仕入屋錠前屋40 世界でいちばん卑怯な男 4

「で、またお前かよ」
 哲の仏頂面ににやにや笑って、秋野は輪島の店の紺の暖簾を持ち上げた。
 バイト先の裏口で会ってから、まだ三日と経っていない。まったく手塚は顔の割には人が悪いと、哲はいつもながら半ば諦めて息をつく。もっとも諦めながらも手が出るのは最早本能としか言いようがなく、体の横を通り抜ける秋野に肘打ちを食らわせるのは忘れはしなかった。
「痛いよ、乱暴者」
 さして痛くもなさそうにそう返し、秋野はやり取りを苦笑とともに眺める輪島に、片手にぶらさげた袋を差し出す。
「はい、ご注文の品」
「お、サンキュ」
 この間言っていた包帯だか何だか、とにかくそういった類のものなのだろう。哲はがたつく椅子に腰掛けて、カウンターの中を片付ける輪島に声を掛けた。
「そういや、あのヤクザは」
「井関? 今日抜糸なんだよな。多分そろそろ来る頃かな。それで和範が気を回して」
「は?」
「お前も俺も強面ボディーガード役ってことかね」
 秋野はカウンター上の灰皿を引き寄せながらそう言って哲の隣の椅子に座った。横目で見ると肩を竦めて違うか、と問うような顔をする。
「熊谷も井関もね、ヤクザにしちゃ覚悟が足らないんだよね」
 輪島はグラスを二つ取り出し、ボディーガードならアルコールは駄目だね、と言いながら烏龍茶を注いだ。
「そもそも何で撃たれたのかって言うとこれが間抜けな話でさあ」
 遠山が言うように、熊谷は元々このあたりの店でボーイをしていたらしい。そして井関は熊谷のパチンコ仲間だそうだ。お互い二十代前半と年齢も近く、なんとなく、と言う感じで一緒に北沢組の構成員になったのだが、どこかヤクザらしくなく中途半端だと輪島は言う。熊谷が輪島に何故か懐いているせいで、輪島にとっても井関はよく知った顔らしい。
「車上荒しをしてたらしいんだよね、二人で」
「……ヤクザが?」
「そこからして既に情けないだろ?」
 自分にも烏龍茶を注ぎながら輪島はさも可笑しそうに笑って見せる。
「ま、とにかく二人でせこく車上荒ししてカーナビなんかを探してたわけ。そしたら運悪くその車の持ち主が戻ってきちゃって、それがヤクザでこれまた頭の悪いやつだったらしくてね」
「社用車かねえ」
 秋野が呑気な口調でそう言って、右手の煙草の灰を払う。煙が哲の顔の前に流れてきた。大袈裟に手で避けると、何食わぬ顔で更に大量の煙を吐き出した。思わず噎せ返る哲に、輪島が呆れたような顔をする。
「大丈夫? 佐崎君。秋野お前大人気ないな」
「いいの」
「よくねえだろ、馬鹿たれ」
「うるさいよ」
「あぁ? 何だってコラ」
「まあまあ」
 険悪な雰囲気になった二人の間に輪島が割って入った所でコントのようなタイミングで店の引き戸が勢い良く開かれた。三人揃って振り返った戸口にはひよこ頭の熊谷と、片足を引き摺った井関と言うヤクザが立っている。相変わらず熊谷はそこらへんの道端でギターでも弾いていそうな身なりだし、井関と言う方もガタイはいいが取り立てて特徴のない外見で、今いち迫力に欠ける感は否めなかった。
「ちわっす」
「あー今お前たちの情けないヤクザ珍道中を」
「……先生、珍道中ってなんですか」
 熊谷が泣きそうな声を出し、井関は能天気にあははと笑った。
「じゃあ俺はちょっと坊主の糸引っこ抜いてくるから、適当に熊谷から聞いてて」
 輪島はそう言い残し、僅かに脚を引き摺る井関と奥に消えた。熊谷は前回よりは警戒心が薄れたものの、まだお前らを信用していないぞ、と言う表情でその場に突っ立っている。
「座れば?」
 秋野が煙草を持った手をぞんざいに振ると、むっとしたようなほっとしたような複雑な表情で従った。もっとも座ったのは秋野と哲から一番離れたカウンターの向こう端で、上目遣いでこちらを伺う様子は人見知りの子供に見えないこともない。
「——どうも」
 渋々、と言った様子で軽く頭を下げ、所在無げに椅子の上で尻を動かす。秋野の薄茶の眼で見つめられて落ち着く人間はそういないだろう。少なくとも熊谷は間違いなくリラックスとは程遠い顔をしていた。
「遠山さんから、お二人に会ったら宜しくって……」
「律儀だな、意外に」
「ナカジマの躾じゃねえの、飼い主には盲目」
 目の前の二人の、自分の上司に対して礼を失すること甚だしい会話に熊谷は目を剥いたが、取り敢えず指摘するのはやめたようだった。
「それで?」
 秋野の手が翻り、その手の中に安っぽいプラスチックのライターが現れる。魔法のように出現した毒々しい緑色のライターが、哲の銜えた煙草に火を点けた。黒い前髪の間の秋野の目に小さな火が映って揺らめくのを、ぼんやり見つめた。黄色く光る二つの眼が一瞬哲の視線を捕まえて、熊谷の方へ逸れていく。秋野の視線の動きを何となく追い、目だけ動かして熊谷を見た。
 刃物を突きつけられたような表情で、熊谷は何故かごくりと唾を飲んだ。

 

 熊谷の話は要領を得ないというほどでもないが、説明が上手とも言えない。いまいち情景が浮かびにくい説明から、それでも状況の大方は飲み込めた。
 輪島の話の通り、熊谷は井関とおよそヤクザには似つかわしくない——ヤクザのすることにいいも悪いもないからまあ、単純にイメージの問題であるが——車上荒しに勤しんでいた。その時狙った車は一見それとは分かりにくいが、北沢組とは何かと角つき合わせている祥央会系の晋和会という組のものだったそうだ。戻ってきた男は名前は知らないもののよく見かけるガタイ自慢の大男で、その場は何とか逃げおおせたものの、後日遠山のお供でビジネスの場に赴いたら、不幸なことにそこには大男も同席していた。
「俺らと同じで、多分なんつーか、頭数っていうか、そんな荒っぽい場じゃなかったんで」  会合の内容をはっきり言わないのは、組に迷惑をかけたくないのと、基本的に何も知らない下っ端であるのと両方の理由だろう。所々で口ごもりながら、熊谷は話を続けた。
「やべぇ、って思ったけど遅くて。その前のことはいちいち上に報告してもいねえっすから。そしたら何を思ったかいきなり井関の足にズドンですよ! もう皆びっくりしちゃって、あちらさんも何かただ口が開いてたっていうか……」
「銃を持参するような危ない話だったのか?」
「いや、それは向こうの上もびっくりしてました。手に負えないつーか、頭弱いつーか、遠山さんにそんなことも言ってたから」
「で、相手は」
 熊谷は肩を落として溜息を吐くと、胸ポケットから煙草を取り出し、火をつけずに掌の上で弄ぶ。
「なんか混乱してて、皆気付いたらいなくなってました。晋和会でも探してるみたいだけど、撃たれたのが遠山さんとか、組員ってわけじゃないし、一応形だけっていうか」
 熊谷と井関は北沢組の構成員だと輪島も言っていた。確かに下っ端の構成員が撃たれた所で北沢組も騒ぎ立てることはそうないだろうし、晋和会としては建前上探している姿勢を見せているだけだろう。逆に戻って来たら面倒だからそのまま行方知れずになってくれればいいと思っていても不思議はない。
「ただ、俺遠山さんの身内と顔見知りなんすよ。だから、遠山さんの言付けとか持ってく時にそいつが出てきたらやばいなってのはあって」
「身内?」
 哲が思わずそう訊くと、熊谷は素直に頷いた。
「遠山さんの奥さんの弟さんで」
「…………勘弁してくれ」
 ついそう唸り声を上げると、熊谷は目をぱちくりさせ、秋野は可笑しくてたまらないというようにカウンターに突っ伏して肩を震わせた。
「頼むからそいつここに連れてくんなよな……」
「え、あの、でもこの間」
「もうこれ以上ややこしいことになんのは——いつまで笑ってんだ、おい、クソ虎」

 

 哲が秋野の肩を拳で殴ったのと、カウンター裏のドアが開いて輪島と井関が現れたのと、店の引き戸が物凄い勢いで開いたのと。
 すべてが同じタイミングで一気に起こり、その時狭い店の中はやたらと人口密度が高かった。そしてそれぞれが思い思いの方向を向いており、傍から見ればさぞや滑稽な眺めであっただろう。
 井関があっと大きな声を上げ、井関を見ていた熊谷が振り返って文字通り飛び上がった。哲が椅子に座ったまま振り返ると、予想通りそこには大きな坊主頭の男が立っていた。
 無精髭に覆われた顎は四角く、眼は細いがぎらついた光を放っている。
「なるほど、弱そうだな」
 頭が、と言う主語を省いて秋野が小声で感想を述べ、輪島がいらっしゃいませ、と状況に似つかわしくない声を掛けた。