仕入屋錠前屋31 呼吸の合間 1

「……っじゃねえぞ、おらぁあ!!!」

 聞き覚えのある物凄い怒声が聞こえて来たと思ったら、横道から人間が転がり出てきた。何かが転がる音、積み上げてあったらしい物が崩れ落ちる音、転がっている人間が発している甲高い悲鳴。
「どうしたぁ、寝てんじゃねえぞ、立てコラ!!」
 地を這うようなドスの利いた声と共に、こちらは二本足で歩いて現われたのは、やはりというか何と言うか、毛を逆立てた錠前屋だった。しかも銜え煙草でうっすら不気味に笑っている。
 間近に立っていた酔っ払いが、ひいぃ、と情けない声を上げてその場を離れた。地面に転がる派手な柄のセーターを着た男は、明らかに普通の会社員とは思えない。しかしその男を跨ぐように仁王立ちになっている哲も、どう見てもヤクザには見えない。
 どちらかというと立場が逆のようなその絵に、通行人も困惑していると言った感じだ。秋野の隣に立つミツルも、当然大きな目をこれ以上ないと言う位見開いていた。
「派手だな、おい」
 秋野がのんびり掛けた声に、男に屈みこもうとしていた哲が顔を上げた。一瞬の隙に逃げ出そうとした男の腹に踵をめり込ませながら、哲は上機嫌で口元を歪めた。
「よう」
「こんな道の真ん中で。通報されても知らんぞ」
 哲は満面の笑みを浮かべると煙草の灰を払った。灰が地面の男に降りかかり、男が情けない声を出す。
「一番近い交番から十分だ。そんだけありゃまあ腹七分目にはなる」
「そうか。じゃあせいぜい楽しめ」
 ひらひらと手を振る秋野に、哲の足の下の男が助けを求める言葉を投げかけたが、それは途中で苦しげな呻き声に変わった。男の胸の上に片足を載せたまましゃがんだ哲が、猫撫で声を出している。
「おいおい、目移りすんじゃねえよ、浮気性だなお前」
 秋野の腕を引いてミツルが訊いた。
「秋野さん、知り合い? いいの? あのままにしておいて」
「ああ、慣れてるから大丈夫だ。やり過ぎはしないだろう」
 秋野は大分下にあるミツルの長い髪をくしゃりと掻き回してそのまま方向を変えさせた。
「下手に手を出すと齧られる。こっちが酷い目に遭うぞ」
 背後からセーターの男の悲鳴が聞こえた。

 

 哲の部屋のドアノブは、空き巣が入って以降も相変わらず施錠されていない。いつも思うのだが、いくら哲でも風呂の最中に強盗にでも入られたらどうしようもないのではないだろうか。いや、あいつなら素っ裸でも関係ないのか、と意味もないことを考えながら部屋に上がった。
 一時間前足元のネズミを嬉々としていたぶっていた男は、何事もなかったようにして床に胡坐を掻いていた。
「大丈夫だったのか」
「俺がか?」
「いや、まさか。あの哀れな男」
「別に、病院行かなきゃなんねえほどはやってねえよ。明日一日くらいは辛いかもしんねえけどな」
 片頬を歪める哲に呆れたように息を吐いてみせると、秋野は哲の向かいに腰を下ろした。哲は床に広げた新聞をゆっくりめくっている。黙って眺めていると、哲が下を向いたまま口を開いた。
「あんな時間にあんな場所を連れ回すのはどうかと思うぜ」
 一瞬何のことかと思ったが、先ほど哲に会ったときにミツルを連れていたのを思い出した。
「ああ……」
 哲が顔を上げて秋野を見た。眉を寄せてじっと見る。
「まさかお前未成年と」
「何言ってる」
 平手で頭を叩くと、哲は吹き出した。喉の奥で笑いながらまた新聞をめくる。
「冗談だ、馬鹿」
「子供相手にその気にはならんよ。あれは知り合いの娘だ」
「へえ」
 哲が新聞を見たままどうでもよさげにそう呟く。タイ人ホステスと日本人男性との間に生まれたミツルは境遇的には秋野と似ているようだが、両親が結婚したので結局はかなり違う。秋野は夫の方と知り合いで、母親とも面識がある。
「家出したとか言って、あれの父親が泣きついてきたんだ」
「高校生くらいか?」
「ああ、十八だ。悪さするには十分歳食ってるよ」
 ミツルは彼氏と同棲するとか言い出して両親と喧嘩し、家を飛び出したらしかった。彼氏と言うのがあのあたりの飲み屋に勤めており、父親が慌てて秋野に電話をしてきたと言う話だ。
 確かに話を聞けばミツルの彼氏がどこに勤めているか分かるぐらいには詳しいが、それと家出娘を保護するのとは何やら関係ない気がしないでもなかった。それでも嫌がるミツルを宥めつつ、やっと家まで送り届けてきたのだ。
「可愛い顔してたもんな。一人歩きは危ねえな、確かに」
 哲が新聞を畳んで煙草に手を伸ばした。株価には興味がなかったらしい。秋野は灰皿を取ってやりながら笑った。
「気に入ったか? ミツルは彼氏に夢中らしいがね」
「俺はお前と違っておかしな趣味はねえよ」
 煙草に火を点けながら哲はそう言って肩を竦めた。
「何だ、おかしな趣味って。俺だって子供をどうこうする趣味はない」
「男をどうこうする趣味はあるけどな」
「馬鹿だね、男を、じゃないよ。お前を、だ」
 秋野は哲に体を寄せ、手を伸ばして首筋を引いた。首を傾けて顎の付け根に歯を立てると、蝿を追うように煩げに手で払われる。首筋を掴む手に力を入れて引き倒し、哲を体の下にした。それでも哲は平然と煙草をふかしている。
「まったく、胸糞悪いぜ」
「嫌なら本気で抵抗すればいいだろう」
「それも面倒臭えんだよな」
 哲は秋野の顔に向け、ゆっくりと煙草の煙を吐き出す。空いた片手で煙を避けると、哲が低く笑った。
「寝たまま吸ってると、灰が落ちるぞ」
「うるせえなあ、燃えなきゃいいんだよ。気になるなら止めりゃあいいじゃねえか」
「嫌だね」
「じゃあ吸い終わるまで待ってろ」
「それも嫌だね」
「いい加減にしろ、馬鹿が」
 それでも煙草を離さず、逃げようともしない哲の喉元に、秋野はゆっくり屈みこんだ。

 

 様々な色合い、様々な言語。無秩序な色と暗がりが混じり合う繁華街で見ると、幼い少女も妖艶に見える。最早若くもない女すら、色香を振り撒いているように見えさえする。
 しかし、陽の光の下で見えるのは、多くの場合物の本質であるような気がしてならない。それなりに大人びて見えたミツルも、午前中の太陽の下では十代の娘以上でも以下でもない。
 滑らかな頬に一つだけ残るにきびの痕も、あどけないとさえ言える表情も、この間は気付かなかったものだ。
 秋野は目の前の友人の娘を見てそんなことを考えた。ミツルを初めて見たのは三年程前になるが、こうして見ていると、あの時とまるで変わっていないように見える。
「すいません、わざわざ」
 ミツルは所在無げに右手の指輪をまわしながら言った。
「お父さんにも、ちゃんとお礼言って来いって怒られちゃった」
「別にいいのに」
 秋野が言うと、ミツルは何となく嬉しげに笑った。そして何故かまた右手の人差し指に嵌った指輪をくるくると回す。服飾系の専門学校に通うミツルは今時の女の子らしくお洒落だが、今日はジーンズに大きめのパーカーを羽織って、化粧も薄い。父親に余程絞られたのだろう。
「あのね、秋野さん」
「ん?」
 公園の見えるカフェに十代の少女と座っていると、いきなり年を取った気分になるから不思議だ。前に哲が風呂場で並んで座っていると年寄りになった気分だと言ったが、若い子と並んで座るほうがもっと老けた気がして悲しい。
「この間のひと、いるじゃない?」
「……誰?」
 誰のことだかわからずに、秋野は首を傾げた。
「あの、喧嘩してたひと」
「ああ……、何のことかと思った」
 ミツルを見ると、彼女はうっすらと頬を染めて、ますます激しく指輪を回していた。
「すごい、なんか怖かったんだけど、かっこよかったなー、なんて」
 ミツルは大きな目で秋野を見上げて、ためらいがちに囁いた。
「私、あのひと好きになっちゃった」