仕入屋錠前屋63 波乱の日 9

 車の中で、哲は不機嫌に押し黙って一言も口をきかなかった。
 金沢を見て秋野が想像したとおり、あそこに転がっていたのはどれも喧嘩に関しては素人だった。気に入らない人間がいれば仲間を集めて痛めつけたりはしているらしいが、される側も彼らと同類、甘やかされたまま成人した子供に違いない。
 格好に金をかけ、自分のことだけ考えて楽な方に流されながら生きている今時の若者。対多数の喧嘩を哲が楽しんだのは間違いないが、かなりの手加減を要したという意味では、欲求不満で不機嫌にもなるだろう。もっとも、他人の不機嫌の理由を完璧に推測できるわけもないから、本当のところは不明だが。
 黙り込む哲を放っておいて、秋野は目的の場所に車を乗り付けた。輪島の店は既に看板を片付けていたが、まだ電気がついていた。
 レイのところに向かう道すがら、色々あって輪島に話をし忘れていたことに気がついた。電話をしたら、遅くても構わないから寄れということだったのだ。
 車を降り、哲もそうしたことを確認してロックする。秋野が車から離れないうちに店の引き戸があき、中から輪島が顔を出した。
「お疲れ様。ビールでも飲んでく?」
 輪島は微笑み、まるで今は深夜ではなく宵の口で、ここにいるのは仕事帰りのサラリーマン二人とでもいうようにそう言った。
「いや、車だから」
「俺は帰る」
 哲が言い、輪島に軽く頭を下げて踵を返す。
「哲」
 秋野が店の入り口に向かいながら声をかけると、哲は面倒くさそうに振り返った。
「何だよ」
「待ってろ」
「嫌だね」
「待ってろ」
 さっさと歩き出そうとする哲に、再度言う。秋野の声に何を感じ取ったのか、哲は眉間に深い皺を寄せて舌打ちした。
「……くそったれ」
 不機嫌極まりない表情で吐き捨てる哲に背を向け、秋野は店に入って引き戸を閉めた。輪島が秋野を見て眉を引き上げた。
「追いかけなくていいのか?」
「ちゃんと待ってるよ」
「そうなのか」
「多分。苛ついてその辺の電柱か何か蹴っ飛ばしてるとは思うけど」
 輪島は僅かに笑い、カウンターの下の椅子を引き出し腰掛けた。煙草を取り出して火を点ける。換気扇は回っていない。輪島の吐き出す煙はゆったりと円を描くようにして立ち上り、高くはない天井にまつわりつくように崩れながら流れた。
 輪島は目を細め、首を傾げた。
「名前、ディアナって言ったか。彼女の持ってきた礼の話か?」
「そう。話しそびれたから」
 秋野は輪島の穏やかな目を見つめた。職業のせいか、個人の特性か。実年齢のわりに、輪島は若い。しかし、その目の中には歳相応か、それ以上のものを見てきたことで生まれる翳りが確かにあった。それは、秋野が人から指摘されることがある翳りでもある。だから、秋野は輪島の痛みに知らぬ顔が出来ないのかも知れなかった。
「慈善事業ってやつ」
 モデルの輪島への礼は、私設クリニックへの招待だった。
 虐待された女性と子供の保護、そして治療を目的とするそのクリニックは、彼女の私財と夫の支援、それから善意の寄付で設立されたらしい。彼女自身は虐待経験者ではない。だが、彼女の女優デビュー作は虐待された過去を持つ女刑事が主役のサスペンス映画なのだ。
「安直だね」
「まあ、話題性はあるよな。彼女にしてみれば金を出すだけでいい人と呼ばれ、社会のためにもなるっていうんだから乗らない手はない」
「発案は彼女じゃないのか」
「旦那だってさ」
「ふうん」
「輪島さんに参加してほしいって」
「日本に支部でも置くのか」
「いや、あっちでってことでしょう」
 輪島は目を細めて、灰皿の縁で軽く灰を払った。
「残念ながら、行く気にはなれないなあ」
「支払い能力がない妊産婦の受け入れもするんだって言ってたよ」
 秋野が低く呟くと、輪島は一瞬動きを止め、秋野の顔をまじまじと見、そして眼尻に皺を寄せて優しく笑った。
「そうか」
「知ってるのかも知れないし、偶然かも知れないし」
「俺をそこに呼ぶのがそんなに重要とは思えないからなあ。たまたまだろ」
 秋野は頷き、輪島の穏やかな顔を見つめた。もし失ったもののことを考えてまだ胸が痛むのだとしても、表面上輪島の表情には変化はなかった。忘れることはないのだろう。だが、人は、忘れたふりができる生き物だ。
「辛い一日だったな」
 輪島は煙草を陶器の灰皿に押し付けて、カウンターに両手をついた。
「……誰にとって?」
「みんなさ」
 にっこり笑ってそう言い、輪島は一瞬俯いた。
 舞を連れてくるべきではなかったのかも知れない。今日何度目かになるその思いを秋野は無理矢理飲み下した。例え舞を連れて来なかったとしても、輪島の負った傷が早く治るわけではない。それに、秋野の憤りはあくまでも第三者のもので、輪島の痛みは輪島にしか分からないものなのだ。
 輪島の吐き出した煙の最後の一筋が空気の中に溶けて行く。目に見えなくなっただけで煙の成分が本当はそこにあるのだとしても、秋野には見分けがつかなかった。
「あの子は」
「今日はここに泊まってもらうよ。都さんに来てもらってるんだ」
 都さん、というのは輪島の知り合いの元看護婦で七十四歳、今尚元気溌剌な女性である。
「そう」
「秋野、お前が気にすることないよ」
「——うん。ああ、そうだ。これ」
 封筒に入った金を取り出し輪島の前に置く。輪島は表情を変えず、封筒を一瞥して秋野に視線を戻した。
「治療費だと思ってもらっておいて」
「……お前の金じゃないだろうな」
「まさか。もらいものだよ」
 秋野が出入口に向かうと、輪島は椅子に座ったまま秋野を呼び止めた。
「ありがとうな」
「何が?」
「俺のために怒ってくれただろ。ありがとう」
 炭焼きと煙草のいがらっぽい残り香が鼻の奥を刺激する。油と手垢、色々なもので色が変わった引き戸に手を掛ける。誰もがまっさらなままではいられない。
 秋野はただ頷いて、店を出て外へ踏み出した。