仕入屋錠前屋40 世界でいちばん卑怯な男 5

「すみませんお客さん、もう看板なんですが」
 固まる井関と熊谷などまるでそこにいないかのように、輪島は笑顔で男に穏やかな声を掛けた。立ち上がった熊谷はカウンターの裏に移動しようとじりじりと後ずさり、秋野は興味なさ気に男から目を逸らすと煙草を丁寧に灰皿に押し付けて、火を消すことに集中し始めた。
「うるせえ、関係ねえやつは黙ってろ!!」
 見かけから想像するとおりの太い声が必要以上の音量で決まり文句をがなり立てる。うるさそうに眉を顰める秋野を横目で見て、哲は男を観察した。
 ヤクザと言われればそう見えるし、売れないプロレスラーと言われればそうかとも思う。スーツでもお定まりの開襟シャツでもないありふれたグレーのスウェットの上下を着た姿は、見ようによっては休日のちょっといかついお父さんに見えなくもない。もっとも自分の組からも逃げ回っているようだから、着る物に構っている心境でないのは確かだろう。
 男は引き戸を開け放したまま店の中にゆっくり踏み込んでくると、血走った目で店の中を見回した。秋野の後姿には一瞬、肩越しに振り返った哲もほんの一瞥しただけで視線は通り過ぎ、カウンターの中の輪島を撫で、井関と、カウンターの裏までようやく辿り着いた熊谷の上でぴたりと止まった。
「てめえら」
「…………どうも、その節は」
 井関が間抜けな挨拶を口に出す。馬鹿にされたと思ったか、男のこめかみがぴくりと脈打った。
「てめえらのお陰で、俺は散々な目に遭ってんだよ、分かってんのか、あぁ?」
 漫画のように両手の関節をばきばきと鳴らしながら、男は一歩カウンターに近づいた。
「てめえら二人ともぶっ殺して箱詰めにして北沢組に送りつけてやる。大体なあ、北沢の奴らはせこいんだよ、何が俺らは貸金だお前、偉そうに。ただのヤミ金じゃねえかよ。撃たれた撃たれたって言いやがってチャカ商売にしてんのはてめえらだろうが!」
「そんなこと言われても」
 じりじりと近づく男を青ざめた顔で見つめながら、熊谷と井関はお互いにしがみつくようにして後退していく。
「根性ねえやつらがよ、ヤクザ名乗るんじゃねえよ!! 北沢組はどいつもこいつも腑抜けか、えぇ? 間抜け面晒してウロウロしてくれるから探しやすくてよかったけどよ」
 ここに来るのにも大した注意を払っていなかったと言うことなのだろう。熊谷が済まなそうな顔で輪島を見、輪島は仕方ないと言った風に小さく短いため息を吐く。
 頭の悪そうな大男が言っていることに余り間違いがないのがおかしかった。熊谷はすっかり腰が引けているが、ギャラリーがいるせいか、一応の虚勢はカウンターに並べてみることにしたようだった。
「み、見つけやすくしてやったんだよっ」
「あぁあ?」
「お前でも見つけられるようにって、その」
「何だとてめぇ、偉そうな口ききやがって」
 顔を真っ赤にしてこめかみに血管の浮いた男の形相に、熊谷は情けなくも正直に、ひっと小さな声を上げた。男がカウンターに近づくと、熊谷は助けを求めるかのように店の中を見渡した。

 

 別に哲に助けを求めたわけではないだろう。多分人間の反応としてごく当たり前の視線の動きに過ぎなかったのだ。しかし、店の中を彷徨った視線が自分の上に止まった時、哲は思わず唇の端を吊り上げた。
「なあ、俺が助けてやったら恩に着るか?」
「え?」
 熊谷が驚いたようにひっくり返った声を出す。
「悪いんだけどよ、俺もボランティアじゃねえから無料ってわけにはいかねえんだけど」
「何だてめえ、お前も北沢組かっ」
 状況を飲み込めないながらも威嚇して損はないと言った風な男の声に、哲はさも嬉しそうに頬を緩めた。
「いや、俺はこの店の店員」
 つらっとそう言うと、哲は輪島を振り返った。輪島は目をぱちくりさせて哲の顔を見つめている。哲は酷く上機嫌な声を出した。
「お前の上司の義弟な、あれ絶対ここに連れて来ねえって約束したら代打する」
「でも……」
 熊谷がうろたえたように井関を見上げる。井関は熊谷に見られたことにすら気付いていないようだったが。
「でも…………あの……分かりました!」
「口実なんかなくてもいいだろうに」
 秋野の低い声がぼそりと呟き、哲は背後の秋野の脚を後ろを見ずに蹴り上げた。
「うるせぇなあ、他人の喧嘩に首突っ込むには色々手順てもんがあんのよ。あ、店長、カウンター、後で綺麗に拭くから」
「店長? あ、俺か。はい、え? 拭く? 何——」
 輪島が言い終わらないうちに、哲が男の胴に蹴りを叩き込んだ。男が大きな声をあげ、一歩横によろけたが踏みとどまって怒りで赤黒くなった顔を哲に振り向ける。
「こいつ…………!!」
「的がでかいと狙う必要なくて楽だぜ」
 哲の挑発の語尾に被せて、男が唸りを上げて突進した。哲は振り向き、二歩でカウンターに駆け上がる。熊谷と井関はバタバタとカウンター裏の階段を駆け上がり、輪島はその場にしゃがみこんだ。
「ちょ、ささ……」
「だから後で拭くからよ!!」
 言いながら、上から脚を叩き下ろす。男は哲より体格でかなり勝っていたが、上から打ち込まれた足の重さに肩を抑えてもんどりうった。後頭部を打ったのか、呻き声はするものの、立ち上がろうとはしてこない。カウンターに仁王立ちになった哲は口元を歪めて倒れた男を見下ろすと、低い声で嬉しげに囁いた。
「さあ、ここから先は広い所でやろうじゃねえか」

 

「佐崎!?」
 裏返った声に振り返ると、目を丸くした男が哲を見て突っ立っていた。秋野は顔を知らないが、哲の知り合いなのだろう。哲はその声にまるで反応することなく、男と睨み合うのに専念している。
 店の中で一旦は昏倒した男の襟首を捕まえて引き摺り出し、男が立ち上がるまで、哲は黙ってその場に立っていた。
 せっかくの機会を、すぐに終わらせたくないのだろう。身体中に人を殴るのが楽しくてたまらないと書いてある。まったくもって野蛮な男だ。
 熊谷と井関を狙う男がどうにか立ち上がり、怒りにぎらつく目で哲を睨む。哲の名前を呼んだ若い男はもう一度大きな声で哲を呼んだが、哲は視線一つこちらに寄越さない。
「おおおおおっ」
 だみ声の気合と共に、男が哲に拳を叩き込む。避けきれずに肩口に当たった拳を力の限り振り払い、哲は獣のような唸りを上げた。
「佐崎っ……」
 鉤の手のように曲げられた哲の右手の五本の指が、男の顔面に喰らいついた。見た目よりある腕力と勢いで、自身より大きく重い体を丸ごと地面に押し倒す。
「がっ」
 男の口からおかしな声が漏れた。振り回した手が哲の顔に当たったが、哲は殴られた頭を振ると左手で男の顎を殴りつけた。
「痛えじゃねえか、野郎」
 燃えるような目の色と、殴りつける拳の烈しさ。まったく別の世界のもののように、口調だけが静かに低く落ち着いている。哲の拳が何発かまともに顔に入ったが、男もさすがにただでは殴られてはいなかった。自分の胸の上に跨る哲を太い腕で払い除け、喚きながら立ちあがる。
「止めないんですかっ!!」
 若い男が秋野の腕をきつく掴んで悲鳴を上げた。一瞬彼の存在を失念していた秋野は、ふと思い当たって男の顔をじっと見た。
「……美容師の、」
「アキノさん、って、あなたですか」
 例の、遠山の義理の弟なのだろう。何故ここにいるのか秋野にはよく分からないが、それは別にどうでもいいことだ。しかし、熊谷に彼をここに連れて来ないと約束させた哲の苦労は無駄になったと言えるだろう。
 もっとも、使う口実が何であれ、あの乱暴者が熊谷の代役を嬉々として務めただろうことに変わりはないが。
 秋野が答えず黙っていると、栄——確かそう言う名前のはずだ——はまだ男と殴り合っている哲と秋野を交互に見て、青ざめた顔で声を上げた。
「あんな、怪我しますよ! 何であんた黙って見てるんですか!」
「止めたらこっちが怪我するよ」
 銜え煙草の悠然とした態度に腹を立てたのか、栄はもう一度哲を呼んだ。
「佐崎、止めろって……警察呼ぶぞっ!」
 相変わらずこちらを見もしない哲は、弱ってきた男の左のこめかみに掌底を叩き込んだところだった。男はよろめきながら、それでもまだ立っている。
「まったく、何で——」
 苛々と唇を噛み、栄はきつい視線を秋野に向けた。秋野は栄について、哲の同級生で遠山の身内だということしか知らなかった。いかにも美容師らしい洒落た身なりの栄を興味深げにひとしきり観察し、秋野は煙を吐き出した。
 哲と寝たというのだから、多少なりとも哲のことが好きなのだろう。この男が幾ら哲を好きだろうが構わないが、喧嘩を止めないからと言って睨まれる筋合いはない。秋野は怖気づいたように瞬きする栄の目を見て言った。
「遠山さん、呼んでもらえるかな」
 栄は一瞬何を言われたか分からないのか、さらに何度か目をしばたたく。
「あれ、お義兄さんの仕事の関係者なんでね。哲は痛めつけるまでは得意だが、その後のことは余り考えてない」
「だったら尚更止めるべきでしょう」
 多分気付いていないのだろうが、秋野の腕を掴んだままの栄の指に力が篭った。
「どうして?」
 秋野は肩を竦め、煙草を歯の間に挟んだまま哲のほうに身体を向けながら低い声で静かに吐き出す。
「哲は殺すまでやるほど馬鹿じゃない。あいつがやりたいなら気の済むまでやらせりゃいい。指は傷つけて欲しくないが、それ以外は本人がいいなら多少どうなったっていいだろう。哲」
 大声と言うわけでもない秋野の声に、哲があっさり振り返った。
 地面に両膝を着いた男は顔中を鼻血で赤くし、肩で忙しない息をしてぐったりしている。哲は唇の端が赤黒く痣になり、髪が少し乱れていたが真っ直ぐ立っていた。表情は余りないが、興奮しているせいか眼がぎらつき、上機嫌なのは隠せない。哲は短く唸るような声を出した。
「何だよ」
「そろそろ仕舞いだ。荷物は引き取りに来て貰う。いい加減にしないと殺しちまうぞ」
「てめえはいちいち喧しいな。俺はそんなヘマはしない」
 言い捨て地面に血の混じった唾を吐くと、哲は笑った。ずっと以前に秋野が別の意味で使った台詞を、まだ覚えていたらしい。哲は秋野のほうに歩いてきたが、あと数歩の所でやっと栄に気付いたのか、意外そうに眉を上げ、足を止めた。
「——伊藤。何してんだ」
「……俺の、店、ここなんだ」
「はぁ?」
 栄の指差す輪島の店の隣のビルに、確かに真新しい美容室の看板が上がっている。秋野は看板には気付いていたがそれが彼の店だなどとは知る由もないし、哲は興味がなかったのか、単に名前を覚えていなかったのだろう。
 哲は先ほど自分で熊谷に提案した件を思い出したのか、眉を顰めて軽く息をつく。しかし今思えば熊谷が何か言いたげだったのは、栄の店が隣のビルだと知っていたからなのだろう。僅かに頷き、哲はそれきり興味を失ったかのように栄から視線を外した。
 秋野に無言で歩み寄ると、銜えた煙草を物も言わずに取り上げて、続けて吸い込み靴の底で踏みにじる。
「俺がまだ吸ってるだろうに」
「るせえ、殺すぞ」
 物凄い目付きで秋野を見ながら、哲は獰猛な笑みを浮かべる。かき上げた前髪がもう一度額に被るまで、哲は瞬きせずに秋野の目を睨み続けた。
 秋野の足元に吸殻を蹴飛ばし黙って背を向けた哲と、口の端を曲げて笑い吸殻を拾う秋野を、栄は言葉もなく見つめていた。