仕入屋錠前屋40 世界でいちばん卑怯な男 6

 結局輪島の店は哲がカウンターに飛び乗った以外は別に何の被害もなく、それも被害と言うほどのものではなかった。
 哲は自らの言葉どおりさっさと後始末に取り掛かり——勿論輪島はそんなのいいよ、と言ったが哲は肩を竦めて布巾を絞ると端から綺麗に拭き始めた——手持ち無沙汰の秋野と栄は、哲がのした男をぼんやり見下ろしていた。
 栄の連絡で男は抜糸の済んだ井関と一緒に回収される手筈がついた。哲が散々痛めつけた直後に根性で起き上がろうと暴れた男は秋野の蹴りで再度倒され、映画の悪役のように縛られ地面に転がされて唸っていた。
「この人、どうなるんですか」
「さあ? お義兄さんに訊いたら」
 不安げな栄の声に気のない返事を返しながら、秋野は新しい煙草に火をつけた。
 地面に転がる縛られた男、というのは中々目を引く代物だ。人通りが殆どない時間とは言え、出来るだけ早く遠山が来ないかと、秋野は何となく通りの向こうを眺めやった。秋野の視線を目で追って、栄は小さく息を吐く。
「あの……」
「何?」
「佐崎のこと、好きじゃないんですか」
「好きか嫌いかって訊かれれば好きだけど?」
 前置きのない突然の質問にも無表情で見下ろす秋野の視線を避けるように、栄は自分の足元に目をやった。
「じゃなくて、その……だから、恋愛対象としてってことです」
「あれは、男だよ」
「——ずるい人ですね、アキノさん」
「そりゃどうも。よく言われるよ。初対面の人に言われたことはないけどね」
「……すいません」
 素直に謝る栄に、思わず秋野の頬が緩む。哲が前に栄は自分のことも哲のこともわかっちゃいないと言っていたが、言い得て妙だと思う。哲が乱暴者なのは同級生だから知ってはいたのだろうが、もしかして現場を見たことはなかったのかも知れない。
 嬉々として他人を痛めつける哲を見たのもショックなら、それを止めようともしない薄情な男と身体を重ねていることもまたショックなのか。落ち込んだような栄の浮かない横顔を見て、どこか可哀相な気分にもなった。
 哲が栄を殴り倒さなかったのも何となく分かる、と秋野は胸の中で呟いた。栄は見かけよりどこまでも素直で優しく、そして哲にしてみれば、「人畜無害でつまらねえ」と言った所か。癒されたいなどとは死んでも思わない哲にとって、栄はあまりに手応えがなさ過ぎるに違いない。それでも殴り倒して排除するにはどこか人好きのする男だ。
「振り向かなかった」
 不意に栄が呟いた。咄嗟に聞き取れないくらい低くて不明瞭な言葉に顔を見つめると、栄は一瞬秋野の顔を見て、地面の上に転がされた男の背中に視線を向けた。
「俺が、何回大声出しても」
「それどころじゃなかったんだろう」
「違うと思う」
 美容師らしい長くて細い指を組んだり解いたりしている。握り締めた関節の白く色が変わった部分にだけ、栄の内心が表れていた。
「……あんたの声は聞こえるんだから」
「俺に会って、どうしたかったの」
 秋野が訊くと、栄は自嘲的に頬を緩めた。
「そんなの、訊くまでもないじゃないですか。あんたがどんな顔してるのか見たかった。佐崎があんたのこと別に好きじゃないって言うなら、あんたもそうかも知れないし、それなら諦めてもらおうって思ってたんです」
 髪をかき上げながら栄は続ける。
「佐崎に知られないように会って、説得できたらそれでいいって思ってた。もし諦めが悪かったら、正志さんに頼んで脅してもらおうかとも思ったし、弱味があれば何でもいいから握ってやろうって。ヤクザをけしかけて逃げないなんて有り得ないと思ったから」
 秋野の吐いた煙が夜風にたなびき、薄く白い帯になって街路灯の明かりに浮かんだ。手招きするようなその動きに招かれたとでも言うように、角を曲がって車が徐行で近づいてくる。栄が顔を上げ、車を見て握り締めていた拳を開いた。
「卑怯者ですね、俺は。これじゃ嫌われても無理ない」
「……哲は」
 秋野が哲の名前を口に出すと、栄は一瞬傷ついたような顔をした。
「卑怯だからって、別にあんたを嫌いにはならんよ」
 独り言のような秋野の台詞に、栄は泣きそうな顔をした。
「あんたが俺より卑怯だとしたら、佐崎はどうするのか——俺は、それが知りたい」
 手で口元を覆い、低い声で吐き捨てる。秋野を振り返らずに、栄は車に向かって一歩踏み出した。

 

 男は車に運び込まれて連れ去られ、後には何も残らなかった。熊谷と井関は同じ車で去り——男と後部座席に押し込まれた熊谷は不平たらたらだった——、秋野は気付けば姿を消していた。
 輪島の店を出ると、栄が暗がりに一人で立っていた。浮かない顔をして、いつも見せる人懐こい笑みも影を潜めたままだった。
「何やってんだ、お前」
 哲が声を掛けても、肩を竦めただけで返事がない。仕方がないから哲もその場に突っ立って、口を開かない栄をぼんやり眺めた。
 男を痛めつけた後、気付いたら秋野の隣に立っていたので驚いたが、どうやら隣のビルが川端の仲介で借りた店舗らしかった。店の名前を覚えていないのだから看板に気付くはずもないが、例え覚えていた所で気付かなかった可能性の方が高い気がする。それにしても世間は狭い。
「正志さんに、あの人の連絡先聞きたくて」
「ああ……」
 哲は曖昧に頷いた。何と返事をしたらいいのかよく分からない。
「でも知らないって言われてさ。お前も電話に出ないし、それで、バイト先も行ってみたけどもう店閉まってて。正志さんに聞いたらここかも知れない……っていうか、後は行きそうなとこ知らないって言うから」
「伊藤」
 哲が口を挟むと栄は瞬きをして哲を見たが、喋るのをやめようとはしなかった。
「俺、正志さんの下にいるから熊谷くんのことは知ってるんだよ。この間ここで偶然会って立ち話になって、お前の話も聞いたんだ。今思えばってことで、その時は佐崎のことだって気付かなかったけど」
「伊藤」
「何でなんだろうな」
 栄は表情を変えずにそう言った。声音も口調もそのままだが、体の横で握られた拳に力が篭っているのが傍目にもよく分かる。
「男だっていう不利な条件は一緒だろ。俺じゃ駄目な理由って何? お前が傷つくの分かってて止めない人がお前を大事にするとは思えない」
 哲は黙ったまま、煙草を取り出して口に銜えた。火を探そうとしたものの、栄の顔を見て何となく動きが止まる。栄の顔はどちらかと言えば無表情だが、それでも滲み出るものを完全に隠すには程遠かった。
 気付けば、火の点いていない煙草を奥歯で噛んでいた。それがここにはいない誰かの癖だと気付いた途端、哲は忌々しさに煙草を路上に吐き捨てていた。
「俺は…………」
 栄は何かを言いかけて項垂れた。伏せた睫毛と街灯が頬の上に作る繊細な陰影は、ごく微か、震えて見える。次に口を開くまで、やや暫くの間があった。
「……俺は、卑怯だって、自分でも思うよ」
 何故この根は優しくて真っ当な男が自分を好きだと言うのかが、哲にはどうしても理解できない。理解できないものを理解しようとする殊勝な心構えは哲にはなかった。昔から自分がそういう人間なのは知っているし、この歳で今更変わろうとも思えない。分からないものは分からない。やれば出来るなんて言い草を信じたことは人生において一度もない。開かない錠前は、どうやっても開きはしないのだから。
「だったら何だ?」
 栄は目を上げて哲を見つめた。
「卑怯者だったとしたって、別にお前は嫌いじゃねえよ」
「でも、俺じゃないんだろう」
「だから」
 言いながら、先ほど吐き出した煙草に今更気付いて腰を屈めて拾い上げた。流石にそれを吸う気にはなれず、ジーンズの尻ポケットに突っ込んで掌で顔を擦る。いきなり疲れが肩にのしかかり、気付かないうちに溜息が漏れた。
「——お前じゃ物足りねえ。それじゃ理由にならねえか」
 言いながら、栄の顔は見なかった。
 見たくないものは見ない。欲しくない物はひとかけらでも欲しくない。例えそれがどんなに容易に手に入れられるところにあったとしても。
 栄は微かに頷くと、また俯いて足元に視線を落とした。複雑な色合いの茶色の髪が目元を隠し、引き結ばれた唇からは何の言葉も零れなかった。
 栄の体の横を通り過ぎて歩き出す。哲の体が通過する時、栄は僅かに身じろぎした。栄の整髪料の微かな匂い。吸い込む息の鋭い音。
「佐崎」
 呼び止められて振り向くと、栄の青い顔が見えた。どこか秋野を髣髴とさせる面立ちは、しかしまったく違う種類の人間のもので、哲は純粋に驚きをもってその顔を見た。
「もし、あの人が」
 栄の声は酷く低くて掠れていた。
「俺より——世界でいちばん卑怯な男だったとしたら」
 哲は泣きそうに歪んだ栄の顔をまじまじと見つめ、口元に笑みを浮かべた。小動物を前にした肉食動物のようなその笑みに、栄はますます顔色を失って見える。
「それでも俺はあれがいい」
 すんなり吐き出した言葉に、栄が身体を硬直させた。こんな時に笑う自分は不謹慎なのかも知れないが、口元に浮かぶ笑いの意味は、哲自身よく分からなかった。
「あいつは俺の手に余る。……そこがいい」