仕入屋錠前屋63 波乱の日 5

 レイのところに行くのではなかったか。
 訊ねようとは思ったが、それはあっという間に忘れ去られた。
 秋野は、威圧的な態度で文句を言いかけた哲を黙らせ、腕を掴み、荷物を引き摺るように哲を引っ張り大股で夜道を歩いた。
 二、三分歩いて、秋野は窓に明かりが一切見えないビルの中に入った。古いエレベーターに押し込まれ、帯電したような空気が籠る四角い箱の中に無言で突っ立ち、相手の出方を無意識に探る。扉が開き真っ暗な廊下に出た時も、眼の前の暗闇より、秋野の一挙手一投足が気になっていた。
 秋野が無機質なドアの鍵を開ける。ドアの向こうは、寝るためだけの、最低限のものしかない薄暗いフロアだった。マットレスと毛布、小さな冷蔵庫らしきものと幾つかの生活用品。そこには生活臭はなく、ここ暫くは誰も立ち寄っていないように見える。だが、埃が積もっているようには見えず、定期的に手入れはされているらしかった。
 以前にも似たような場所に行ったことがあるし、弘瀬が住んでいたのもこういう場所だ。秋野のキーホルダーにどう見ても多すぎる鍵がついているのは知り合った頃から気付いていたが、自宅以外のどこの鍵なのか、哲としては、特に気にしたことはない。他の鍵もこういう場所のものだとしたら、一体幾つ隠れ家を持っていることやら分からない。今は大概自宅に居るが、過去の生活が何となく想像できるというものだ。
 秋野は後ろ手に鍵をかけると、明かりのスイッチを探る手間すら取らず哲の肩を掴んで壁に押し付けた。
「痛えじゃねえか、離せ」
 自分の声が、どこか遠くで響く気がする。唸り声のような、何かが軋む音のような、ざらついた低い声。対照的に深く滑らかな秋野の声が、うるさい、黙れ、と声音に似合わず高圧的にそう告げた。
「離すわけないって、分かっててついて来たんだろうが」
 低い、脅しつけるような声が耳朶を掠めた。
 誰に向かってもあまり見せることのない秋野の獰猛な部分が牙を剥き、今にも食いつこうと歯を鳴らしているのが聞こえるようだ。肩から滑り落ちた手が、哲の両手首をきつく握って持ち上げた。容赦のない力の籠め方に、骨が軋んで鈍い痛みが走る。
「そうまでして、何が知りたい?」
「何が……」
 黒っぽい服を着た秋野の姿は、暗がりに沈んだように溶け込んで、輪郭は酷く曖昧だった。手首を握る指の形と、耳元に当たる呼気がなければ、本当にそこに存在するかどうかさえ不確かに思える。哲は、服の上から秋野の肩に齧りついた。秋野が身じろぎ、歯に当たる骨の感触に、ようやくその存在を実感したような気分になる。
 みづきと舞はどこか似ている。
 突然浮かんだ言葉に、哲は一瞬何を考えていたかを見失った。ろくでもない男に好意を寄せ、依存する二人の人間。
 お前の母親もそうだったのかと訊くことは、秋野を傷つけることになるのだろうか。
 お前の父親もお前のことなど顧みなかったのだと、再度突きつけることになるのだろうか。
「俺がどうして、何に腹を立ててるか興味があるか? どういう答えなら満足するんだ、哲」
 低くしわがれた声が一息にそこまで言う。その問いにどうこたえるのが正解なのか。そんなことは分からない。壁に沿って持ち上げられた両手が頭上で一纏めにされる。空いた片手で顎を掴まれ仰のかされた。
「どんな俺が望みだ」
「別に、何も望んじゃいねえよ」
 秋野の指が顎に食い込む。まるでこのまま砕けてしまえというように、秋野は容赦なく指に力を込めた。
「離せよ」
「——セックスなんてどうでもいいくせに、知るためなら耐えるのか」
「アホか」
 哲はその手を振り払うように顔を振った。秋野の薄い色の目が哲を見下ろす。確かに、秋野が憤る理由に興味はある。だが、それだけで寝ることなどできはしない。
「どうでもいいのと、我慢すんのは全然違うだろうが」
「そうか。そりゃよかった」
 秋野の声はいつになく冷たい。ぞろりと背中を這う寒気に、哲は小さく身震いした。
「……なら、せいぜい楽しめよ」
 押し殺した低い声と舌が顎を撫でるようになぞっていく。濡れた肌に感じる空気はひんやりとして、微かに埃の匂いがした。

 

 レイはすっかりむくれ、眠たそうで、まるで幼児のようだった。
 元々童顔というか、年齢不詳の顔をしている。人畜無害を絵に描いたような、これと言って特徴のない顔。中肉中背で、人込みの中で真っ先に見失うことは間違いない容姿だ。もっとも、中身がその通りでないのは今更だが。
「遅かったね。もう眠いよ、俺」
「輪島さんのところに寄ったんでね。悪かったな」
 顔色一つ変えず言う秋野に呆れつつ、哲は煙草を取り出した。レイの向いに腰をおろして火を点ける。
「ふうん。実は俺を待たせてるなんて忘れて、どっかで飲んでたんじゃないの」
 秋野はそんなことないとか何とか気のない調子で言いながら哲の隣にだらしなく腰を下ろし、長い脚を組んだ。すっかり崩れて目にかかった前髪を指先で適当に払い、哲の吐き出す煙を避けるように僅かに顔を傾け、自分も煙草を取り出した。
 秋野の表情に、先程までの、震えが来るほどの凶暴な気配の残滓は微塵もない。よくもまあここまで綺麗に痕跡を消せるものだと、哲は呆れ半分、興味半分でその顔を横目で眺めた。
「まあ、いいけど。佐崎くんだって疲れてるみたいだし、さっさと終わらせて帰ろ」
「疲れてるのか」
 秋野が薄茶の目をこちらに向け、煙草を銜えたまま平然と訊く。お前のせいであちこちだるくて痛くて疲れ果て、おまけに猛烈に眠い、と言ってやってもいい。だが、レイ相手に下手な情報を与えていいことは何もないことくらい分かっている。
 哲が何も言わないのを百も承知で尋ねる秋野に腹が立ち、足を上げ、膝頭に思いきり蹴りを食らわせた。
「痛っ。何だよ、十分元気じゃないか」
「うるせえ、死ね、くそったれ」
「まあまあ。嘘でもいいから、せめて俺の前でだけでも仲良くしてよ、もう」
 うんざりしたようにレイが言う。秋野は喉の奥を鳴らし、薄茶の目を細めて低く笑った。

 

「これ」
 レイが差し出したのは、白い封筒だった。内側に紫の薄紙が貼ってあるあれだ。今時余り目にしないが、昔は手紙と言えばこれに入っていたような気がする。
 秋野が手にした途端眉を顰め、レイを見る。レイは肩を竦め、また目を擦った。
「依頼人から。金沢の彼女に」
「どういうことだ?」
「知らない。お父さんの想像通り、あの男には他に恋人がいましたって報告したんだよ。その恋人との間に子供ができたことと、流れちゃったことも言った。そしたら、可哀相だから、治療代にあててくれって。自分の娘がわんわん泣いてる横で、いそいそ包んじゃってさ。大体なんでそんなもん持ち歩いてんのか、わけわかんない。余程嬉しかったんだろうけど」
 秋野が机に置いた封筒がはらりと滑って斜めに止まる。あの軽さからして十万、せいぜい十五万くらいのものと見当がついた。
「さすがに、そりゃねえだろ」
「うん、俺もそう思う」
 思わず口を出すと、レイもさすがに困ったような顔をした。
「渡しといてって言われたってさ、そんな、嫌がらせじゃないねえ。その彼女と金沢がよりを戻したとしてもさ?」
「だな」
「まあ、あのお父さんには、嫌がらせとかそんな気はないと思うんだよ。だって、彼女のお陰っていえばそうなんだし。何て言うか、想像力が足りないんだと思う。駄目だって断ったんだけど受け取らないから、アキ」
 レイは秋野に視線を向け、名前を呼んだ。
「輪島さんにでも渡しておいてよ。アキから輪島さんに渡して使ってもらうならいいだろ。治療代だと思ってさ」
 言いながらレイの右手が太腿の上を落ち着きなく彷徨う。折られた脚はすでに治っているはずだ。
 哲にとってみれば、暴力をふるわれることなどなんでもない。目に見えるだけ、精神的な攻撃より対処が簡単だと思うが、普通はそうではないということも知っていた。
 暴力とは無縁の人間がそれに晒されたとき、どれだけストレスを感じるかは、想像できる。勿論、理解はできない。だが、何もなかったように笑うのがどれだけ難しいのかは推測できた。だから尚更、レイの細かく動く指先に目が引き寄せられる。
 骨がきれいにくっついても、レイが心に受けた傷は残る。舞や金沢はどうなのだろう。
「もらっとけば。輪島さんの診療所の足しになるんじゃねえ」
 秋野は哲を一瞥し、眉を寄せたがそれでも頷いた。レイがほっと小さく息を吐き、ようやく微かに笑みを見せた。