仕入屋錠前屋40 世界でいちばん卑怯な男 7

 予想していなかったわけではない。それでも、輪島の店を出た時に姿が見えなかったから、可能性は半々だと思っただけだ。
 哲のアパートへの途上、板金屋の板塀横に立つ電信柱の脇に、秋野の長い身体が寄り掛かっているのが遠目からでもよく見えた。周りより濃い色のシルエットから一瞬で持ち主を判断してしまう自分に、曰く言いがたい苛立ちを覚える。
「あそこで待ってりゃよかったじゃねえか」
「先客がいたんでな」
 秋野の薄茶の眼は、暗がりの中で灰色がかって見えた。二人きりになると穏やかさの膜が剥離して、傲慢な虎の眼になる。やたら凶暴な猫だと思って放っておいたら実は人食い虎だったというようなもので、油断していたらいつの間にか食われていたということも有り得なくもない。
「深刻な顔して待ってたから、邪魔者は外した方がいいかと思ってね」
「つまんねえ冗談言ってんじゃねえよ。俺は疲れてんだよ」
「十分楽しんだくせに、文句を言うなよ。あちらさんは今頃お前以上に疲れてるだろう」
 頭の悪い大男のことなどどうでもよかった。のしてしまえばそれで終わり、記憶の隅にも引っかからない。哲は秋野の脇を通り抜けながら長い脛を蹴っ飛ばした。突然秋野の手が伸びて二の腕を引っ掴まれ、暴れる間もなく板金屋の塀に押さえつけられる。
「痛えな、この」
 文句を言いかけた唇を塞がれ、腹立ち紛れに思い切り膝頭を蹴りつけた。それでも縛める腕は緩まず、秋野は唇を離すと口元を歪めて哲の顔を覗き込んだ。足の甲でふくらはぎを蹴飛ばしたが、角度のせいでいまいち上手く当たらない。
「嫉妬出来たらそれなりに楽しいだろうな。だろう?」
 秋野はにやつきながら哲の目を見据えて言った。意地悪く歪む唇の形。眼は間違いなく笑っているが、優しげな微笑みとは程遠い。
「知るかよ。お前が楽しかろうがそうでなかろうが俺の知ったことか、くそったれ」
 右手の親指で顔をしかめる哲の顎をなぞりながら、秋野は低く、獣が唸るようなざらついた声で囁く。
「彼の方が、余程簡単だろうに。馬鹿だね」
「何が」
 哲が仏頂面で訊き返すと、秋野は片方の眉を上げた。
「俺に訊くな」
「てめえが言い出したんだろうが」
 そう返し、自由になる左手で側頭部を軽く殴った。秋野は僅かに顔をしかめる。
「乱暴者め。たまには俺を甘やかせよ」
「前にも聞いたな、そんな台詞。冗談じゃねえって、言ったことなかったか」
「さあねえ」
 秋野は大袈裟な仕草で肩を竦めた。
「——お前を見てるとぶん殴りたくて頭に血が昇って挙句腰抜かしそうになることがある。あいつじゃこうはいかねえよな」
 大した抑揚のない哲の口調に、秋野の眼から綺麗に笑みが引いていく。口元に刷かれたわざとらしい笑みはそのままに、容赦ない捕食者の眼光が哲を射すくめた。
「それは光栄の至りだな」
「お前は卑怯なんだって?」
 哲は目の前の底光りする瞳にそう訊いた。秋野は狡猾で傲慢だが、決して卑怯な人間ではない。それはよく分かっているが、栄に言われたから何となく口に出してみただけだった。
 秋野は哲を押さえつけたまま、ゆっくりと、噛み締めるように言葉を発する。
「正々堂々としてないっていう意味なら、そうだろう」
「そうかよ」
「俺が誰かより卑怯だったら、それでお前は一体どうする?」
 秋野の台詞で、栄が秋野に同じことを言ったのだと知れた。
「…………どうもしねえよ」
 哲は覆い被さる秋野の頭に手を伸ばし、長い前髪を鷲掴みにして手荒く引っ張った。長い睫毛と薄茶の瞳が眼前にある。甘い色はどこにも見えず、癒してくれる優しさもない。そのことに、哲は酷く満足した。
 目を開けたまま下唇に食いつくと、秋野が喉の奥を鳴らすように低く笑い、小声で哲を罵る言葉を吐く。生え際から差し込まれた秋野の骨ばった両手が哲の髪をきつく掴み、哲は秋野の脇腹を渾身の力で殴りつけた。

 

 あの男が結局どういう目に遭ったのか、哲は知らなかったし知りたくもなかった。それなりにお灸はすえられたかもしれないが、状況からして山に埋められたとも思えず、あちらの世界では順当に穏当な処分が下されたくらいだろう。
 井関と熊谷もこれに懲りて構成員などやめてしまうか、続けるなら遠山からもう少し厳しく教育される必要があるとは思うが、これも別に哲の知ったことではない。哲は他人の更正を願うほど人間が出来てはいない。
 栄の店はそれなりに流行っていると川端がお節介にも報告してきたが、それこそ哲には無関係な話だった。栄が自分の進みたい方向へ、自分のペースで歩いていけばいいことで、哲と道が交わる日は来ないのだから。
 あの後一度電話が来て、色々ごめんと謝られた。一体何を謝っているのか知らないが、一応ああと返事をしたら、栄は喉に詰まったような声を出した。
「俺、アキノさんにも失礼なこと、言ったから。佐崎から謝ってもらえるか?」
「別にいいんじゃねえの? あいつは大抵の人間より失礼だから気にしちゃいねえって。放っとけ」
 それは腹の底から本心だったが、栄は再度謝っておいてな、と繰り返した。
「卑怯だ卑怯だって自分のことを言ってたが、結局一番素直なんじゃないのか、彼は」
 深夜の道端、秋野が耳元に囁いた言葉が耳の奥に甦る。きっと秋野の言うとおりなのだろう。もしも栄が本当に誰より卑怯な男だったとしたら、逆に少しは心が動いただろうか。
 西日の射し込む部屋の真ん中で煙草の煙を吐きながら、哲はぼんやりと考えた。長くなった灰の先が崩れそうな動きを見せる。ゆっくりと灰皿まで移動させるその腕を、長い指が掴んで締め上げた。

 肺の中に残った煙を、口腔に一つ残らず吐き出してやる。恐らく不快だったに違いない。締め付ける指に力がこもり、痛いほどきつく舌を吸われた。
 誰が卑怯で誰が素直で世界でどのへんに位置していようがどうでもよかった。
 思い悩むのも、迷うのも、癒しを求めるのも性に合わない。殴り、蹴飛ばし、罵り合ってそれでも倒れない男なら、それだけで価値がある。単純で、常識的とも言えないが、それが自分というものなのだから仕方がなかった。
 遠山がナカジマに抱くような忠義もなければ、栄が自分に覚えたような恋心もない。
 理由など、どこにもない。

 哲の腕を掴んだ秋野の左手が、哲の指に挟んだままの煙草を抜き取り灰を払う。まだ火の点いたそれを一度吸い込んでにやりと笑い、秋野は薄茶の目を眇めた。
「何を考えてる?」
 どうでもよさそうに、いかにも一応訊いたと言う口調で秋野はそう口に出す。煙草を持った左手で頬を撫でられむかついたから齧ってやった。腹を蹴飛ばすと、秋野はそのまま後ろに倒れ、何がおかしいのか仰向けのまま煙草を銜えて笑い出した。
「…………世界でいちばん卑怯なぼんくら男のことだよ」
「誰だ、それ」
「お前」
 素っ気なく吐き捨てられた哲の言葉に、秋野が低く喉を鳴らす。
 沈み掛けた太陽の暖かなオレンジ色が、秋野の瞳に映って酷く血生臭い色に見えた。