仕入屋錠前屋63 波乱の日 7

「まったく、拾い食いは止めて欲しいよ」
 錠前屋が金沢と出て行くなり、秋野はそう言って溜息を吐き、携帯電話を取り出して窓から道路を見下ろした。レイの事務所の窓からは建物の入口に面した道路が見える。これは、レイが物件を探す時に絶対条件として考えていた事項のひとつだ。依頼人の出入りが見えるに越したことはない。
「どうも。遅くに悪いな」
 レイも秋野の横に立って道路を見下ろす。交通量は減り始めているが皆無ではない。通りの路肩に黒っぽい車がハザードを点けて停まっていた。
「車一台貸してくれ。それと、行先を知りたいのが一台。ああ、そうだ。俺か? 今レイの事務所に居る。車は二、三分後に前を通る。黒の……なんだ、そこに居るのか。ああ、びかびかの下品なホイール履いてるやつだ」
 レイが見ていると、金沢と錠前屋がビルから出てきて車に近づいた。金沢は錠前屋が後部座席に乗り込んでから助手席に収まる。黒い服の金沢は、包帯を巻いた頭だけがやたらと目立った。
「じゃあ頼む。車はレイのところまで回してくれ」
 レイは電話を切った秋野を見上げた。
「何で一緒に行かないんだよ、アキ」
「金沢が二人も連れて行くと思うか? 向こうに何人いるか知らんが、わざわざ自分を不利な立場には置かんだろう」
「そりゃそうだけど。どうせ心配で迎えに行くなら無理矢理でも一緒に行けばいいのにさ」
 秋野は急ぐ様子もなく、特有のゆったりした動作で煙を吐き、額にかかった前髪を掻き上げた。
「別に迎えに行くわけじゃない。後始末をしに行くだけだ」
「心配じゃないんだ?」
「あれよりは、金沢の方が心配だよ。相手を殺すほど馬鹿じゃないし手加減も知ってるが、輪島さんのことで金沢に腹を立ててるからな。一応見に行った方がいいだろ」
 長身を折り曲げ、テーブルの上の灰皿に煙草を押しつけて煙草を消す。秋野はドアに向かいかけて足を止め、振り返った。
「レイ」
「……何」
「まだ痛いのか」
「いや——そういうわけじゃ」
「そうか」
 訊ねられ、無意識に腿をさすっていたことに気がついた。視線を逸らしたレイにそれ以上何も言わず、秋野は音を立てずに出て行った。
 濃い金色の斑点が散る薄茶の目。子供の頃、レイはその眼が怖かった。
 同じフィリピン人と日本人の混血ながら、複雑に混血した秋野とレイとでは外見はかなり違ったし、境遇もまたまるで別といってよかった。
 レイは両親に愛され、不自由なく育った。だが、秋野は両親の愛情を一身に受けたとは間違っても言えない上、戸籍すらないままなのだ。
 年齢よりはるかに大人びたアキは、みんなとどこか違っていた。嫌われてはおらず寧ろ慕われていたものの、本人はそんなことはどうでもよさそうだった。
 この幼馴染と錠前屋はお世辞にも仲がいいとは言えず、せいぜいお互い嫌い合ってはいない、という程度に見える。しかし、錠前屋がチハルに攫われたときの秋野の怒りは本物だったし、それ以外にも秋野は時々錠前屋を何よりも優先することがあった。そうかと思えば今のように、明らかに錠前屋のためにならない状況に送り出し、平然としていることもある。
 レイにはこの二人の友情は今一つ理解できない。だが、秋野にとって錠前屋がどれだけ重要な友人なのかは、チハルの件でよく分かった。
「別にお前のことなんか好きじゃないけど」
 レイは一人呟いた。
 錠前屋は腹を立てているという。
 確かに、錠前屋は金沢に腹を立てているのだろう。だが、秋野が言うように輪島のためとは思えない。自らの子供を顧みない金沢を目の当たりにした秋野が、誰にも見せない胸の奥で、何を思うか知っているからではないのか。
 錠前屋を見ていても、彼と親しくないレイにはそんなことは分からない。だが、秋野を見ていると、何故か錠前屋が何を思っているのかが分かる気がした。
「……よかったな、アキ。お前のために怒ってくれる人がいてさ」
 レイは窓に向き直って、ビルから出てきた秋野の頭を見下ろした。
 波乱に満ちた秋野の人生に何がしかの光明を与えるのが錠前屋なら。
 波乱の日にあってさえ、秋野が手放さないのが彼だというのなら。
 決して仲がいいとは言えない幼馴染のために、レイはほんのひと時何かに感謝して、未だ訪れたことのない母の国の言葉を呟いた。

 

 哲はその場所に足を踏み入れるなり、酷く落胆した。
 金沢の友人だか何だかは確かに沢山いたが、スキンヘッドの大男とか、危ない目付の痩せた男とか、要するに映画に出てくる悪役のような人物は一人もいなかった。
 スピーカーが壊れているのではないかと疑いたくなる音量の音楽にも負けず、会話が成立しているらしい。数人で話しこんでいるグループもいれば、飲み物片手に身体を揺らしている男女もいた。
 要するにクラブというやつである。バーカウンターとテーブル席が配置され、DJブースらしきものが奥に見える。ハコとしては小さいほうだし、建物自体が古いせいか、薄汚れた感じもする。間違っても人気店というわけではなさそうだ。金沢が真っ直ぐここに哲を連れてきたことからも、仲間内の溜まり場になっているのだと推測できた。
 たむろしている人間は、数は多いが流行りの服を着た若者、としか言いようがない人間ばかり。一人二人は喧嘩慣れしているのがいればいいがと、金沢が聞いたら目を剥きそうなことを考えながら溜息を吐く。
 それにしても、と哲は内心溜息を吐いた。うるさくて耳が痛い。
 車を運転してきた若い男と哲を残し、金沢はバーカウンターの奥へ歩いて行った。車の持ち主はガムを噛みながら、哲の隣に立っている。黙って突っ立っている哲には目もくれず、何人かの若者がガムを噛む男に声をかけていく。聞こえているのかいないのか、男は笑顔で手を上げたり頷いたり、それなりに忙しそうだ。
 金沢が店の奥から出てきた黒い服の男に近づいて何か言う。内容は聞こえないが、こちらを振り返って話しているのだから内容は分かり切っている。
 黒い服の男は金沢に対してもどこか態度が大きく、この店の従業員か、もしかするとオーナーなのかも知れなかった。
 日焼けは人工的なものなのか違うのか判断し難い。ジェルか何かでオールバックに固めた髪が野暮ったいが、本人はそうは思っていないだろう。だが、こいつは少なくとも所謂チンピラっぽい。喧嘩の一つくらいはできて欲しいものだ。
 男はにやにやしながら傍に立っていた緑のTシャツに声を掛けた。緑のTシャツは頷き、散らばった客に声をかけて回る。女ばかりが出口に向かう。男も数人は、女と一緒に出て行った。
 音楽が急に止まり、一瞬無音状態の中に放り出されたように錯覚して哲は唾を飲み込んだ。戻ってきた聴覚が最初にガムを噛む音をとらえる。くちゃくちゃというだらしない咀嚼音に本気でげんなりした。
「お前、馬鹿じゃねえの」
 車の運転をしていた男が口を開いた。喋りながらガムを噛むので、更に酷い音がする。まったく、誰か口に物を入れたまま喋るなとこいつに教えてやらなかったのか。
「みんなリョウのダチだからな。ボコボコにされんぞ」
 男は金沢が何をしたか詳しく知っているのだろうか。女のように細く整えられた眉を見ながらそう思った。
 弱い者を多勢で痛めつけることが楽しくてたまらないとでも言いたげな表情を見る限り、知っていたところで気にする手合いではなさそうだったが、そういう相手のほうがこちらも遠慮せずに遊べるというものだ。
「いつもこんなことやってんの」
「はぁ?」
「ここで。気に入らねえ奴、シメたりすんの」
「うっせえなあ。お前に関係ねえじゃん」
 男は相変わらずガムを噛み続けている。延々と続く咀嚼音が癇に障った。
「——お前こそ、うるせえな」
「は?」
 突然低く変わった哲の声に、男が目を見開いてこちらを向く。哲は男を見ず、前を向いたまま言った。
「うるせえっつってんだよ。口開けて物噛むな、行儀悪ぃな」
 男がこちらに身体を向けた瞬間に哲は男のうなじを掴んで引き寄せ腹に膝を入れた。
 男が苦悶の表情を浮かべて身体を折り、開いた口からガムと唾液が床に真っ直ぐ落ちる。顎を殴ると男は吹っ飛び、床に倒れた。
「そろそろ寝る時間なんだよな。さっさと終わらそうぜ」
 二十人ほどだろうか、フロアに残った人間を見回して、哲は言った。
 カウンターの傍に立つ金沢の顔は憎々しげに歪んでいる。哲はこちらを睨みつける金沢に向かって手を差し伸べ、こっちに来いと手招きして見せた。金沢は何か言いかけ、考え直したのか口を閉じて一歩下がった。
 数人の男がこちらに近寄ってくる。カウンターに凭れ、友人と呼ぶ男たちを差し出して遠くで見ている金沢を再度見やって、哲は肩を竦めて薄く笑った。
 金沢は自分自身が一番大事で、他の人間は、それが恋人だろうと血を分けた子供だろうと、どうでもいいと思っているに違いない。だが、金沢のことをどうこう言える権利など自分にはない。
 自分だって同じようなものなのだ。一人の人間以外、どうでもいい。哲にとってのその一人が、自分ではなく別の男であるというだけで。
 その男が不機嫌になることは別に気にならない。ただ、金沢の他人を顧みない行動が抉ったのは秋野の奥底で、それは誰かが——秋野以外が——傷つけるべき場所ではないはずだ。その事実に憤り、そしてそう感じる己にも、傷つけられた秋野にもまた、いわく言い難い怒りを覚えた。怒りと、そしてもっと別のものも。
「楽しませてくれよな」
 両手の指を順に鳴らし、片頬を歪めて笑う。
 金沢と、自分。そして秋野を内心罵倒しつつ、哲は目にかかる前髪を払い除けた。