仕入屋錠前屋63 波乱の日 2

 その女は酷く美しい肌をしていた。名前はディアナ。アフリカ系アメリカ人でスポーツマンの父と北欧出身モデルを母に持つ彼女は、両方のいいところだけを使って作り上げた人形のようだ。少々目が離れ気味だが美しいといっていい顔は不思議な魅力に満ちており、顔から足の爪先に至るまで、そのカフェオレ色の肌は素晴らしかった。
 それもそのはず、顔を初めとして手足、爪の一枚に至るまで、彼女は人に見せることを商売としているのだ。金のかけ方も半端ではない。実年齢は既に三十代後半らしいが、二十代だと言っても、誰も疑問を差し挟むことはしないだろう。
 長く、不健康なほど細い脛を優雅に組んで、女は口元に蠱惑的な笑みを浮かべた。
「あなたはドクターには見えないわ」
 訛りのない英語を話すディアナの声は掠れて低く、女らしさが溢れんばかりの外見と裏腹に、どこか男性を思わせる力強さがあった。
「それは、褒め言葉ですか? お察しの通り、僕は医者ではありませんが」
 高級ホテルのスイートルームを背景にして、彼女は芝居がかった仕草で笑った。
「褒め言葉よ。ドクターはお忙しいのね? それであなたみたいな素敵なひとが代理で来てくれるなら、私はそのほうがいいけれど」
 秋野は、女の薄い青の目を真正面から見つめ返した。コレクションで長年有名メゾンのモデルを務めていたディアナは見つめられることに慣れているらしく、嫣然と微笑んだまま表情を動かさない。
 内心を窺わせない笑みを美しい唇にたたえたまま、女は僅かに首を傾げた。
「それで?」
「ドクターワジマは引退しています。彼から、あなたにお礼を言うように、と。わざわざ会ってお礼をとおっしゃるあなたのお心遣いに感謝します。ですが、医者は患者を助けるために力を尽くすものですから、感謝して頂くには及ばない、と。どうかご主人にもそうお伝えください」
「奥ゆかしいのね、日本人って。それが噂のサムライ気質とかいうものなの?」
「彼個人の特性でしょう。そうでない日本人も山ほどいますし」
「あなたは?」
「僕は日本人ではありませんよ。だからと言って僕の図々しさが民族の特性に因るものだとは断言できませんが」
 ディアナは立ち上がり、窓辺に近寄って外を眺めた。繁華街は、ここからはただの灰色の塊に見えるだろう。秋野の世界も、輪島の世界も。
「そう。あなたの人種が何なのかはどうでもいいことね。私だってマイノリティの一人だもの。偏見を撥ね返そうと必死で努力したわ」
「お察しします」
「あなたがどこまで図々しいか……どんなふうになれるのか、私に見せて頂けない?」
 窓を背にした女のあでやかな微笑みに、秋野はゆっくり笑みを返した。

 

「悪かったな、代理人なんかにして」
 輪島は小鉢を秋野の前に置いて言った。ほたるイカが小さな体を鉢の底で寄せあわせ、食べないでくれと訴えているようだ。
「いや、いいよ。輪島さんが行ってたら、可哀相なほたるイカどころの騒ぎじゃない」
「ええ?」
 秋野は箸の先で容赦なくイカに襲いかかりながらカウンターの向こうの輪島に目を向けた。痩せて小柄、しかし鋭い顔つきの輪島は、店の暖簾と同じ紺色のTシャツとジーンズ姿。不精髭が生えたまま、短い髪はあちこち突っ立って、どこからどう見てもドクターワジマ、という風情ではない。
「臆面もなく口説かれた。角が立たないように断るのは難しいよな」
「……口説かれたのは、お前だからだろ?」
「違うと思うよ。旅先で遊び相手を見つけたいだけじゃないの。二十三歳年上の夫と離れてるうちにさ」
「嫌だ嫌だ。これだからセレブっていうのは」
 輪島はわざとらしくぶるりと身体を震わせ、秋野の隣の手塚にも同じ小鉢を置いた。
 古ぼけた狭い店には、秋野と手塚の他にひと組の客がいるだけだ。上司らしき禿げ頭の中年が、出っ張った腹を揺すりながらこれまた中年の部下に自制心について説いている。腹囲検査でひっかかりそうなその出っ張りが、もっともらしい説教から説得力を奪っている。
 シバタ部長——さっき、部下らしき方がそう呼んでいた——は、手を振って輪島を呼んだ。
「お勘定、いいかな」
 手塚はちらりと真っ赤な顔の部長に視線を流し、ほたるイカに目を戻した。
「で、彼女どうしたの」
「え? ああ、あのモデル? 別に。丁重にお断りしたから」
「断られることに慣れてると思えないけどねえ」
「俺はゲイだってことにしておいた」
 手塚は眼鏡の奥で瞬きし、次いで吹き出すと声を上げて笑い出した。
「見え透いてて、しかもありきたりな嘘だなあ」
「物凄く不本意だけど、一番角が立たないだろう。俺があんたに飛び掛かっていかないのは、あんたの魅力不足じゃなくて、俺の馬鹿な遺伝子か何かの問題だ……と」
 まだ笑いがおさまらない手塚のコップにビールを注ぎ、秋野はほたるイカの下から覗いた大根おろしを口に運ぶ。輪島が笑っている手塚を振り返り、首を傾げた。
 輪島は医大を出て、大学病院に勤務した。インターンの期間から、もっと言えば大学に入った頃から、優秀だと評判だったのだ、とは手塚の談だ。
 ディアナは二十代の初めにアメリカ人の富豪ビジネスマンと結婚した。新婚ほやほやのある日、商談で日本を訪れていた夫は倒れ、大学病院に担ぎ込まれた。そこは当時輪島の勤務していた病院で、彼はたまたま当直だったのだという。深夜の患者は大物で、病状は悪く、一刻の猶予もなかった。当時病院にはもうひとりベテランの外科医が詰めていたが、彼すら輪島がオペすることを薦めた——自分の失敗を恐れただけ、という噂もあったらしいが本当のところは医者本人にしか分からない。ともかく輪島はオペを成功させ、病院は名を上げた。
 当時も患者は輪島に大変な謝意を見せたそうだが、今頃その妻が輪島に会いたいと言い出したのは、ディアナが初来日したこと——モデルから女優に転身した彼女の初主演作のプレミアらしい——と、少々長めの滞在中、素敵な東洋の医者と恋の真似ごとをしようと思いついたかららしい。もっとも、彼女は実際に輪島への礼を用意してきていたし、夫と別れたいと思っているふうもない。ああいう世界の人間が考えることはよく分からないが、理解しようとしたところで無駄骨だ。
「まあ、そんなんじゃ輪島が行かなくて正解だね。あいつが進んでモデルとどうにかなるとは思えないけど、どうにかされることはあり得るな」
「輪島さんより十センチはでかかったぜ、彼女」
「おお、こわ」
 手塚は輪島の真似をして震えてみせた。
「どっちにしても、あいつは感謝されたくてやってるわけじゃないし」
「ああ」
 親友のために一瞬暗く沈んだ手塚の目が、ビールの水面をさまよった。秋野は手塚の肩を軽く叩く。手塚は照れたように笑ってコップを持ち上げビールを喉に流し込んだ。
 秋野はあわや女に脱がされかけたシャツの襟元を無意識に引っ張って、もうひとつボタンを開けて息を吐いた。美しい女は好きだし、彼女たちとのセックスも好きだ。ディアナは文句なく美しく、仕事の依頼人というわけでもないから、彼女の唇が頬を這い、美しく磨かれた爪の先がボタンをいじるのをやめさせるのは惜しかった。状況が違えば喜んでその先まで進み、楽しんだだろうが、輪島の顔を思い浮かべるとそんな気分にもなれなかった。
 輪島が失ったものと、その代りに自分に課したものを思い起こすと何とも言えない気分になる。それは、手塚だけではなく秋野も同じだ。そっと溜息を吐きながら、冷たいグラスを額に当てる秋野の上着の内側で、携帯電話が振動し始めた。

 

 女が見たら涎を垂らし、タックルして押し倒しそうだ。
 秋野を見てまず思ったのはそんなくだらないことだった。
 白いシャツに、控え目な光沢のあるチャコールグレーのスーツ。言ってしまえばそれだけだ。アクセサリーの類も何もつけていないが、何やらよからぬものが垂れ流されていると感じてしまうのは、その薄い色の目のせいか、それとも文句のつけようのない体型のせいなのか。
 どうでもいいことではあったが、あれだけ具合の悪そうな女が一瞬頬を赤くしたことで、ああやっぱり、と変に納得した。哲にしてみれば何やら余計なもんを振り撒いてやがる、程度にしか感じられないのだが、女にとっては花の蜜の如く感じられるのだろう。
 何はともあれ、秋野が手塚とともに輪島の所にいたのは幸いだった。手短に事情を伝えると、秋野は了解したとだけ言って電話を切った。余計なひと言が多い男だが、こういう時には無駄がなくて手際がいい。いけ好かない男ではあるが、頼りになるのは確かだった。
 車には手塚が乗っていて、スカートの上からストールを巻きつけた女を後部座席に座らせ、何か声をかけている。女はまだ呆然としていたが、新しい人間が登場したせいか、幾らかしゃんとしたようだった。
「じゃあ、事務所にもどるね」
 楊は心配そうに車の中を覗き込んでいたが、哲の傍に駆け寄ってきてそう言った。
「ああ。早く行け」
「大丈夫?」
「俺は突っ立ってただけだ。後で連絡入れるから」
「わかった。じゃあ行く」
 早足で歩き去る楊を見送り、哲は助手席に乗り込んだ。運転席の秋野は何も言わず、アクセルを踏む。肩越しに振り返ると、女は青ざめた顔をふと上げて、何かに怯えたように哲から目を逸らした。