仕入屋錠前屋40 世界でいちばん卑怯な男 3

 哲の所にダイレクトメールが届いたのは、それから一週間近く経った頃だった。
 前日の夜、容赦ない虎男に襲われたせいでいつもより遅く起き、目覚めたばかりの働かない頭に有毒物質を送り込んでいる真っ最中——要は起きぬけの煙草でぐらぐらになっている所——に、珍しく郵便配達のバイクの音、続いて階段を上がる靴音が聞こえてきた。
 哲のところに郵便など滅多に来ない。手紙を書いてくるような知り合いはいないし、ダイレクトメールが届くようなメンバーズカードや何やらも持ってはいない。かたん、と音を立てて床に落ちた小さな四角い紙切れを、だから哲は暫しそのまま眺めていた。
 長い灰の先を灰皿の縁で払うと、哲はようやく腰を上げた。拾い上げたダイレクトメールはシンプルなデザインに、横文字の名前が書いてある。一瞬何か分からなかったが、小さく「CUT」とかなんとか文字が見え、裏返すと「伊藤栄」と手書きの名前が書いてあった。哲は顔をしかめると、手の中の葉書を床に放り出した。
 別に栄は嫌いではない。しかし、幾ら好きだと言われようが同級生であろうが、栄とは何かが決定的に合わない気がしてならなかった。川端といる時に偶然会ってからも何度か電話が来たが、面倒臭くて出なかった。
「…………」
 綺麗好きではないが、哲と言えどもゴミはゴミ箱に捨てるものだと思っている。それを即座にゴミ箱に投げ込んでしまわないのは、栄が可哀相だからでは決してなかった。何と言ったらいいものか、哲自身、うまく表現できるものではない。結局床に舞い落ちたその場所に、葉書はそのまま放置された。
「面倒臭え」
 数時間後、低い声で呟くと、哲は葉書を跨いで部屋を出た。店の名前も、住所も電話番号も。
 哲の頭に残ったものは一つもなく、葉書の分厚い紙の表面、加工された手触りだけが、指の先に僅かな時間記憶されたに過ぎなかった。

 

 輪島の所に熊谷とか言う金髪のヤクザが訪ねてきたのは、栄の店のダイレクトメールとほぼ時を同じくしていたらしい。治療代と気持ちだとかいう金額を輪島は渋々受け取ったとか。多すぎると突き返しても、それでは上に叱られると言ってきかない熊谷に閉口し、最後はヤケクソ気味にレジの中に突っ込んでいた、と秋野は笑いながら哲に言った。
「まあ、輪島さんもヤクザと関わりたくないって常日頃から言ってるから、素直に受け取りたくないのはよく分かるがね」
「へえ」
 店の裏口で煙草を吸いながら、哲は秋野の横顔を見るともなしに見ていた。別に見惚れているわけではない。単に目線の先にあるだけで、もしそこにポリバケツがあるならそれを見るだけだ。
 秋野の背後、向かいの店の裏口には、明らかに堅気とは思えないでかい男が立っていた。よくここで甲高い声で罵り合っていたホステスは、片方が辞めたようで、近頃は言い合う声も聞こえない。
「しかし抜糸だ何だってまだ何回かは顔見せるんじゃねえの、あのヤクザ。関わりたくないって言ったってな」
 哲がそう口に出すと、秋野は僅かに首を傾げて煙を吐き出す。
「ま、仕方ないだろうな。輪島さんのことだからうまくやるさ」
「ならいいけどな」
「それにしても世間は狭い」
 遠山のことを言っているのだろう秋野の台詞に、哲はしかめ面でうんざりした声を出した。
「まったく誰かどうにかしてくれねえかと思うぜ。あっちもこっちも繋がってやがる」
「ナカジマから遠山で、美容師の彼か。芋づる式に」
「俺の周りにゃお前を含めてろくなのがいねえ」
「それは言えるな」
 秋野は可笑しそうに声を立ててひとしきり笑った。向かいの店の大きな男が、笑い声が気になるのかこちらを向いて威嚇するように目を細める。古臭い言い方をすれば用心棒であろうその男をひと睨みで追い払うと、秋野は長い前髪をかき上げて、黄色い瞳で哲の顔を眺めやった。
「ところで昨日も訊き忘れたんだが、そのサカエとかいう子がどうしたって」
 声はいつになく優しげで、甘く深い。こいつは、本当に性質が悪い。
 哲は舌打ちし、秋野の削げた頬から目を逸らした。この男がこういう声を出す時は、ろくでもないことを考えているか、イラついているか、それとも底意地悪い本性を発揮しようとしている時か。いずれにせよ、楽しいことが待ち受けているとは言い難かった。
 不意打ちに加えて口元に浮かべたわざとらしく歪んだ笑み。女ではないから声音一つに騙されることなど有り得ないが、それにしてもその残忍そうな眼とのギャップは酷すぎる。
「どうもしてねえよ」
「俺に用があるんだろう、彼は。美容師だったっけな」
「俺が知るかよ」
 片方の眉を上げ、もの問いたげにした秋野が口を開いた丁度その時、店の裏口が開き、服部が姿を見せた。
「佐崎さ……あ、すみません」
「——まあ、いいさ。じゃあな、哲」
 にやりと笑って手を上げると、秋野はさっさと背を向け去って行った。服部がひよこのような髪に手をやりながら、哲の横に立つ。髪だけ見ると熊谷と兄弟のようだ。開け放したままの裏口から、店内の客の声が微かに漏れ聞こえた。
「たまに来てますね、あの人。友達っすか」
 どこか子供のように無邪気さが残る顔で、服部はそう訊ねた。
「友達っつーか…………」
「綺麗な眼の色してますよねー。ハーフなんですかね?」
「知らね。混血とは言ってたけど」
 哲は未だに、秋野にどれだけどこの血が入っているか知らないのだ。興味がないから訊こうと思ったこともない。以前、英語の他にタガログ語とかいう言葉を喋っていた。タガログ語はフィリピンの言葉らしいが、秋野の容姿は一般的なフィリピン人とは似ても似つかないものだから、尚のことよく分からないのだ。
「なんか、似合いますね」
「ああ? 何が」
 意味が分からずに見下ろすと、服部はにこにこしながら嬉しそうに口を開いた。
「いや、あの人が佐崎さんを哲、って呼ぶの、なんか物凄く似合います」
「……戻るぞ」
「さ、佐崎さん?」
 突如として全開で不機嫌になった哲に、服部はその場に凍りついた。無言で店に戻る哲を、服部は黙って見送る。
 哲が厨房でぶつくさ文句を言いながら野菜を滅多切りにしている頃。服部は店に戻れず裏口の前を行きつ戻りつし続けて、向かいの店の用心棒に不審な顔で睨まれていた。

 

「どうもありがとうね」
 手塚は人のいい笑みを浮かべてそう言った。回転椅子をくるくる回すその姿は四十を過ぎた院長というよりは一桁の年齢の子供のようだ。哲は針金を手の中で回しながら手塚の挨拶を聞いている。
「ところでそれ、何?」
「テンション」
「って?」
「犯罪者必携、ピッキングツール」
「……」
 秋野や哲の商売を知ってはいても、手塚自身は真っ当な市民で法に触れることをしてはいない。戸籍のない男に健康診断をしてやるというのが法律違反かどうか、そこまでは知らないが。
 哲の手の中の器具を横目で見ると、手塚はまたくるりと椅子を回した。
「頼んでおいてこんなこと言うのなんだけど、多分、きっと犯罪だよねえ」
「寝惚けてんじゃねえのか、先生」
 哲はわざと大袈裟に顔をしかめ、手塚の差し出す封筒を受け取った。手塚は秋野に言われているからとか言いながら、たまに仕事を持ってくることがある。さすがに手塚の紹介してくる仕事に犯罪に繋がるものはなく、今回も引越しで鍵を紛失してしまった倉庫と金庫の扉の開錠という、小さな地場企業からの至極真っ当な依頼だった。
 一般の鍵師のふりをしなければならないのは億劫だったが、錠前は錠前だから言われるがままに足を運んで開けて来た。その帰りの手塚医院の診察室だ。
「警察には捕まらないでよ。秋野の面倒見るの嫌だから」
「野生動物は放っとけばいいんだよ」
 不機嫌に舌打ちする哲を見てほんの少し微笑むと、手塚は椅子を回すのをやっと止めた。
「ところでさ、今日バイトだよね?」
「そうだけど」
「こんなことお願いして悪いんだけど、帰りに輪島の所に寄ってもらえないかな。いや、なんか使い走りみたいな真似させるつもりじゃないんだけど……」
「いいよ、別に」
 済まなそうな手塚の顔を見返して、哲は肩を竦めて見せた。
「あいつに頼まれてたものがあってさ……。でも今日は製薬会社の営業さんと約束あるからどうしても行けなくて」
「別に構わねえよ。遠回りってわけじゃねえし」
 手塚はごめんね、と言いながら四角い包みを取り出した。恐らく薬品か何かなのだろう。それ程大きいものではないが、ある程度の重量はある。紙袋に入ったそれを受け取りながら、哲はスツールから腰を上げた。
「内科医がモグリの外科医に薬の差し入れ?」
 哲がふざけてそう言うと、手塚は眼鏡の奥で苦笑しながら哲と一緒に立ち上がった。手塚は長身だが、やわらかい表情のせいか痩身のせいか、威圧感はまるでない。
「そういう意地悪言うと、あとで仕返しされるんだよ、佐崎くん」
「先生が俺に? あんまり怖くねえなあ」
 本心を口に出すと、手塚はにこにこ笑って「そうだねえ」と間延びした声を出す。相変わらず患者のいない待合室を通り抜け、玄関まで見送りに出てきた手塚は、やけに機嫌よく手を振った。