仕入屋錠前屋42 だめなおとな 1

「何で怒るわけ? ねえ何でそんな怒るの?」
「あああああもう黙れこの宇宙人!!!」
「酷いなあ、俺は正真正銘地球人ですから」
「一遍死んでこい!! 生まれ変わってやり直せ、馬鹿野郎!!」

 

 葛木が仙田のところに転がり込んで二週間が経つ。
 まだ二週間、もう二週間、だ。
 短い間に葛木は何度も本気で仙田を絞め殺したくなった。実行に移せないのは自分に意気地がないせいも勿論あるが、家主をどうこうしても得がないと思ったからでもある。
 それでも時折こうやって罵倒することで、何とか気持ちを収めていると言う状況だった。
 事の発端はかなり前に遡り、上——雇い主と言うか何と言うか——に命じられて使った偽造屋が仙田であり、その時はものの見事に馬鹿にされ、葛木も一時は本気で仙田を潰してやりたいと思っていた。
 しかし天然変人というか養殖宇宙人というか、とにかくどこかずれた仙田はのらりくらりと逃げ回り、最後はうやむやに馴れ合ってしまったような感もある。
 その後葛木は当時の雇い主の下を出て、あちらこちらをふらふらしていた。出てくるときに多少揉めたせいもあって部屋も逃げるように引き払い、ウィークリーマンションに住んでいたが、この度仙田の好意だか何だかを受けることになったのだ。

「それは感謝してる!!」
 内容の割には喧嘩腰の葛木の台詞も、仙田と言う糠床には幾ら打っても沈むばかりで刺さらない。
「嬉しいなあ。葛木に感謝されるなんて、俺もう本当いいことしたよね」
「いや、っていうか部屋には感謝してるけどお前が何かしたわけじゃないし」
「何で何で——? こうやってさ、俺との明るく愉快で楽しい同居生活を営ませてあげてるじゃん!!」
 道を歩きながら言い合う二人を女子高生の三人組が避けて通る。葛木はほんの少し悲しくなって溜息を吐いた。自分がいい男だと思ったことはないけれど、仙田といるとそれ以前の何かになってしまそうだ。
「わかった、もういい! それよりどこまで歩けばいいんだ!!」
「あ、通り過ぎちゃった」
 簡単にそう言って、仙田はさっさと踵を返した。咄嗟に理解できずに立ち尽くす葛木に向かって仙田が手を振っている。
「何やってんのー、葛木ー? 早く早く」
 葛木はどっと疲れた身体を引き摺りながら、仙田の方へと歩き出した。

 

 薄い茶色の目に見つめられると、たまらなく落ち着かない気分になる。葛木は目の前の男の顔から目を逸らし、手の中のコーヒーカップを無意味に弄った。
 葛木は仙田のところに来て以来、特に何もしていなかった。今更真っ当な会社員になれる気もしなかったし、とりあえず生活していくくらいの貯金はあるから時間は稼げる。そもそも無趣味といっていいくらい金を使うことがなく、余りに無欲すぎるから俺は覇気がないのかとさえ思うのだ。
 仙田は別に何も言わなかったが、今日は仕入屋に仕事の話で会うと言う。何なら一緒に言ってみるかと誘うので、件の仕入屋なる者はどんな顔か拝んでみるのも悪くないと思ったのだった。
「その節は、どうも」
 感じよく微笑んだ仕入屋は、以前に前の雇い主に命令されて尾行した男だった。あの時は尾山とか言うどこぞの社長の息子だと思っていたが、どうやらそれは間違いだったらしい。あの奥村を簡単に捻り潰した相手が仕入屋だったと知って、あの時奥村に加勢しなくて本当によかったと思ったりした。
 しかし、以前に仙田が転がり込んでいた部屋の主を仕入屋と間違えて睨まれたが、葛木にとってはどっちもどっち、類は友を呼ぶとはこのことに違いないとおかしなところで納得する。
「はい、じゃあこれ、お品物ね」
「ああ」
 仕入屋の声は低く、穏やかに深かった。それでも慎重にしまい込んでいるらしい剣呑さが香るのは、自分が臆病だからなのかも知れない。多分本当は怖い男なのだろう。仙田は知っているのかいないのか、相変わらず能天気な笑顔を浮かべ、仕入屋にA4判の封筒を手渡している。
「それにしてもどうして今回は手渡しなんだ?」
 仕入屋は銜えた煙草の先を揺らして言いながら、仙田にその色の薄い目を向けた。長い睫毛に縁取られた二つの目は、どうしても肉食獣を連想させる。
「……あー、うん。えーと、ね……」
 仙田は口の中で意味のない言葉を呟きながら、唇の端のピアスをつまんだり引っ張ったりしている。仕入屋は暫しの間仙田を眺め、葛木に目を向けた。葛木が何も言わない仙田と仕入屋を交互に見ていると、目が合った。片方の眉を僅かに上げて葛木を見、ふーん、と喉の奥から声を出す。
「なるほど。——まあ、紹介してやれる仕事はないでもないが」
「出来れば、あんまり危なくないやつ」
 仙田が付け足すようにそう言うと、状況が飲み込めない葛木を見つめて、仕入屋は低い声でゆっくりと訊く。
「あんたはそれでいいのか、葛木さん」

 

 葛木は三人兄弟の末っ子で、一番上が兄、その下が姉になる。兄と姉は真面目で出来がよく、葛木は甘やかされて育ち勉強は中の下だった。どこにでもある平凡な家庭で、父はサラリーマン、母は大手のスーパーの婦人服売り場でパートをしている。絵に描いたような日本人一家、特筆すべきことなどなにもない中流家庭だ。
 葛木が道を誤ったのは元を辿れば中学まで遡る。中学の陸上部で、葛木はかなりいい成績を出していた。高校で中距離から長距離に転向して大会では結果を出し、大学のスポーツ推薦も決まった、その矢先。痛めた膝は、結局元には戻らなかった。
 日常生活の上では何一つ不自由はない。元々短距離もやっていたので走るのは人より速いくらいだ。ただ、長距離の走行に耐えられる膝ではなくなった、とそういうことだった。
 大学に行くこともどうでもよくなり、走ることも出来なくなって、何もかもなるようになれと流されて傷害事件に巻き込まれ、安永に拾われて結局自分はどこかから足を踏み外してしまったのだと最近思う。
 安永がうんざりするほど下種な男だったとか、それは結局問題ではない。あそこで踏みとどまれなかった自分が弱いと言うそれだけだ。しかしだからと言って、施されるような真似をされるほど惨めではないと思いたかった。
「ごめんね、葛木」
 仙田がすっかり項垂れているが、慰めてやる気にもなれない。葛木は仙田を振り返らずに黙々と歩を進めた。
「俺、なんか——ねえ、葛木」
 勿論聞こえているが、文句を言う気力も湧いてこなかった。例えちょっとした気紛れだったにしても、誰かから——しかもこの不思議電波男から——憐れまれたのかも知れないというだけで打ちのめされた思いだった。
「葛木……ちょっ……」
 仙田の慌てたような声を背中に聞きつつ、葛木は走り出した。仙田に追いつかれるほど、そこまで自分は駄目じゃないと、そう思いながら。

「待ってよっ!!」
 肘を引かれて、葛木は引いた本人諸共アスファルトに転がった。まるでアクション映画の刑事と犯人のようにもつれ合って地面に転がり、吹っ飛ばされたブリキのごみバケツがけたたましい音を立てる。何で今時ブリキのごみバケツが、しかも絵に描いたようなこの狭い路地にあるのかと、転がった拍子に額を仙田の膝にぶつけつつ疑問に思った。小道具のように絶妙な位置に配されたそれは、中身をぶちまけ転がって、壁にぶつかってやっと止まった。
「も、葛木、はや…………あー、お年寄りには堪えるよ!」
 仙田は息を切らしながら、刺青の入った左腕で頬を拭った。地面に擦ったのか、赤い斑点と白い引っかき傷が浮いている。ハーフコートの袖を捲り上げているのは走るときに邪魔だったからなのか、それとも刺青で道行く善良な人々を脅してきたのか、それはよく分からない。
「葛木?」
 地べたに座った尻が冷たい。アスファルトは地熱を持っていたとしても、少なくとも葛木に分け与える気はないようだった。葛木は、右手で自分の顔を覆った。額が痛むからだ、そう自分に言い訳し、こみ上げるものを抑えるのを放棄する。
「葛木——ないてるの」
「お前、……畜生、お前なんか嫌いだ」
 我ながら二十八の男の台詞ではないと思うが、もうどうでもよくなった。言葉がところどころ震えて上ずり、大変にみっともない。しかし仙田の前で格好をつけたところで何一つ自分に得はないのだった。