしまった。灰皿に煙草を置き、背中に覆い被さってうなじを噛むと不機嫌そうな唸り声と肘打ちに迎えられた。
「死ね」
「丁度いいことにそこらに警察もいるしなあ。すぐ来てくれそうだな」
「他所で死ね」
 素っ気無く吐き捨てると哲は肩越しに顔を秋野に向けた。下から睨みつける眼光は気の弱い一般人の一人くらいは難なく病院送りに出来そうだ。
「まあそう言うな。これからまたベビーシッターなんだ、同情してくれ」
 腕をついて上体を起こすと、哲が秋野の下で身を捻り、仰向けになってまたあの女かと訊いて来る。そうだと頷くと哲はだるそうに顔を擦り、秋野の身体を押し退けた。
「さっさと失せろ、鬱陶しい」
「はいはい。仰せのままに」
 起き上がる寸前に胸を蹴飛ばされたので、お返しに思い切り足を踏んでやった。とても母親には聞かせられないであろう哲の罵声を背中で聞きながら、秋野は古い階段をゆっくり降りた。

 三科善行と秋野が顔見知りだと言うのは周囲には案外知られていない。
 レイが美也のことを何とか言いかけたのも恐らく三科の腹違いの妹だということを言いたかったのだろうし、耀司の父親の尾山ですら、今回の話を引き受けるまでは知らなかったと言っていた。
 それは善行の妹である美也も同じで、今日は兄のところに迎えに来て欲しいと言うから、善行の顔を見たくないと素直に言ったら驚かれた。ふんわりした雰囲気でどこか浮世離れした美也は天邪鬼なのか、だったら是非とも兄の事務所に来てと譲らず、おまけに明らかに故意に時間に遅れていた。
 応接セットで善行と向かい合わせに座った秋野は、これなら威圧感のない分レイのほうがまだマシだと、思うだけでなく口に出した。
「……誰だ、そのレイってのは」
「お前の知らん人間だ」
「じゃあ話に出すな」
「俺の勝手だ」
 同じようにソファに沈んだ姿は、どちらが客でどちらの応接室なのか、傍目にはまるで分からないに違いない。不満そうに鼻を鳴らし、三科善行は机の上の高そうな時計にちらりと目をやった。
「何やってるんだ、美也は」
 ビジネスマンらしく高級なダークスーツに身を包んだ善行は、しかしあまり会社員には見えなかった。秋野よりは低いが百八十ある長身は胸板が厚く頑丈で、見るものに威圧感を与えるに不足はない。どこを取ってもまったくヤクザ臭くはないのだが、一般人とも思えないのはその顔つきのせいなのかも知れない。
 造作だけ見れば整った部類に入るのだが、剥き出しの刀身のような冷たく鋭い目つきは迫力も凄みも相当で、その目つきで顔だけ笑うと正直背中が寒くなる。
「それより、俺はいつまでお前の可愛い妹の世話役でいればいいんだよ」
 秋野が煙草を取り出すと、善行は真面目な顔で禁煙だ、とのたまった。渋々箱を仕舞い込むと秋野は善行に視線を向けた。
「ああ、今日で終わると思う。解決しそうでな」
「大体、どんな男と付き合ってたって言うんだ、彼女? ストーカーでもされたのか」
「いや、刺したんだ」
「……は?」
「別れ話がこじれて美也が相手を刺した。勿論死に至るような怪我じゃないぞ。腕を何針か縫っただけでな。ただ、相手と話をつけるのに時間が要ったんだよ。まあ、向こうも妻子持ちだったから思ったよりごねはしなかったな」
 何でもないことのようにすらすらと口を付いて出る善行の言葉に、さすがに秋野も顔をしかめる。犯罪者すれすれ——というか、まあ実際のところ犯罪者なのだが——の生活をしている自分がどうこう言える立場ではないが、正直呆れる内容だった。二十代も残り僅かでそんな事をしている美也も美也なら兄も兄だ。
「知り合いの家の近所でバラバラ死体が出たぞ。お前まさかその相手をバラしたりしてないだろうな」
「人聞きの悪い。俺はお前と違って善良な一般市民だ」
 秋野のあながち冗談でもない台詞に善行は眉を顰める。秋野は今度は善行に断りもせず煙草を出して火を点けた。善行は整った顔を引き攣らせたが、何も言おうとはしなかった。
「お待たせ」
 ドアが開き、美也が顔を覗かせる。微笑んだ顔は善行の顔貌の鋭さとも、たった今聞いた話の生臭さともまったく無縁なように見え、だからこそ人というものの不可思議さに秋野は小さく身震いした。
「尾山さん、今日はお買い物に付き合ってほしいの」
「美也」
 善行が心なしか優しい声で妹を呼んだ。
「多分今日で尾山さんに付き合ってもらうのもおしまいだ。迷惑かけんようにな」
「そうなの? じゃあうまく行ったのね。有難う、お兄ちゃん」
 血の繋がりなのか、それともまるで別のものか。家族というのは何なのか。秋野は目の前の些か歪んだ兄妹の会話から、それでもお互いに対する愛情だけは強く感じた。
「…………お前のどこが善行だ?」
「何?」
 立ち上がり、煙草を銜えたまま呟く秋野に善行が切れ上がった二重の目を向ける。
「善い行いって書くなんて、余りにもおこがましいと思わないか」
 皮肉に笑う善行と薄茶の目を眇める秋野を交互に見て、美也が何度か頷いて言い放つ。
「お兄ちゃんと尾山さんって本当雰囲気がそっくりね。笑いながら相手を刺しそうよ」
 その台詞こそはっきり言って笑えないどころではなかったが、秋野は善行を振り返ってにたりと笑う。悪魔か何かのようなその笑みに、善行は一瞬怯んだように目をしばたたいた。