仕入屋錠前屋44 ドラマティック・アイロニー 1

 秋の長雨、とよく言うが、冬とは言えここのところは正にそんな空模様で、秋野は正直陰鬱な気持ちになりかけていた。
 この季節は、雨の冷たさが内部から身体を冷やす。別に人より寒がりというわけではないが、やはり暖かい季節のほうが過ごしやすい。木枯らし吹きすさぶ中薄着で煙草をふかしながら、冷たい風は気持ちいいなどと抜かすどこかの錠前屋とは違うのだ。
「ねえ、アッフォガートは好き?」
 目の前の女の唇からそんな台詞が零れ落ちる。気持ちを滅入らせる長雨に似て、女の声はどこか湿っている気がする。
「アイスクリームにエスプレッソをかけるの。美味しいのよ。アッフォガートが有名なイタリアンに行かない?」
「——ああ、いいよ」
 適当に相槌を打って、車を出す。そう言えばこの間もそのデザートのことを思い出した。あの女の名前は未だに思い出せないが、だからどうだと言うこともない。
「どうしたの?」
「別に」
 微笑んでやると女も笑う。フロントガラスを拭うワイパーの向こう、空にはどんよりと重い雲が垂れ込めていた。

 

 女の言うまま車を走らせ、着いたのは瀟洒な一軒家のようなイタリアンレストランだった。白い壁に雨の筋が流れているが、計算されつくした外見はそれすら華やかな装飾品のように思わせる。それでも値段はそれほど高くはなく、人気のあるレストランらしい。
 最後の一台分の駐車スペースに車を入れ、女がドアを閉めるのを待ってロックする。女の高いヒールがテラコッタタイル張りの階段に高い音を響かせた。
「わあ、嬉しい。有難う、尾山さん」
 秋野が女のご機嫌取りのようなことをやっているには仕事絡みの事情があり、決して好き好んでのことではなかった。しかし、とりあえず女は眺める分には文句のない容姿だったし、概ね上等と言ってよかった。
「どこの席がいい? 美也さん」
「窓側!」
 秋野の問いに、女——美也はにっこり笑って答えた。この雨の夜、窓から見えるものなどなにひとつないというのに、それでも彼女は嬉しそうにボーイの後についていく。彼女の姿を目で追って、黒い鏡のようになった大きな窓ガラスに視線をやる。そこで思いもよらぬものを見つけた秋野は、思わずその場に立ち止まった。

 仏頂面というのは、この男のためにあると言ってもいいだろう。
 さすがにいつもの穴の開いたジーンズは穿いていない。それなりに小奇麗な格好をしている哲は、入り口に背を向けて座っていて、その不機嫌な顔が窓ガラスにくっきりと映っていた。
 哲は秋野に気づいていない。相変わらずの銜え煙草で、目の前の中年の男性を眺めている。何やら声をかけるのも憚られて、秋野は美也に続いてテーブルに着いた。その席はちょうど哲の席に背中を向ける位置になり、秋野の視界から二人の姿は見えなくなる。
「尾山さん」
「え?」
「何を見てたの?」
 美也が細い首を傾げて無邪気に問う。秋野は曖昧に笑って誤魔化すと、メニューを取って美也に差し出し、哲のことは意識から締め出した。

 

「お前はきれいなお姉ちゃんと一緒で俺の連れがオヤジって言うのもむかつくよな」
 美也を送り届け車を返した直後見計らったように携帯が鳴り、耳に当てると哲の低い声が聞こえてきた。
「仕事だよ、こっちは。気づいてたのか」
「背中向けてたから帰る時まで気づかなかったんだよ。こっちももう出るとこだったし、わざわざお前に声かけても仕方ねえし」
「分かってないねえ」
「何が」
 秋野は霧雨まで雨脚の落ちた中、のんびり歩きながら煙草を銜えて火を点けた。雨で消えてしまうかも知れないが、それならそれで構わない。
「で?」
「ああ?」
「今どこなんだ」
「部屋。まだ一緒なら後でいいんだけどよ」
 答えながら、哲は大きな欠伸をした。
「いや、もういないよ。用は?」
「悪ぃんだけどよ、ちょっと興信所かなんか、そういうとこ紹介してくんねえか」
 意外な頼みに思わず秋野の足が止まる。霧雨で重くなった前髪をかき上げ、秋野は電話の向こうの哲に問いかけた。
「川端さんのほうが詳しいんじゃないのか、そういうのは」
「いちいち聞くなよ。頼みにくいからお前に言ってんだろ」
「今から行くよ。話してる間に濡れちまう」
 何だ、外にいんのか、と呟いて、呆気なく電話は切れた。秋野は一人肩を竦めると踵を返し、哲の部屋に向けて歩き出した。

 

「何だおい、そのまま上がるんじゃねえぞ」
 霧雨とはいえ、それなりの距離を歩いて水分を吸い込んだ服は、端から滴が垂れている。哲は露骨に嫌そうな表情で部屋の中へ取って返し、タオルを放り投げてきた。かなりの勢いで飛んできたタオルは秋野の顔にもろにぶつかり、パイル地が目に入って自然と目尻に涙が滲んだ。
「乱暴だな」
「俺が乱暴じゃねえと思ってるのか。この俺が」
 銜え煙草の哲はにたりと笑うとそう言い捨てて背中を向ける。部屋の中は相変わらずどこといって変哲のない男の部屋で、片付いているわけではないが汚くはないと言った様子だった。床の上の新聞を拾い上げると適当に畳んで放り投げ、哲はもうひとつ欠伸を漏らした。
「で、何で興信所なんだ?」
 秋野がタオルで髪を拭きながら訊くと、哲はああ、と唸るような声を出した。
「昨日会ってたオヤジ、母親の再婚相手だっつーんだけどよ」
「母親? お前の?」
「他に誰がいるよ」
 哲の仏頂面に特に変わった色は見えない。確か小さい頃に両親が離婚したとか聞いたことがあったような気がするが、連絡を取り合っていたかどうかまでは知らなかった。
「小学校んときに親父に愛想つかして出てって、離婚してから二、三回は会ったかな。けど、まあ何となく疎遠になったっつーか、結局中学上がる頃には音沙汰なくなって」
 哲の説明によると、昨日の男性は哲の母敦子が六年前に再婚した相手で、敦子の頼みで哲に会いたいと連絡を取ってきたらしい。
 秋野に横目をくれると、哲は重い溜息を吐いた。
「まあ、それほどおかしい話じゃないのかも知れねえし、いいんだけどよ。鵜呑みにすんのもどうかって思うだけで」
 生き別れていた息子を必死の思いで探し出してもう一度腕に抱きたいというのはまあよく聞く話だし、取り立てて怪しいとも思えない。幼い我が子が人並み以上に物騒に凶暴に成長したとはまさか想像もしないだろうから、哲自身がその話に似合わないというのはまた別問題だ。哲が一応確認を取りたいというのはその後の話だった。
 再婚相手は辰村と名乗り、敦子が哲に会いたがっていること、辰村は起業したオーナー社長でそれなりに資産があるが、死別した前妻との間にも、敦子との間にも子供がないこと、もしよければ哲を養子にということをほのめかしたらしい。
「笑え、無理しねえで」
 思わず口元を歪めた秋野に煙草の煙を吹きかけて、哲は憮然として吐き出した。
「おかしくなんかないけどな」
「嘘つけ。にやついてんだろうが」
「地顔です」
 ふざけながらも、秋野は別にからかっているばかりではないのが本心だった。自分も片親だから思うのだが、やはり親というのは両方揃ってこそのものだと考えることがたまにある。
 片方ではいけないことなどないし、駄目な人間が二人寄り集まるより一人の方がいいこともある。すべて良い事ばかりでは決してないが、それでも出来ることなら揃っていた方がいいに違いない。勿論環境や親の人格で色々事情は違うから、一概に言えたものではないのだが。
 だから、父親と死別し次に祖父を失った哲に母親が戻ってくるというのなら、それは別に悪いことではないと思うし、却っていいことではないかとも思う。別に哲に変わって欲しいとは思いはしないし、それが結果哲を哲たらしめていた鋭さを失わせるなら正直言って歓迎は出来ない。それでも、秋野は哲の人生に責任を負う気はないし哲もそれは望みはしないだろうから、勝手なことを言えた義理ではないというのが実際のところだ。
 それに川端は哲の祖父の知人の息子であるらしく、哲の家庭の事情というやつは良く知っている。それだけに面倒も心配もかけたくないという気持ちは理解できた。
 適任を紹介してやると言うことで話は終わり、面倒なのでそのまま泊まって翌朝戻った。部屋の隅の床の上で眠ったせいで体が痛みまるで寝た気がしなかったが、どうせ瑣末なことだった。