仕入屋錠前屋63 波乱の日 8

 秋野がその店に到着した時点で、実に客の半数が——意識のあるなしという違いはあったが——床に倒れていた。
 事情を知らなければ、この部屋で未知の病原菌が感染者を増やしている真っ最中だとでも思ったかも知れない。そうでなければ、ディアナの映画のワンシーンのように、誰かが銃を乱射したとか。
 そんなことを考えながら赤いシャツの男を跨いだ途端、椅子と人間が一緒に目の前を飛んで行った。
 まったく。
 動物園から脱走した動物を捕獲しようと奮闘する飼育員。真っ先にそんな譬えが脳裏に浮かんだ。もっとも、哲は動物園の動物にしては凶暴だし、周りを囲む男たちは飼育員にしては思いやりと知性に欠ける。
 一対一ではどうにもならないと悟った彼らは哲を取り囲み、包囲の輪を狭めようとしていた。哲一人に対し、とりあえず相手は六人だ。
「よう」
 哲はこちらを横目で一瞥し、普段通りにそう言って寄越す。六人のうち四人が哲の声につられ、思い切り顔をこちらに向けて秋野を見た。狙いはいいが、これでは哲を捕獲するのは無理そうだ。
 残りの二人は、同時に哲に飛び掛かった。中々のチームワークだったが、右側から行った男は哲の右手のひと振りで呆気なく倒された。首筋を強打されたらしく、声もなく膝を折る。上半身を反らしてもう一人を避けた哲は、その勢いのまま後頭部を背後に立っていた男にぶつけた。哲の石頭に頭突きをくらった男は情けない声を上げて額をおさえてしゃがみこむ。しゃがんだ男を蹴倒して身体を回し、哲は別の一人にそのままの勢いがついた蹴りを命中させた。
 店内は雰囲気のある照明ではなく、通常の蛍光灯がついている。恐らく営業中はかかっているのであろう音楽もない。誤魔化されるべき汚れも傷も露わになって、ただの築年数の経った建築物という姿を晒している。そんななかで大半の人間が痛みに呻いているというのに、哲は正に嬉々としていた。
 こんな奴の何がそんなにいいんだか、と半ば本気で自分に呆れる。何を間違ったかこちらに殴りかかってきた男の腹に素早く拳を沈め、ゴミでも放るように床に捨てながら、秋野は思わず溜息を吐いた。
「こら、手ぇ出すな、クソ虎! 減るじゃねえか、俺が遊ぶ頭数が!」
 哲が何とも哲らしく文句を垂れる。
「知らないよ、俺から手を出したわけじゃない」
「まったく、節操のねえ奴だ。誘われても断れよな」
「お前に言われたくない」
 無駄口を叩きながら、哲は残りを手際よく片付けていく。数は多いが、それだけだ。哲は傷も負わず、鼻歌でも歌いかねない様子で身体を動かしている。背中の真ん中に思い切り拳を打ち下ろされて、くぐもった声とともに男が床に崩れ落ちた。
「哲——」
 哲は軽く息をつき、秋野をちらりと見て身体の力を一瞬緩めた。だから、秋野も哲の動きを予測しなかった。
 ぎりぎりまでたわめられたバネが伸びるのを見ているようだった。秋野が話しかけたその言葉が終らないうちに動いた哲は、少し離れた所に立っていた三人の男のところまでを走った。そのうちの一人が金沢であることは分かったが、残り二人が誰なのかは秋野には分からない。
 哲は助走の勢いのまま、目を瞠っているだけの男の一人にラリアットを食らわせた。男がものすごい音を立ててスツールを倒しながら仰向けに転がった。もう一人、髪をべったりとオールバックにした男が口を大きく開け何か叫ぶ。ハイキックが男の首にきれいに入り、男はあっという間に昏倒した。
 哲は金沢の方に身体を向けた。金沢の膝が笑っているのが秋野からもよく見える。金沢は後退ったが、すぐにカウンターにぶつかってそれ以上下がれなくなった。
 哲がゆっくりと金沢に歩み寄る。肩をいからせるでもなく、ごく自然な動きは、金沢の狼狽ぶりとはあまりにも対照的だった。
「何だよ、何の関係もねえのに——何なんだよ、お前……!」
 哲は金沢の前に立ち、無言で更に詰め寄った。
 金沢の喉の奥からひっ、と息をのむような音が漏れる。哲は両の掌をカウンターに乗せた。哲の腕の間に囲い込まれるようになった金沢は必死で身体を仰け反らす。哲は金沢の顔から数センチのところまで顔を近付けて、ぎらつく目で金沢を覗き込んだ。
「何だと思ってたんだよ」
 何の感情もない低い声でそう訊ね、哲は突然金沢の股間に手を伸ばした。
「この程度で縮ませるぐらいでな、俺に喧嘩売るんじゃねえよ」
 急所を締め上げられて、金沢の顔が苦悶に歪んだ。上唇の上に汗の粒が浮き上がり、顔色が白っぽく変わっていく。
「ご立派なもんぶら下げてて結構だけどよ、多少は考えて使うんだな。確かに俺は何の関係もねえが、それにしたって胸糞悪ぃ」
 金沢が口をぱくぱくさせて必死に呼吸を繰り返す。白い顔に白い包帯。その姿は秋野に深海に暮らす魚を思い出させた。哲が不意に手を離し、金沢はカウンターに凭れかかった。
「くそ——……」
 哲の拳が金沢の顔の真ん中にめり込み、鼻の骨が折れる音がした。金沢の身体が前のめりになる。倒れこんできた身体を抱き止めるようにして、哲はその鳩尾に膝を突っ込んだ。
 金沢が体を折り曲げ、嘔吐する。哲は金沢を見下ろして、拳を振り上げながら冷たい声で呟いた。
「お前の子供はもっと苦しんだ。だろ?」

 

 秋野は床に落ちていたグラスを拾い上げて、テーブルの上に載せた。カシスオレンジが入っていたと思われるグラス——赤い液体と、オレンジの滓が底に残っている——に吸殻を投げ入れ、歩み寄る哲を眺める。
 特に息を切らしている様子も、どこかを痛めた様子もない。ただ、人数が多いばかりで手ごたえがなかったせいか、眼つきからは興奮の色が抜けきらず、誰の目にも明らかな凶暴さを纏っているようだ。
「……何してんだよ」
「何って?」
「迎えを頼んだ覚えはねえぞ」
 いかにも不満そうな声はざらついている。
「頼まれた覚えもないね」
「じゃあ何でここにいるんだ」
「後始末」
 秋野が言うと、哲はまるで今ここに着いたかのように、店内を見回した。既に起き上がって逃げ出した者もいれば、床に伸びているのもいる。自分の吐瀉物に顔を突っ込んで昏倒している金沢を始め、何人かはすぐには意識を取り戻さないだろう。蛍光灯の白い光には温かみが欠如している。そのせいか、床に倒れた人間も、眼の前の哲も死体のような顔色に見えた。
「……前みたいに、誰か呼ぶのか」
「いや」
 秋野は今捨てたばかりの吸殻に目をやりつつ、煙草を取り出して銜えた。哲が、ライターの火をまるで敵のように睨む。その視線が火から煙草の穂先、秋野の唇を通り過ぎて瞳へと移るのを、秋野自身の視線が追った。
「こいつらの後始末じゃない。お前の後始末だ」