仕入屋錠前屋63 波乱の日 4

 女の名前は舞、と言った。
 青白い顔は、金沢の部屋で見た人物とはまるで別人だ。年齢は二十七だと言うが、年より大分若く見えた。
 輪島の診療所にあるベッドに上半身を起こして座った舞は、輪島の買い置きなのか、新品らしい男物のTシャツとスウェットパンツを身につけて、化粧もすべて落としていた。
 つけ睫毛だったらしく、目元がやたらと薄くなっている。美人なのだが、濃いアイラインがなくなったせいか目が随分小さく見えた。勿論、今の状態のほうが人間としては自然な美しさだ。
 流産のことは輪島から説明があったらしいが、まだ実感できずにいるのか、そのことに対しては余りショックを受けていないようだった。秋野と哲が金沢は死んでいなかったことを伝えると、舞は眼を閉じ、瞼を震わせて息を吐いた。
「よかった」
 何がよかったのかは分からないが、追及しても意味はない。ベッドの傍に秋野はパイプ椅子、哲は丸椅子を引き寄せて腰を下ろし、話を聞きたいと伝えると、舞は力なく頷いた。

「良ちゃんと付き合い始めたのは……多分、えっと、三年くらい前で——」
 舌ったらずな喋り方は、男によっては可愛らしいと思うだろうが、哲にしてみればイラつくだけだ。秋野も同じと見え、表情は変わらないものの、組んだ足の爪先が二度、小さく上下に揺れた。
「何回も別れかけたんですけど……浮気癖、あるし」
 舞は恥ずかしくなったのか、俯いて掛け布団の端を握り締めた。
「優しいけど、機嫌悪いと、殴るし。お金目当てだし」
「金?」
 大して金を持っているように見えない舞が言うので思わず訊ね返すと、舞は下を向いたままこくりと頷いた。もつれた栗色の髪が頬にかかる。
「私、水商売のバイトしてて、それで良ちゃんと知り合ったんです。その時はそれだけだったんだけど、ネイル……分かります? ジェルとか?」
 舞はちらりと目を上げたが、誰も何も言わないのが分かるとまた下を向いた。
「ネイルするのすっごい好きで、すごいね、って言われて。お店の女の子とかにしてあげてたら、そのうちの一人の子が、メイクやってる友達とか、ほんと色々紹介してくれて。結局趣味が仕事になったっていうか、今、その時知り合った人のエステに間借りして、お店やってるんです。小さいんだけど、流行ってる、と思う。だから、お金ちょっとはあるの」
 言われてみれば、舞の爪はやたらと派手だった。哲が今まで見てもいなかった手先に目を向けると、視線を感じたのか、舞はゆっくりと布団を掴んでいた手を開いた。
 エリがよくやっているし、別に今時珍しくもないが、哲にしてみれば爪にごてごてと塗料を盛る女心が理解できない。
 舞の爪はピンクとゴールドの二色を使って飾られていて、要所要所に恐らく蝶だか花だか、女が可愛いといいそうなものもついている。これで缶ビールが開けられるのか、哲の心配はそれに尽きる。
 化粧が落ちてやつれた顔に、その爪はまるで冗談か何かのように、まったく似合っていなかった。
「何で別れねえの」
「好きだから」
 哲の質問に即答し、そう答えた事を後悔するような顔をして、舞は長い髪を掻き上げた。
「いろんな人に別れた方がいいって言われて、分かってるんだけど。でも、良ちゃんのこと好きだから、結局戻って。良ちゃんもそうだって思ってたんだけど……違ったみたい」
 突然ぱたぱたと布団の上に落ちたものから、秋野がゆっくりと目を逸らした。
 女の涙に男は弱い。それは、女の涙が綺麗だとか、守ってやりたくなるとかそういうことではない。どうしていいか分からないから。泣いている女を置いて走って逃げたくなるからだ。
 秋野はまさにそういう顔をしていたし、勿論哲も同じだったが、質問してしまったのは自分である。
「なんで殴ったんだよ」
 どうにか舞の気を逸らそうと質問したが、舞の涙は零れ続け、言った傍から失敗したと後悔した。
「他の女と結婚するって——婚約してるから消えろ、もうここに来るな、って言われたの。お前とは終わりだって。それだけ。言い合いになって、蹴られて転んだら目の前に灰皿があったの。殴ろうとか、思ったわけじゃない。良ちゃんがあたしを蹴って——何回も。あたしに馬乗りになって……手を上げたから、怖くて……そしたら当たっちゃっただけなの……嫌よ……嫌だったの」
 別れるのが嫌だったのか。それとも殴られることか。
 哲が実は金沢の友人ではないことは先に話してあった。興信所の人間だと言うと、舞は一言も質問しようとしなくなった。金沢から結婚の話を聞いていたせいで、舞の中では納得するものがあったのだろう。
 今、舞がこうして色々話をするのは、秋野と哲が興信所だと信じて疑わないからだ。
 すべてぶちまけ、金沢の結婚を壊したいのか。それとも、そんなことはまるで考えず、ただ辛くて、誰かに胸の内を聞いてほしいというだけなのか。女の心理は哲にはほとんど理解できない。涙で染みになった掛け布団を眺め、哲は細く溜息を吐いた。
「まあ、金沢はでっけえ瘤が出来たかも知れないけど元気で生きてるし、そんなろくでもない奴だったなら、別れられてよかったと思えよ。どっかの女に熨斗つけてくれてやれ」
「……」
「なあ」
「あたし……」
 舞はうろたえたように瞬きし、哲を見た。涙に濡れ、充血した瞳で見つめられるだけで危機感を覚える。救いを求めて秋野を見ると、舞の視線もつられたように秋野へ流れた。
 おい、何とか言え。
 口には出さずに念じるように睨みつけると、秋野はゆっくりと舞に目を向けた。舞はたじろいだように視線を逸らし、頬を染めた。あまりにも反応が違いやしないかと思ったが、秋野相手に張り合ったところで意味はない。
 何か言うかと思ったが、秋野は黙り込んだまま一言も発しない。
 舞は腹の前で組んだ手を落ち着きなくいじるだけ。
 しん、という擬音が聞こえてきそうな室内の様子にイラついて、哲はうう、と低く呻いた。
「分かった、分かった」
 舞が哲を見、秋野は舞から目を逸らす。
「余計な口出して悪かったよ。別れるも別れないもあんたの好きにしろ。今回のことで結婚は流れんだろ、間違いなく。それであの男があんたに八つ当たりして、あんたがボコボコにされようがどうしようが、関係ねえからどうぞお好きに」
 舞が身じろぎすると、硬い掛け布団カバーが、がさりと乾いた音を立てた。
「あんたと彼氏がどうやって知り合って、どんだけお互いが好きで、今はどうしてそんななったんだか、んなこと知るか。けどな」
 哲が丸椅子の上で身を乗り出すと、舞はびくりと肩を揺らした。
「あんたは母親になり損なった。言われなくても多分俺が想像もできないくらい辛いんだろうから余計なお世話だと思うけどよ、今度のことをよく考えてから、あいつんとこに戻るんだな」
 椅子を蹴飛ばすようにして立ち上がり、さっさと部屋を出て階段を降りた。秋野は舞を宥めているのか違うのか、後にはついてこなかったが、そんなことはどうでもいい。
 ぴしゃりと音がするくらいの勢いで引き戸を閉め、暖簾のかかっていない店を出た。風が吹き、前髪がふわりと持ち上がる。
 乱れた髪を片手で掴む。掻き上げながら舌打ちし、立ち止まって電柱を蹴飛ばした。
 舞も子供も、それなりに可哀相だが他人事だ。いや、言ってしまえばどうでもいい。あの女がリョウちゃんとかいうろくでなしに縋って結局捨てられようが、うまく行こうが、哲の人生には関わりのないことなのだ。
 青ざめた顔にきらびやかな爪が目立つ手を当てて、涙を拭う女の顔。脳裏に思い浮かべるその造作は既に曖昧で、ベッドの傍に黙って座る男の方が、余程哲の瞼の裏にはっきり浮かぶ。
 奥歯を噛み締め、無表情の下に何かを隠して座る背筋の伸びた秋野の顔。何も言わず、ただ座っていた秋野を見ているうち、どうしようもなく腹が立った。それだけだった。

 足音がして、背後に人がいるのが分かった。
 哲は走ったわけではないから、多少の時間差があっても追い付くのは簡単だろう。おまけにあちらの方が脚の長さでは大分有利だ。
「哲」
 離れたところから呼ぶ低い声がして、哲はぴたりと足を止めた。大きな声で叫んだわけでもないし、低音は通り難い。それでもはっきり耳に届いたそれは、むかっ腹が立つことに、有無を言わさず哲の足を止める何かが常にあるのだ。
「なんだよ」
 我ながら棘のある声だと思うがいつものことだし、それを気にする相手ではない。
「これからレイのところに行く。付き合えよ」
「……」
 何も言わず睨みつけると、秋野は唇の端を曲げて笑った。こいつのこういう顔を見ると、鼻っ柱に一発お見舞いしたくなる。
「そんなに見たら穴が開く」
「開くか、阿呆」
 不機嫌に言うと、秋野は相変わらず口元を歪めたまま片眉を上げた。
「そんな睨まなくてもどこも行きゃしないよ。俺はお前のだ、心配するな」
「別に心配してねえし、お前なんか所有したくねえ。思いっ切り一発殴らせろ」
「嫌だよ、馬鹿だね」
「じゃあ俺のじゃねえってことだ」
「かもな」
 にやにや笑いながら言って、秋野は哲が追いつくのを待たずに背を向けた。街灯の白っぽい、暗闇を照らすに十分とは言えない明かりは、秋野の背を酷く遠く見せる気がする。
 歩幅を変えずゆっくり背を追いながら、哲はなあ、と低く声をかけた。
 秋野が肩越しに振り返り、整った顔が街灯に照らされる。普段より肌の色と眼の色が薄く見え、知らない誰かのようにも見えた。
「ん?」
「輪島さんの子供って、何で亡くなったんだ」
「妊婦の受け入れ拒否」
 秋野は立ち止まったままそう言って、煙草を取り出し、火を点けた。スポットライトのように当たる光の中で、赤く小さな火が幻のように煌いてすぐに消えた。アスファルトに落ちる秋野の薄い影に、煙の影が溶けるように混じり合う。
「テレビで盛んにやってた時期があっただろ。あれだよ。あんなにニュースになって、一般に認知される前の話だけど」
「奥さんは」
「元奥さん、だな。正式には。離婚してるから」
「そうなのか」
「奥さんは、離婚、嫌がったって話だよ。まあ、別居はしてるが今でも夫婦同然だしな。輪島さんが診療所を開くのに、万が一のことで彼女に迷惑かけたくない、って迫った離婚だから」
 哲が横に並ぶと、秋野はゆっくり歩き出した。大型の動物のようなゆったりした動きには無駄がない。数メートル輪島の店側に戻った所でビルの非常階段の下に押し込まれた時も、咄嗟に反応できないくらい素早かった。
「奥さんが予定よりかなり早く産気づいた時、輪島さんは手術の執刀中で連絡が取れない状態だった。で、奥さんは自分で救急車を呼んだが、輪島さんの病院の名前は言わなかった。迷惑をかけたら嫌だったし、どうせ産科はなかったから」
 非常階段の下の鉄扉に押しつけられ、もがいたが動けなかった。腕が喉を圧迫して息が苦しい。秋野は銜え煙草で、感情の窺えない目で哲を眺めながら語を継いだ。
「結局奥さんはたらい回しにされて、ようやく自宅からかなり離れた病院に運び込まれたが、子供は駄目だった。それで、輪島さんは病院をやめた」
「……それで」
 言いかけた声が掠れて詰まる。さっきまで歩いていた道を、一台の車がすごい勢いで通り過ぎた。遠くなっていくエンジン音が、何となく耳につく。鉄の階段の間を風が抜ける寂しげな音が、エンジン音を追うように尾を引いて行った。
「今みたいな診療所、やってんのか」
「大きな病院に運び込まれた誰かを助けて、セレブの妻が礼を言いにくる。それだって素晴らしいことだと思うよ。それこそ逆の意味で、患者に貴賤があるわけじゃないんだからな。ただ、輪島さんには意味がないっていうだけで。あの人は自分の子も助けられないなら医者である意味がないって思ったんだそうだ。そんな医療システムの一員でいたくないって。だが、医者であることを止めれば誰一人救えなくなる。だからああして」
「お前」
 この男は、一体何に腹を立てているのか。
 システムへの憤り、無責任な親への怒り、帰属する場所がない苦渋、単なる傍観者としての怒り。
 生まれる前に亡くなった、輪島と舞、それぞれの子供への何がしかの思い。それは、表面上はどこにも見えないが、確かに秋野の中にあるはずだ。
 優しさと冷酷さが同居し、すべてがごった煮になった秋野の中に手を突っ込んで、何もかも目の前に引っ張り出してみたくて仕方がない。覆うもののない中身を、曝け出して味わいたい。
 秋野が、別の手段で哲にそうするように。
 皮膚一枚の下にあるすべてを食い尽くされるような感覚を思い出し、首筋の毛が一気に逆立ち鳥肌が立った。秋野は哲の内心を見透かしたように僅かに笑う。その笑みに温かみは一切なく、獲物を食い殺す寸前の肉食獣のような凶暴性が仄見えた。
「なあ、哲」
「何だよ」
「何で俺が頭に来てるのか、知りたいんだろ?」
 しわがれた声で囁いた秋野の重みが身体にかかる。
 秋野のブーツの底がアスファルトに擦れる音。踏みにじられた煙草の匂い。冷たい風に慣れた頬に秋野の温かい息が触れる。秋野が獰猛な笑みの裏に隠した苦い何かと噛み切った唇の血の味を同時に感じ、哲は威嚇の唸り声を上げながら、秋野の腕を握る指にありったけの力を込めた。