仕入屋錠前屋41 足跡のない道

「クソ野郎」
 秋野は、足元に横たわる男を最後に一発蹴飛ばすと中指を立て、もし男に意識があったら血管が切れそうな悪態を英語で吐き捨て背を向けた。

 ここのところ五、六年前に戻ったように荒れた日々を送っていた顔は、酷い有様だった。青白い顔は元々削げているが更にげっそりとやつれ、目の下は青く隈が浮いている。目は荒んだ光を放ち、鏡の中から攻撃的に見返してきた。
 原因は、胸のうちに問うまでもなく分かっている。
 一緒に暮らしていた恋人の多香子が出て行ってもうすぐ二ヶ月、さすがに探すのも諦め、帰りを待つのも諦めた。自分の何が悪かったのか確とは分からない。想像は出来るし考えもするが、言われてみたわけでなければ結局のところそれは推測に過ぎないのだ。
 今はただ、仕入屋という始めたばかりの仕事が拠り所であったし、実際秋野には他に何一つないと言ってよかった。その仕事の絡みで嫌がらせを仕掛けてきたアフリカ系アメリカ人の男を必要以上に痛めつけても胸の支えはなくなりはせず、自室の鏡をいくら睨んだところで答えが出るはずもない。
 溜息をつき、携帯を取り出して電話帳を呼び出した。
「もしもし」
「……俺だ」
「秋野? 今どこ?」
「行っていいか」
 電話の向こうで女が小さく笑うのが聞こえ、途端に電話をかけたことを後悔した。浮き立ったように僅かにトーンが上がった女の声に鬱陶しい気分が押し寄せたが、それを振り払って掌の電話を握り締める。
「待ってるわ」
「…………ああ」
 囁くような甘い声に、多香子のやわらかな声が重なって聞こえる。これは幻聴なのか、単に脳が落とした記憶の欠片か。断ち切るように電話を切って、秋野は重たい腰を上げた。

 

 あの頃は、目の前の男と丁度同じくらいの年齢だった。それにしても今思い出すと流石に恥ずかしい気持ちばかりが先に立つ。自分がどれだけガキだったかが思い起こされ、身の置き所がなくなる気分だった。
「何、人の顔まじまじと見てんだよ」
「——悪いか?」
「減るだろうが」
 無表情に言ってのけると、哲は秋野に向かって紫煙を吐く。何が減るのか分からないが、言った本人も分からないに違いない。バイト先で貰ったという賞味期限間近の酒を手酌でグラスに注ぎながら、哲は煙草をまた一口吸い、点けっぱなしのテレビに目を向けた。
 肉の薄い硬い輪郭が、画面を背景に周囲から僅かに浮かび上がる。目だけ動かして秋野を一瞥し、哲は指に挟んだ煙草を灰皿に押し付けた。
「そういや、川端のおっさんのビルあったろう。あの、伊藤の美容室の入ってる」
 哲の高校の同級生が美容室を営むビルは、輪島の店が入るビルの隣にある。哲の知人である川端という不動産業者が仲介するその建物は中途半端な大きさの雑居ビルで、他の階には事務所や個人経営のエステらしき店などが入居している。
「あそこの最上階が空いたんだと。お前に言ってくれって」
 秋野は川端の禿頭を思い起こして首を捻った。
「何で」
「……知らね。仏花の礼だとか何とか。仕事で使いたいときは言えってよ」
 哲は短く言ってグラスを呷り、体をテレビのほうに向ける。秋野からは、その鋭い横顔しか見えなくなった。

 

 女の部屋は、やたらと甘ったるい匂いがした。
 女のつけている香水なのか、それとも別のものなのか。秋野にはいまひとつ区別がつかないが、正直胸が悪くなった。不快な香りではないのだから、要するに気分の問題だし、電話をしたのは自分のほうだ。そう思えば文句を垂れる筋合いではないと思い直し、開きかけた口を噤んだ。
 お酒でも、と言う女を遮って、腰に手を回して引き寄せる。甘い匂いに吐き気がしたが、ここのところ自虐的な秋野にとっては苦しむことすら気を紛らわす手段と思えた。
「ねえ」
 掠れた声で女が囁く。
 俺なんかのどこがいい、と胸のうちで尋ねてみた。声に出す気はまるでない。答えは、聞いても聞かなくても意味がなかった。多香子以外の女の何が一体重要だろう。雄の本能を満たしてくれるのなら別に誰でも構わないというだけなのに。
 大学でイタリア語を専攻しているのだと言っていた。尾山の経営するバーで仕事を手伝ったときにひっかけた女で、見た目も頭も上等だったが、いくら聞いても名前がきちんと覚えられない。
「今度、美味しいイタリアンを食べさせるお店に行かない?」
「……いいね」
「私、アッフォガートが大好きなの。デザートの名前よ。知ってる?」
 秋野は女の頤に手を添えると上を向かせ、啄ばむように口付けた。くすくす笑いながら女は続きを喋っている。カーディガンを脱がせ、キャミソールの紐を肩から落とす。鼻にかかった声を出す女の香りに眉を寄せつつ、胸のふくらみに唇を寄せた。

 

「つまんねえな」
 哲は低い声で宣告し、秋野の部屋のテレビを勝手に消した。別に見ているわけではないから構わないが、それにしてもどこまでも自分勝手な錠前屋だ。
「お前これ飲むか? 俺こういうの得意じゃねえから飲むなら置いてくわ」
 先ほどから飲んでいる酒とはまた別の瓶を指して哲がそう訊いて来た。哲の勤める居酒屋で何故そんな酒を買ったのか知らないが、これは残って当たり前だろう。あの店主がチンザノ・ロッソを一体どうやって扱っていたのか、間違って注文したとしか思えない。
 哲が瓶の口を開けると、ベルモットの香りが流れてきた。甘ったるい香りに、先ほどまで何とはなしに思い返していた女の顔と裸身がいきなり瞼の裏に閃いて思わず失笑してしまう。今更懐かしいでもない女、結局名前すら定かでない。胸焼けのするような甘い匂いに思い返すのが裸とは、女に失礼なような、当然なようなだった。
「何にやけてんだよ、気持ち悪ぃ奴だな」
 興味なさそうに自分を眺める哲の顔に、女の言葉がぽつりぽつりと甦る。あの時、多香子を手放して、自分はどこまでも自暴自棄で荒れていた。女に嫌な思いをさせたつもりはまったくないし記憶もないが、よくもあんな自棄になったガキと付き合ってくれたものだとなんとなく思う。
 手を伸ばして哲の手の中のグラスを奪う。指一本分残っていた酒を呷って空にすると、秋野はそこにチンザノを注いでみた。
「甘ったるい匂いだな」
 顔をしかめる哲にちょっと笑ってみせた。哲は基本的にどんな酒でも飲む男だが、やはり甘すぎるのは不得手なようでいい顔をしない。口をつけただけで鼻腔に独特の香りが流れ込む。辛い酒を飲みなれた口には過度な甘さに、いささか閉口しながら傾けたグラス越しに哲を見た。
 安っぽく厚いガラスの向こうに、輪郭が歪んだ哲の顔がある。まるで水底にいるようだ、と思いつき、女が秋野に抱かれながら言った言葉を不意にはっきり思い出した。
 テーブル越しに身を乗り出し、哲の髪を掴んで引っ張り寄せる。抵抗しようとした掌に中身の残ったグラスを押し付けると、一瞬哲の動きが止まる。その隙に更に近くまで引き摺り寄せ、耳に思い切り噛み付いた。
「痛ぇな!!」
「お前、アッフォガートって食ったことある?」
 耳の中に囁くと、哲がぶるりと身震いした。手の中のグラスをテーブルに叩きつけ、逃れようと身を捩る。歯の間から低い唸り声を上げて苛立つ哲は、本当に面白い。
 秋野は子供っぽい満足感に浸りながら、もう一度当時の自分へ思いを馳せた。時が経ち、自分はあの頃より格段に大人になったと思っていたが、もしかすると何も変わっていないのかもしれなかった。多香子への愛が哲への執着に変わったという、ただそれだけで。
「ああ? なんかミキと飯食いに行った時あいつが食ってたような……アイスじゃねえの」
「そうそう。よく出来ました」
「それが何だよ。離しやがれこのくそったれ」
「英語で言うと、drowned」
 秋野は髪を掴む指に力を入れて哲の頭を持ち上げると、鼻先に顔を近づけた。見据えてくる哲の目は、火を噴きそうな烈しさで、秋野の何かを縛り付ける。
「——イタリア語で溺れるって意味だそうだ」
 唇を寄せ、喉の奥まで侵入する。
 激しく、それこそまるで口付けに溺れるように深く、執拗に繰り返す。哲が手探りでグラスを手に取ると、秋野の頭の上で逆さにした。髪を伝い、頬を流れる甘ったるい赤い酒が、合わせる唇の隙間から入り込む。哲の顎にも流れたそれを舐めとりながら、息を吸う間も与えず貪欲に奪い取った。

 

 名前を忘れた女がきれいな発音でアッフォガート、溺れるっていう意味なのよ、と囁く声。
 足跡のない道を歩き出そうとしていたあの頃の自分。
 去っていった多香子。
 未だ目の前に続くのは誰の足跡もない獣道。

 こんな甘い酒ではなくて。
「俺に溺れさせて、八つ裂きにして捨ててやりたいよ、哲」
「お前の頭こそふやけてるぜ、クソ野郎」

 

 並ぶ者の足跡は、常に自分と重なるように、ただ、そこに。