仕入屋錠前屋40 世界でいちばん卑怯な男 2

 川端と栄の話は何故かとんとん拍子に進んで行き、翌日栄は川端の事務所に来たと言う。あの後途中で二人を置いてさっさと帰って来た哲に、電話で川端はそう言った。
「いやあ、俺も気になってた物件でなあ。何せ事務所にするには中途半端な広さのフロアなもんだから借り手がつかなくてな。いや、本当に助かったよ」
「そうかよ。そりゃよかったな。はいはい」
 いい加減に相槌を打ちながら、哲は煙を目で追った。蛍光灯が弱っているのかそれともそれも効果なのか、薄暗い店の中で煙はどこか幻のように漂っている。
「お前もあれだ、仕入屋みたいな物騒なのとつるんでないで少しは更正への道をだな」
「うるせえ、黙れクソオヤジ」
 セリフと裏腹に気のない口調でそう言い捨てると、哲は一方的に通話を打ち切った。携帯をカウンターに放り出すと溜息を吐きながらグラスを掴み、溶け残りの氷諸共、酒を口に放り込む。憮然とした哲の顔におかしそうに頬を歪めた秋野の吐き出す煙の筋が、更に濃くなって哲の周りに流れてきた。
「川端さんか」
 秋野は喉の奥で低く笑いながらそう呟いた。川端の声は何せ大きい。携帯で話しているのに耳が痛くなるほどだ。声が漏れていてもまるで不思議はない。哲は頷いて煙草を銜え、火をつけた。
「この間話した高校んときの知り合いと偶然会ったんだよ。何だか店替わるってんで場所探してたらしくて、たまたまあのおっさんと一緒にいたもんだから」
「あの美容師か?」
 秋野が片方の眉を上げてそう訊いてくる。
「ああ。遠山の義理の弟。まったく、いらねえ縁ばっかりだぜ。参るよな」
 哲が灰皿の縁で灰を払うと、輪島が寄って来た。空になったグラスを指し、哲を見てにっこりと笑う。
「何飲む?」
「いや、もういいです」
「そう言わないで。無理矢理呼んだんだからお詫びだよ。同じのでいい?」
「はあ」
 哲が曖昧に頷くと、輪島は空いたグラスを下げて新しいものをカウンターに置いた。灰皿も新しいものに取り替えられる。哲を無理矢理呼んだところの内科医は、カウンターの端で舟を漕いでいる。輪島はそちらに戻ると手塚の頭をぺしりと叩き、看板片付けてくる、と言い残して店の外に出て行った。
「結局、店を替わるのか」
 一瞬輪島のこの店のことかと思った哲は自分の座る中古の椅子に目をやったが、栄の話題だったと気がついて頷いた。
「何か癒すの癒さないの言ってたっつったろ? 自分のやりたいことやるのに人に雇われてちゃ出来ないんだとさ。で、何人か寄り集まって共同で借りてやるんだってよ」
「へえ」
 訊ねた割にはそれ程興味がなさそうに相槌を打ち、秋野は煙草を灰皿に押し付けた。哲も自分の煙草の灰を秋野の灰皿の縁で払った。何となく、新しい灰皿を汚すのは気が引ける。
「まあ、俺の知ったことじゃねえ」
「知らぬ仲じゃないだろうに、って」
 こちらを向いて薄く笑った秋野に横目をくれて、哲は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「うるせえな。そういうんじゃねえっての」
「向こうはそうは思わないんじゃないのか」
「しつこいな、お前。……嫉妬なんて冗談でも言うんじゃねえぞ、殺すからな」
 大量の煙と共に吐き出した哲の言葉を、繰り出された蹴りと共に軽く避けて秋野は可笑しそうに頬を歪めた。看板を引き摺った輪島が引き戸を開けて後ろ向きに入ってくる。それを肩越しにちらりと見て、秋野は曲げた口の端から低く言う。
「まさか。確かに俺はお前にいかれてるが」
「いかれてんのはお前の頭の中身だ、馬鹿たれが」
 もう一度カウンターの下の長い脚を蹴っ飛ばす。今度は脛に当たった哲の足をお返しとばかりに蹴り返すと、秋野はもう一度低く笑った。

 

「先生、いますかっ!!」
 そろそろ帰るか、と哲が腰を上げようとしたのは、もうすぐ三時になろうかという頃だった。だらだらと飲んでいるうちになんとなく時間が経った。とっくに看板を消して暖簾を片付けた店の中は、誰かの部屋のように居心地がよく、つい長居した。
 椅子から立ち上がり掛けたその時、乱暴な音と共に引き戸が開いた。客が来るにはいささか時間が遅くに過ぎ、寝惚けた手塚以外の三人は、一斉に引き開けられた扉を振り返った。
 先生、と言う言葉から哲は手塚のことと思ったが、意外なことに答えたのは輪島だった。
「何だよ、遅くに」
「すんません、井関が撃たれちまって」
「ヤクザ同士の小競り合いはごめんだって言ってるだろう。病院行きなよ」
「意地の悪い事言わないで下さいよ……。銃創ですよ、無理ですよ」
 男は髪の色を殆ど白に見えるほど抜いた金髪の、若い男だった。会話からしてヤクザなのだろうが、あまりそういうふうには見えない。慌てていたせいか、輪島以外の三人にやっと気付くと、警戒したような表情を浮かべた。
「友達だから、いいんだよ。——仕方ないなあ。怪我人は?」
「はい、今……、あ、すんませんっ!!」
 男は後ろを振り返り、文字通り飛び上がると駆け出していく。脚を引き摺った男に肩を貸していた人物に頭を下げ、自分が支えなおして店の中に戻ってきた。
「……上、連れてって」
 溜息と一緒に出された輪島の指示に従って、男はカウンター裏のドアから奥へと入って行った。もう一人の男は輪島ではなく哲と秋野の顔を交互に眺め、疲れたような笑みを浮かべた。

 

 輪島と手塚はビルの上にあるという輪島の仕事場に向かい、哲は残された秋野と二人、ヤクザと向かい合っていた。金髪の男は落ち着かない様子で、カウンターの向こう端からこちらをちらちらと窺っている。
「しかし」
 茶色い髪をかき上げて、遠山は溜息を吐いた。
「よく会うな」
「……こっちの台詞だ。嬉しくもねえ」
「中嶋さんに羨ましがられる。あの人、本当にお前さん気に入ってるから」
「止してくれ。ヤクザに好かれたって仕方ねえよ」
 鼻を鳴らす哲に金髪の男が剣呑な目を向けたが、秋野に一瞥されて慌てたように目を逸らすのが、哲の視界の隅に映る。そりゃあそうだ。ヤクザの下っ端風情が、秋野に睨まれて睨み返せるようなら拍手ものだ。
「しかし、撃ってくるなんてよ、今時の若い奴らは本当に辛抱ってことを知らないよな」
 遠山は睨まれて尻尾を巻いた部下には目もくれず、天井を仰いで息を吐いた。
「今時武闘派なんて流行らない時代だ。昔懐かしのヤクザのやり方じゃ警察もうるせえし、頭使わなきゃ生き残れないってご時勢に……」
「あんたらだって密造だか密輸だかの拳銃商売にしてんだろうが? 売っぱらっといて、撃たれて文句垂れるのは筋違いじゃねえの」
「相変わらず言いたいこと言うよな、あんた」
 苦笑した遠山は、ジャケットのボタンを一つ外した。いつもの通り、ヤクザらしからぬ洒落たスーツを着込んだ姿には隙がない。対照的にだらしないとお洒落の中間で着崩した秋野から漂う紫煙が、遠山の周りにゆらゆらと纏わり付く。
「先生と、知り合いか?」
 遠山は哲を見た後視線をそのまま秋野に向け、秋野は微かに頷いた。
「そうか。俺は知り合いってわけじゃなくて、熊谷が」
 金髪の名前なのだろう、顔を上げるとこちらを向き、呼ばれていないと分かるとまた目を逸らす。
「前にこの辺の店のボーイやってた時、夜中に客に殴られて鼻折って、世話になったらしいんでね。所で栄がしきりにあんたのこと訊いてくるけど、何かあったのか」
 遠山が突然秋野に顔を向け、秋野は僅かに目を瞠った。それまで一言も喋っていない秋野の声は、喉に引っかかったように少しだけしわがれている。
「さかえ?」
 哲は思わず重い溜息を吐いた。栄に秋野の名前を教えたのに、別に深い意味はなかった。しかしこうなると、自分の迂闊さに腹が立つ。
「俺の義理の弟だよ。あんたの相方の高校の同級生」
「誰が相方だ、誰が。俺はお笑い芸人か」
 ぶつくさ言いながら、哲は髪を掻き毟った。不機嫌に唸る哲に、秋野が訝しげな視線をくれる。
「アキノっての、あんたの名前なんだろう? いや、栄がそちらさんといつも一緒にいるアキノって人にどうしても連絡したいって、名前は知らねえけど、そりゃあんたのことかと思ってさ」
「さあね。あんたがそう思うならそうかもな」
「人が悪いな、あんた達、二人揃って」
 遠山は苦笑して、疲れたように顔を擦った。足音がして、井関と言うヤクザを抱えた輪島と手塚がカウンター裏のドアから現れる。遠山は短い溜息を吐くとちょっと笑って立ち上がり、秋野を見下ろして肩を竦めた。
「まあ、どっちにせよ俺はあんたの連絡先は知らないからな。本人に直接訊けって言っておいた」そう言うと、視線を戻して哲を見る。
「教えようが教えまいが、あんたの好きにすりゃいい。俺は栄が可愛いが、あいつが何考えてるにしてもあんたらの仕事の邪魔をする気はないし」
「そりゃ、ご親切なことで」
 憮然とした哲の顔に含み笑いを漏らしながら、遠山は二人の部下に行くぞ、と短く声をかけ、輪島に丁寧に頭を下げた。店を出しなに振り返って、哲を見て口を開く。
「親切じゃない。中嶋さんがそう言うから、それだけだ」
「とっとと帰れよ、用が済んだら」
 鼻を鳴らした哲に手を上げ、遠山は引き戸をきちんと閉めて出て行った。
「……忠犬ヤー公」
「あまり面白くない」
 表情を変えず答えた秋野に向けて、哲は空の灰皿を思い切り投げつけた。