仕入屋錠前屋63 波乱の日 1

 嫌い、大嫌いよ。もう顔も見たくない。

 何度その言葉を口にしたか分からない。
 ある時は本気で。ある時は気を引きたくて。
 どちらにしても、男が本気で彼女の言葉に耳を貸したことなど一度もなかった。

 俺にはお前が必要なんだ。

 口先だけと分かっていても、その言葉に囚われた。
 あの人には私が必要。彼が本当に愛しているのは私だけ。家族が、友人がこぞって別れを勧めても、素直に頷くことが出来なかった。
 男が欲しいのは金と、言うなりになる女だ。最初は彼女の容姿や内面に惹かれたとしても——今となってはもうどうでもいいことだ——男自身、理由はとうに忘れてしまったに違いない。
 彼女はまだ十分に綺麗だった。
 自惚れではない、と思いたい。
 何人もの男が口に出す賛辞の何割かは自動的に口にされる世辞だったとしても、残りの何割かは本心だと思いたかった。まだ二十五を幾つか超えただけだ。まだ、というには遅いのだろうか。そんなことはないはずだ。実年齢が幾つであろうとも、彼女の生きる世界では、目に見えるものだけがすべてなのだから。
 そう、今目にしているものがすべて。
 振り下ろされる拳が。

 

 秋野の知り合いのレイという男が調査会社をやっているのは、哲もよく知っている。要するに興信所とか探偵とかいう商売なのだろうが、やっている本人曰く、調査会社だ。そのレイが、雇っている中国人の楊を手伝ってほしいという電話をかけてきたとき、哲は新聞の社会面を広げて煙草を吸っていた。
 調査対象の部屋の鍵を開けてほしい。
 普段ならまず受けない仕事である。哲は民家の戸口の解錠が嫌いだった。簡単すぎる、というのも理由のひとつではあるが、何より見咎められれば酷く面倒くさいことになる。
 空き巣かよ、と呟いて、煙草の灰の先をぼんやり見つめた。レイと電話を代わった楊のどこかおかしな日本語が携帯から聞こえてくる。
「チガウよ! 何もぬすんだりしないもん。それに、その時間はいないはずだから。いつもいないんだ。そうじゃなきゃレイさんが俺に行けっていうはずないでしょ?」
「……それは分かんねえぞ」
「なんでだよー」
「苦労してるわりには純真だな。騙されやすい奴は馬鹿を見るんだぞ、大丈夫か、おい」
「俺はだまされやすくなんかありません!」
 喉元まで、断りの台詞が出かけてつかえる。
 ここ暫くあまりにも暇すぎた。バイトはそれなりに忙しいが、解錠の仕事がさっぱり入ってこないのだ。そういう時はあるもので、いくらこちらがじたばたしてもどうしようもない。
 気は進まないが暇だから、どうしてもというなら行ってもいい——我ながら歯切れが悪いが、楊は気にしたふうもなかった。ただ、留守宅の鍵を開けるだけだ。哲はそう思い直し、電話を切って煙草の穂先を灰皿に押し付けた。
 楊は穏やかで優しい男だ。もしも誰かが家にいたとしたら、すぐに回れ右をするだろう。誰を傷つけるわけでも、何かを盗むわけでもない。別に面倒事が起きるわけではないのだ、と自分に言い聞かせ、哲はゆっくり立ち上がった。

 陽が落ちて数時間、世間では夕食時。哲と楊が向かった辺りには誰の姿も見えなかった。人の目を気にする必要がなくていいのは確かだが、深夜でもないのにここまで閑散としていると落ち着かない。
 この辺りは水商売、外国人労働者、日雇労働者やなにかが多いとかで、家に帰るのは寝るときだけ、という生活を送っているものが大半なのだそうだ。哲の住んでいる場所も似たような環境だが、それにしても、もう少し人も車も見かけることができる。ごちゃごちゃと薄汚れたアパートが立ち並び、道路は建物の合間を縫って通したかのように曲がりくねっていて幅も狭い。車通りが少ないのはそのせいだろう。
 目指す建物はその界隈ではまあまあ立派な方だったが、築年数はかなり経っていそうだ。建物を見上げると、各階の廊下に戸口がずらりと並んでいる。古ぼけてはいるが鉄筋で、一昔前の市営住宅のように見えた。
 隣人が出てきたらアウト。それ以前に近所の物好きが見ていてもアウト。思い返せば、少々違うがこんな状況で解錠したことが前にもあったと、哲は苦いものを無理矢理飲み下して楊に目を向けた。
 この部屋に住む男は、どうやら信用されていないらしい。誰からかというと、婚約者の両親からだ。
 楊が調べるのは、男の交友関係と、浮気の証拠なのだという。交友関係はそれなりに調べがついたものの、浮気しているという確証は得られていないらしい。
「家に入って何探すんだよ」
「わかんない。写真とか、ビデオとか、女の子のいる証拠、かな……」
「んなもんあるのかね」
「わかんない」
「つか、あっても証拠になんねえだろ、不法侵入だし。証拠持って帰れば立派に窃盗だし」
「しらないよー。俺は言われたからしらべるだけだし、あるって分かればそれでいいんだって。デジカメで写真撮って見せてくれればいいって。恋人のお父さんって……なんて言うんだっけ、えーと、教会じゃなくて……そういうの」
「……神社? 寺?」
「お寺! お寺の、クレリック?」
「お坊さん」
「そうそう、オボーサン。オボーサンなんだけど、彼氏が水商売っていうのが気に入らないみたい」
「それはまあ、仕方ないわな。好き好きだ」
「そうだね」
「そういや琳可は元気か?」
「元気だよ! ちょっと太って健康的。あと、ショートカットにしたよ。可愛いよ」
 楊は中国人である。東北の方が出身だというのは聞いたが、詳しくは知らない。ただ、レイに雇われる前はスリだったらしく、呑気な外見に似合わずやたらすばしっこい。
 さっさと済ませよう、と言うと、楊も同感だったらしく頷いて歩き出し、数歩進んで不意に立ち止まった。
「そういえば、アキノさんもそうだよね」
「何が」
「オボーサン」
「はぁ?」
 坊主頭の秋野が想像できず、哲は思わず間の抜けた声を出した。あらゆる意味で聖職者から程遠いあの男の何がそんな誤解を生んだのだろうか。それとも、哲が顔を見ていない一週間の間に丸刈りにでもしたのだろうか。
「違うだろ……? 誰だ、そんなこと言ったの」
「レイさん。アキノさんはオーボーだって」
 なるほど、それなら分かる。
「あー……、あのな、それは当たってんだけど、オボーサンと横暴は違うのよ」
「そうなの? オーボーサン、ってえらい?」
「全然偉くない」
「そっかあ。えらいのかと思った。じゃあ、はやく終わってごはんでもたべにいこう、ね!」
 分かったのか分かっていないのか、楊はにっこり笑ってそう言った。

 ラテックスの手袋を嵌め、ドアの前に屈み込む。ピックを鍵穴に突っ込んだ瞬間に、哲は鍵が開いていることに気がついた。
「おい、開いてる」
「え」
 楊が目を丸くしたが、鍵は確かに開いている。さっき外から確認した限りでは、部屋の電気は点いていなかったし、耳を澄ませてみても、音は何も聞こえない。楊は少し考えていたが、覗いてみよう、と手振りで示す。鍵のかけ忘れということもあるし、哲のように施錠しない男という可能性もある。哲はドアの前から退き、楊に場所を譲った。楊は同じように手袋を嵌めた手で、ゆっくり慎重にドアノブを回した。
 玄関には男もののスニーカーが二足と、女物の先の尖った赤い靴があった。居間に通じるドアは閉まりきっていない。何か薄ぼんやりとした明かりが漏れている。部屋の照明ではなく、点けっぱなしのテレビか何か。音はしないが、ちらちらと光が点滅しているのは、恐らく画面が動いているからだろう。
 楊がそっとドアを押す。
 ベニヤ合板の安っぽいドアはゆっくりと部屋の中へと動いていき、部屋の中に籠る不快な匂いが突然二人の鼻先に流れ出た。
「大変だ……!」
 楊の切羽詰まった囁き声に、女がゆっくりと顔を上げた。若いことは分かるが、部屋は暗い。そして、今は蒼白になった顔色ばかりが目についた。どうしてか音の出ていないテレビに映った人気ドラマが、血色の悪い顔に不気味に影を躍らせた。
 身体の線を際立たせる下品すれすれの服装も些か濃すぎるアイメイクも、多分若い女の間の流行なのだろうが、この状況では滑稽なくらい場違いに見える。
「大丈夫か、あんた」
 今更逃げ出したところでもう遅い。哲は仕方なく、楊の後ろから女にそう声をかけた。
「良ちゃんの友達……?」
 女は細い声で呟いた。目の焦点が微妙に合わないのか、何度も瞬きを繰り返す。楊が低い声で、カナザワリョウイチ、と呟いた。それが男の名前なのだろう。
「そう、カナザワの友達だ」
「あたし……あの、良ちゃんはいない……いないから……帰って」
 女のデニムのミニスカート。短すぎるその裾から、腿を伝って素足に濃い色の筋が流れている。薄暗いから黒く見えるが、照明を点ければ真っ赤に見えるに違いない。
 出血の場所は疑いもなく脚の間のようだったが、正常な生理のはずはないだろう。放っておける状態でないのは素人から見ても明らかだった。楊と哲は靴を履いたまま部屋に上がった。女はそんなことには気がつかないのか、視線を宙に彷徨わせている。
「なあ、あんた血が出てる。病院行かねえと」
「嫌」
「嫌じゃねえよ。財布と保険証持って、な、電話——」
「いやあ!!」
 大声に、楊がびくりと身を竦ませた。
「動くのが嫌なら救急車呼んでやるから」
「病院は嫌」
「ってあんた、このままじゃ」
「行かない、病院は行きたくない! 行きたくない……!!」
 自分の身体を抱いて背を丸め、女は嗚咽し始めた。楊が近寄って、女の背に恐る恐る手を乗せる。宥めるように背を撫でる楊を横目で眺めながら、哲は携帯を取り出して、長く重い溜息を吐いた。
 まったく、なんて日だ。