仕入屋錠前屋63 波乱の日 3

「殺した?」
 思いもよらぬ単語に、思わず声が裏返る。秋野は前髪をかき上げ、哲の指先から煙草を奪い取ると、ゆっくりと吸いつけた。
「と、本人は言ってる」
 薄茶の目が店の照明に揺らめき、何とも言えない色合いに瞬く。口にした物騒な単語は料理の名前だとでもいうような冷静さで、秋野は煙を吐き出した。
 まだ炭焼きの匂いが抜けない輪島の店は看板と暖簾を引っ込め、店じまいしていた。女を輪島の店の二階、診療所に運び込んで暫し経っており、輪島と手塚は女についている。秋野は、ひとり煙草をふかしていた哲のところへ下りてくるなり、殺したそうだ、と言ったのだ。
 簡単に奪われ秋野の唇の間に挟まった煙草を恨めしげに眺め、哲は新しい煙草を銜えて火を点けた。
「誰を」
「彼氏。金沢、って言ったかな」
「どこで」
「あの部屋で」
「……マジかよ」
 頭の血が足元へ下がっていくような感覚の中、反射的に手袋を脱いで触ったところがないかと頭を巡らせた。ドアノブには触っていない。女を運び出す時には脱いでいたが——。
「哲」
 いつの間にか秋野がすぐ横に立っていて、肩に手を添えていた。
「触んじゃねえ、クソ色男」
 手を振り払い長い脛を蹴飛ばすと、秋野は片眉をぐいと持ち上げた。
「何だそりゃ。喜べばいいのか、それとも悲しめばいいのか?」
「褒めてねえんだから悲しめ、馬鹿。んなことどうでもいいけどよ」
「どうでもよくはないけどな。彼女、寝室に死体があるって言ってる」
 哲は部屋の様子を思い浮かべた。確かに、彼女がいたのは居間で、その奥に二つドアが見えた。楊の話では1LDKということだったから、どちらかが洗面所か何かでどちらかが寝室だろう。あそこに死体があったというのか。警察沙汰に係るのだけは勘弁してほしい。おまけに殺人事件など、論外だ。
「殴ったんだそうだ」
 秋野の冷静な口調にむかついて、もう一度脛を蹴る。秋野は寸前で哲の足を避け、にやにやした。こんなときにそのにやけ面はどういうことだと顔に一発お見舞いしてやろうかと思ったが、目が笑っていない——どころか凍えそうなくらい冷たいことに気がついて考え直した。
「——拳でか? 嘘だろ」
「まさか。お前じゃないんだから、そりゃないだろ。彼氏の灰皿だってさ。ありきたりだが、よくあるということは効果があるってことなんだろう。お前もガラスの灰皿は使わないほうがいいぞ」
「うるせえ、てめえの頭をかち割ってやる」
「そういうわけで、一応様子を見に行くが、行くか」
 秋野の口元は相変わらず笑みの形に歪んでいて、それと対照的に薄茶の目は怖いくらいに鋭かった。秋野の横をすり抜け、哲は引き戸をゆっくり開ける。夜風が店の中に吹き込んで、煙を切り裂き渦巻かせた。
 心配されるなんてお断りだ。苛立ちのまま肩越しに振り返って秋野を睨みつけた。自分の面倒は自分で見るし、手に余ったとしたら自分の力不足で、秋野に手を出されるのはご免だった。
 哲の刺々しい視線に思わず、というふうに苦笑して、秋野は煙草をカウンターの灰皿に押し付けた。長い脚で店の中を突っ切って、あっという間に哲の背後に立つ。店を出かけた哲に素早く秋野の手が伸びて、首を掴まれ後ろ向きのまま引っ張られた。
 身体を捻って肘を脇腹に叩きつける。肋骨に肘が当たったが、秋野は小さく呻いただけで哲の耳元に口を寄せ、何を言うでもなく、突然耳朶に齧りついた。
「痛え!!」
 思わず声を上げた口から煙草が離れ、床に落ちて灰を撒き散らす。秋野の足がさっと動いて、靴底が火を踏み消した。
「離せ、この躾の悪い虎野郎!」
 喚きながら秋野を押しやって外に踏み出す。秋野の含み笑いと、そうでないとな、と呟く低い声が風と一緒に頬のすぐそばを掠めて行った。

 

 部屋に男の死体はなかった。
 秋野と哲は金沢の部屋に足を踏み入れた。寝室には確かに血のついた灰皿が転がっていたが、床の上には誰の身体も転がってはいない。そのかわり、玄関にあった男ものの靴が一足消えていた。
「気絶してただけだろうな」
「……だな」
 女が嘘を吐いているとは思えないから、早とちりしたということだろう。
 心底安堵して細く長い息を吐き出すと、秋野が喉の奥で低く笑う。睨みつけるとわざとらしく震えてみせ、秋野は床に転がった灰皿を見下ろした。
「彼女、知らなかったって?」
「ああ」
 女の出血は、妊娠早期の流産によるものだった、というのを聞いたばかりだった。寝室の床に点々と落ちている血は金沢という男のものだけ。そのことに、哲は訳も分からず安堵した。
 灰皿に視線を向けたままの秋野の顔。その横顔に浮かぶ表情は一見穏やかで普段通りだが、目の奥に燻る冷たい何かに、背筋を小さな虫が這いあがっていくような悪寒が走る。
「そんなもんなのか」
「俺は知らん。女じゃないから」
「まあ、そりゃそうよな」
 確かに馬鹿な事を訊いたものだ。秋野に隠し子でもいるなら別だが、そうでなければ分かることではないだろう。秋野は考えを読んだように眉を上げ、不機嫌に「俺に子供はいないぞ」と呟いて踵を返した。
 狭い部屋の入口ですれ違い、かわそうとしたが避け切れずに肩先がぶつかった。秋野にしては些か注意が足りない動きに思わず寄せた哲の眉が更に寄る。秋野の長い指が哲の上腕を掴んで引き寄せたからだ。
 肩口に乗った秋野の頭を空いている左手で押し戻したが、案外重かった。口に出せばにやつきながら中身が詰まっているとでも言うのだろうが、予想できたから言わなかった。頭蓋骨が厚いんじゃねえかと切り返しでもしたら、肝臓に膝蹴りのひとつくらい貰いそうだ。
「重てえ」
「んー。たくさん詰まってるんだよ。どうせ頭蓋骨が重いだけとか思ってるんだろうけど」
「……」
 やはり頭の中を読まれているに違いない。
「輪島さんに診せるような患者じゃなかったな」
 秋野の声はくぐもっていて、酷く聞き取り難かった。哲の肩の間近で吐き出される息が布地の上から熱を伝える。抑制された声音だが、怒りの片鱗を聞き逃すほど秋野を知らないわけではない。土足のまま人の家に中に突っ立って感じるには、それはあまりに不穏な熱に思えた。
「何で?」
「あの人は自分の子供を亡くしてるんだ。生まれる前に」
「……仕方ないんじゃねえの。お前は事情を知らなかったんだからよ」
 秋野に電話をしたのは自分だ。診てもらえないかと連絡したのは。だが、別に自分が悪いとは思わないし、それ以上に秋野には何の責任もないのは明らかだ。秋野は前髪を哲の肩にこすりつけるようにしたまま、低い声で返した。
「そうだな。分かってる」
 秋野が頭を起こし、振り返って部屋の中へ目を戻す。乾いた血がこびりついた灰皿の転がる寒々しい部屋。
「かわいそうだな」
 誰のことなのか、哲にはよく分からなかった。
 子供を亡くしたという輪島のことか、誰にも存在を知られないまま死んでしまった子供のことか、それともそれ以外の誰かのことなのか。
 秋野が再度肩に押し付けてきた頭を乱暴にひとつ叩き、哲は詰めていた息を吐いた。