仕入屋錠前屋43 共存する全ての事柄

 どこか南米の国のサッカーチームのジャージのようだ。

 一番最初に頭に浮かんだのはそんな下らない一文だった。
 紺色の地の肩から腕に入った水色のラインがそんなふうに思わせたのだろう。そう考えたことすらしかと認識しないうちに下らない感想は意識の隅に追いやられて行ったが、目の前に立つ人物は当然消えるわけもなくそこに存在したままだ。

 件のジャージに、あちらこちらに穴が開き裾がほつれたルーズなジーンズ。足元はスニーカーで煙草を銜えた哲の姿は、一見予備校生か大学生か何かに見える。肉のない削げた頬の輪郭や眇めた目の表情はよく見れば二十歳やそこらの学生とは大分違うものだが、注意して見なければすぐに分かることでもない。
 多分ワックスをつけて適当にかき回しただけの頭を軽く振り、目にかかった一筋の前髪を払い除けると、哲は顔をしかめて鼻から煙を吐き出した。
「俺は電子ロックは扱ってねえっつったのによ」
 猛烈に不機嫌な錠前屋は、腹をすかせた野良犬に笑いたくなるほどよく似ている。
「何だ、話が伝わってなかったのか」
 開口一番の文句の意味はすぐに知れた。先日川端経由で舞い込んだ仕事の話を聞いていたからそれにまつわることなのだろう。詳しい事情はすっかり省かれて分からないが、要は彼の専門外である電子ロックの開錠が依頼内容であり、当然キャンセルになったに違いない。
 錠前を開けることに人生の大半を費やしている男だから、不機嫌になるのも当然だった。しかも、自分の不手際でも何でもないと来れば尚更だろう。
「まったく、こっちの条件も真面目に聞きやがれっつーのな。お陰で夜中にわざわざ出掛けてやれ言った言わない聞いてないで散々揉めてよ。頭に来たから蹴飛ばしたら合板のドアに穴は開くわ、ぎゃあぎゃあうるせえ男のお陰で耳は痛えわ」
 珍しく饒舌なのは余程腹に据えかねたのか、秋野は思わず吹き出して、思い切り睨まれた。
「で、黙って文句言われてきたのか」
「仕方ねえだろうが。歯の二、三本折ってやりてえのは山々だったけど」
 そう言って肩を竦めると、一応川端の面子を思い遣ったらしい哲は秋野の顔を見て露骨に忌々しげに顔を歪める。
「こういう時にてめえの面見ると益々むかつくな、実際」
「お前ね、俺のデリケートな神経は思い遣れないわけ」
「ああ? 何がデリケートだ何が。ドライクリーニング必須の洗濯物かお前は」
 どこぞの主婦のような台詞を道端に吐き捨てると、哲は背中を向け、先に立って歩き出した。

 

 向かった先は古びた有限会社の工場で、一体何を作っているのか油や鉄屑だらけの床をつま先立って歩きながら、ようやく辿り着いた名前ばかりの社長室の金庫の扉に哲はへばりついていた。
 ダイヤルはガムテープで止めたまま何十年も回したこともなかったというその金庫は、代表者印や受取手形が入ったもので、いまやメーカーですら廃盤の骨董品だった。
 社内の模様替え時に古く脆くなったガムテープが自然と剥がれ、新入りの事務員の女の子が何も知らずに跡を綺麗に拭き取ってしまったとか。お陰でダイヤルは何十年かぶりに自由を取り戻し、経営者は慌てて伝を頼ったという話だ。
 製造元か鍵師にでも問い合わせればいいものを、自分に話が来るのだから見られたくない帳簿か通帳でもあるのかも知れないが、昨日のお返しとばかりに真剣な顔でダイヤルを捻っている哲には別にどうでもいいらしい。
「彼は真剣ですなあ」
 バーコード頭に作業服の社長は、よれたタオルで汗を拭き拭き、長閑な口調で呟いた。
「欲求不満なんで」
「は?」
 アザラシに良く似た社長はつぶらな瞳をぱちくりさせる。応接セットに腰掛けた秋野は無意味に愛想のいい作り笑顔を浮かべて社長を誤魔化し、哲の横顔に目をやった。

 規模も謝礼も何より錠前の上等さも前日潰れた哲の仕事の代わりにはならないが、それでも急に回ってきたこの仕事に、秋野は内心感謝していた。目の前の小太りのアザラシの額に落ちたバーコードの端っこを、優しくかき上げてやってもいいくらいだ。さすがに実行するほど酔狂ではないが、それくらい有難いと本気で思う。
 哲が哲であるために仕事はなくてはならないものだったし、錠前屋でなくなった哲になど意味はない。
 金物店の名前が入った昔懐かしい安っぽいタオルをやっとテーブルの上に置き、社長はそれが癖なのか、再度目をぱちぱちさせる。
「もうねえ、ずっと固定してありましたからねえ。ダイヤルがあるってことさえ覚えてない始末で」
 曖昧に頷く秋野に社長は続けた。
「壊しちゃってもいいんですけど、それも勿体なくてねえ。それにほら、なんて言ったっけなぁ、あのJリーガー」
「Jリーガー?」
 場違いな単語に我が耳を疑って聞き返すと、さすがに哲も一瞬手を止めて振り返り、唇をへの字に曲げて肩を竦めるとまた金庫に向き直った。
「そうなんですよ、なんとかいうチームのねえ、Jリーガーがね、地域奉仕活動だか何だかでこの辺来ましてね。うちんとこにも来まして、それで金庫の上に座ったんですわ」
 確かに小さめの金庫は、腰掛けるのに丁度いい高さではある。
「で、社員と記念写真撮りまして、それで壊しちゃうってのもほらね、記念でしょ」
 そんなもんかと秋野が首を捻って金庫を見ると、哲の手元でダイヤルが最後の一回転を決め、意外に重たいレバーの音を響かせながら扉が開く。アザラシ社長が嬉しそうな甲高い声とともに立ち上がった。

 

「……Jリーガーね」
 哲はそう呟き、今しがた出てきたばかりの工場の煙突に負けじと煙を吹き上げた。
 薄曇りの空は哲が煙を吐き出す前から白っぽい灰色に霞んでおり、どこか寒々しい。寂れた、営業しているのかどうか判じがたい煤けた建造物ばかりの地域に、その色は妙に似合っている。その風景の中、道端に捨てられたペットボトルのラベルの青と、ファーストフードの赤い包装紙がやたらと浮いて鮮やかだった。
「お前の上着、どこかの国のサッカーチームみたいだよな」
 何となく先程思ったことを口に出すと、哲はああ? と品のない声を上げて自分を見下ろし、煙草の灰を地面に払って、同じ右手でちょっと考えるように額を掻いた。煙草の穂先が前髪を焦がすのではないかと哲の手元を見ていたが、それは無事に元の場所へと戻された。
「——中学ん時に一瞬サッカー部だったって言ったことあったっけかな」
「いや、初めて聞いた。……サッカー部?」
「だったんだよ。ほんと一瞬だけどな」
 何となくボールを追う哲と言うものが想像できずに黙り込むと、恐らく呆けた顔をしていたのだろう、哲が片頬を歪めて肩を揺らした。
「別にサッカー少年だったわけじゃなくて、誘われて何となく入ったんだよな。けど、すぐ行かなくなって、練習したのは正味半年弱じゃねえかなあ。籍は一応二年の終わりまであったような気がすんだけど。もうあんまり覚えてねえな」
「へえ。今度ボール持ってくるから蹴飛ばしてみろよ」
「勘弁しろよな。てめえの向こう脛蹴っ飛ばすほうが性に合ってるっつーの」
 哲はそう言って笑い、それでも秋野が黙っていると、足元のひしゃげたペットボトルを蹴って見せた。
「——ボールじゃ楽しくねえんだよなあ」
 放物線を描いて落ちるペットボトルを眺めながら口元を歪め煙を吐き出す哲の顔は、確かにどこか鋭すぎ、チームプレイが合っているとも思えない。沈みかけた太陽が厚い雲の隙間から息も絶え絶え、と言った様子で光を投げる。力ない夕陽に照らされた哲の顔には、やはりどこかまともな大人にはない翳りがあった。
「サッカー選手の柄じゃないか」
 地域奉仕活動ってのが柄じゃねえな、と哲は答え、しゃがんで煙草を揉み消した。

 

 帰り際に社長に見せられた写真には、なるほどテレビで顔を見たことのあるサッカー選手と、社員と思われる何人かが明るい笑顔で納まっていた。作業服姿の中年から、ダイヤルを動かしてしまった張本人と思われる田舎臭い制服姿の女の子まで、みな分かっているのかいないのか嬉しそうな顔で写っていた。
「人間は皆共存してんだってよ。だから部活も学校生活も協力し合わなきゃならねえ、と。まあそれはいいとして、世界はどうしたとか、地球はドウブツと人間が共存してるとか、共存してるものすべてを愛し生かすことを考えろとか説教されたっけなあ。いや、意外に覚えてるもんだな」
 しゃがんだままの哲は、揉み消した煙草を指先で弄りながら続けて言った。
「そいつが間違ってるとは思わないぜ。多分俺が何か足りねえんだろ。けど俺には合わねえな、そういうの。だから辞めた」
 秋野は、哲の顔を見下ろした。骨格がはっきり分かる哲の輪郭が、曖昧な光に却って硬質さを増して見えた。
 それが個人の魅力ではなくて、サッカーと言うスポーツのお陰であろうが違おうが、人の輪の中心に立ち笑顔を引き出せる誰かとは哲は明らかに違うのだ。どちらが社会のためになっているかというのは愚問でしかない。哲ひとりが欠けたところで世の中に何か損があるわけでもない。悲しむ人間の少なさと言う点では、そこいらの幼稚園児にも劣るちんぴらでしかない錠前屋のその横顔が、それでも忌々しいほど欲しかった。
 世界に共存する全ての事柄、愛すべきそのどれを踏みつけにしてもいいと思うのは、いかれた男の戯言に過ぎないと自覚していても。
「続けたからってそれほど上達したとも思えねえしな」
 吸殻を手に立ち上がった哲は伸びをして、低い声で呟いた。
「そうか? 案外花開いてたかもしれないぞ、才能が」
 秋野が言うと、哲は顔をしかめて頭を振った。
「なわけねえだろうが」
「そうか? よくあるだろう。映画とかで、別の選択で別の結末っていうのが。俺が錠前屋で、あの社長と写真に写ってたのがお前だったって言うシナリオもあるかも知れんぞ」
 哲は上着のポケットに手を突っ込み、足だけ上げて秋野の腰を思い切り蹴る。その蹴り方はサッカー選手とは程遠く、喧嘩の蹴り以外の何物でもない。
「ねえよ。お前に錠前屋が勤まるかって」
「痛いよ、蹴るな。やってみなけりゃ分からんぞ。お前も案外他の職業が合うかも知れんし」
「錠前屋の俺がいいんだろうが。つべこべ抜かすな、馬鹿」
 鼻を鳴らして秋野を追い越し、何歩か歩いて哲は突然振り返る。上手にインサイドで蹴られた石が秋野の肩口から頬を掠めて飛んでいき、工場の窓ガラスを漫画のように綺麗に割った。
「おー、やべえな」
 のんきな口調で言った哲が、秋野に目を遣り薄く笑う。凄絶な笑みから零れるのは、共存などするものかと言いたげに咆哮する獣の殺気。思わず苦笑を漏らした秋野にひとつ笑うと顎を振り、行くぞ、と哲は短く吐き捨てた。

 

 振り返らない哲の背中に夕陽が当たり、髪の先が金に光る。一瞬のその輝きは、神々しくも神秘的でもないというのにやけにくっきりと瞼の裏に焼き付いた。
 雲が流れて陽を遮り、周囲の色が途端に沈んだ。哲の蹴った石が掠めた頬のあたりと、頭蓋の奥が何故か痛む。今すぐその背を引き倒して屠りたいと叫ぶ何かを宥めながら、秋野は哲の背を追い足を速めた。
 共存など糞食らえだ。全ての事柄に配慮することなど出来はしない。だったら俺はこいつだけがあればいい。

 歩く秋野と哲の背中に沈む夕陽の最後の光が降り注ぐ。哲が踏みつけたファーストフードの包装紙が光に当たってその赤を一層濃くしたが、顧みる者はいなかった。