仕入屋錠前屋62 なみだのわけ 3

 今日一日、心中が平静であったとは言い難い。そんな中、無理矢理胃に収めた夕食が胃を重く感じさせた。
 悪いとは思いながら三分の一は残したカレーライスに目をやった時、哲は何も言わなかったし、どうでもよさそうな顔をしていた。
 プリンを食べ終わると満足したのか、秋野と哲が茶碗を片付けている間に、利香はうとうとし始めた。床に直接置かれたベッド用のマットレスに腰掛け、舟を漕いでいる。まだ身体に比べて頭が重そうな体形だから、前のめりに倒れはしないかと秋野は何度も振り返った。
「普段だったら寝てる時間なんだろうな」
 カレーの鍋を洗う音と、水道の音に哲の声が混じる。ホーローの鍋を擦る哲の手元に目を落とし、秋野は無言で頷いた。亀の子たわし。何度聞いてもおかしな名だ。くだらないことを考えていたくて、無理矢理そう思ってみる。
「八時だから、そろそろ布団に入れられる時間のはずだ。今どきの子供は遅くまで起きてるのが多いが、尾山さんのところは、そういうのは変わってないだろう」
「俺ん家もそうだったぜ。ガキの頃は」
「……八時に寝なさいって言われてるお前が想像できんが」
 鍋についたクレンザーを濯ぎながら、哲は秋野を見上げて片眉を引き上げた。
「俺だって大人の格好で生まれてきたわけじゃねえぞ。赤ん坊の頃は天使のようだったという両親の証言が」
「何で最後だけ棒読みなんだよ。あんまり失礼なこと言うと天使が鎌持って追いかけてくるぞ」
「それ、天使じゃないんじゃねえの」
「かもな。何でもいいが、無垢で無力なお前ってのは俺の想像力を超えてるよ」
「貧困な想像力だな。女のスカートん中想像するときだけか、活躍するのは」
 秋野はわざと眉を寄せ、哲の顔をまじまじと見た。
「何言ってる。女のスカートの中を想像する必要にかられたことなんか俺にはないぞ。捲りゃいい」
「ごもっとも」
 哲は馬鹿馬鹿しい会話に声を上げて笑うと、濯いだ鍋を洗いかごの上に伏せ、シンクの中で手についた水滴を払った。蛍光灯の紐を引っ張り、電気を消す。電灯が消えると同時に、突然哲の笑顔が消えた。
「——哲?」
 不意に真顔になった哲は秋野の声に顔を上げ、濡れた手をジーンズで拭いながらゆっくり瞬きした。秋野の顔にひたと当てられた視線は何かを探るように鋭く秋野に突き刺さる。
「何だ」
 険しいと言ってもいいその目つきに見られたくもないものを見られた気がして、秋野の声は自然と硬く、低くなった。そのことに気が付いたのかそうでないのか、哲は秋野から目を逸らした。
「別に。利香!」
 哲は秋野の身体を避けるようにして振り返り、利香を呼んだ。利香が寝ぼけた顔を上げ、もごもごと口の中で返事をする。俯き加減で目を擦る利香の頬は白くて柔らかそうだ。まるで薄皮の饅頭かなにかのようにふっくらとして可愛らしいが、饅頭に例えられたと知ったら利香はむくれるかもしれない。
「帰るぞ。トイレ行ってこい」
「はぁい」
 ゆっくりと起き上り、利香は哲のTシャツを脱ごうともがいた。哲がすぐに利香に近寄り、Tシャツを引っ張って頭から抜く。逆立った髪を哲が直してやると、利香は覚束ない足取りでトイレに向かって歩いて行った。
「秋野」
 いきなり名前を呼ばれ、秋野は利香に向けていた視線を哲に戻した。
「俺は利香を送ってく。お前は帰れ」
「は?」
 居間の白っぽい照明が哲を頭上から照らす。光と影のコントラストに男っぽい骨格が浮き立って、その顔は無垢な天使どころか、正に大鎌を持った不吉な何かだ。
 名前を呼ばれたことに何故か動揺し、秋野は何となく言葉を探せずにいた。
 別に、哲が秋野の名前を一切呼ばないということはない。頻繁ではないにしろ用事があれば呼ぶし、人前でクソ虎とか何とか呼ぶほど哲は非常識ではない。それなのに何故か、口から手を突っ込まれて胃を掴まれたような気分だった。
「お前は来なくていい」
 そう言いながら、哲は台所に突っ立ったままの秋野のところへ戻ってきた。秋野から二歩の距離で立ち止まり、シャツの襟元に右手を突っ込んで無造作に首を掻く。秋野が黙って見ていると、哲は首元から引き抜いた手を身体の横にだらんと垂らし、秋野の目をじっと見つめた。
 居心地が悪い。
 そもそも哲と居て心安らぐことなどないが、これはそういう感覚とは何かが違った。
「何言ってるんだ? お前がわざわざ出かけることないだろう。どうせ俺は帰るんだし——」
 すべて言い終える前に、瞼の裏に小さな白い光点が炸裂し、頬骨の下に強烈な痛みが生まれた。
「…………っ!!」
 ふーっ、と猫が何かを威嚇しているような音が聞こえ、哲が足を踏ん張ったのが見える。まともに横面を張られたらしい、とその時初めて気が付いた。不意を突かれて力が抜けた膝が折れかかる。体勢を建て直し掛けた矢先、体側に威力のある中段回し蹴りを食らってさすがに上体が大きく傾ぎ、止めのように食らわされた前蹴りに耐えかねて、秋野は一週間分の新聞を崩しながら床に転がった。
 新聞紙のインクの匂いが鼻腔に纏わりつく。肘をついて身体を起こすと、哲はいつも通りの顔で秋野を見下ろしていた。
「な」
「泣きたいくらい痛えだろ」
「——何」
 トイレの水が流れる音がする。哲は冷蔵庫に向かい、冷凍室から何かを取り出した。利香が居間に戻ってきて、哲を見上げた。
「哲、あたしトイレ行ったよ」
「ああ、靴履きな。秋野はお留守番だ。行くぞ」
「はーい」
 当然だが、利香は床に座った秋野を見ても殴られたとは分からないらしい。何かよく分からない歌を口ずさみながら玄関に座って靴を履いている。まだ小さい背中に目をやっていたら、水色と白の模様が目に飛び込んできてそのまま落ちた。哲が腹の上に放ったのは、保冷剤だった。
「じゃあ秋野、またね!」
「ああ」
 手を振る利香に返事をして手を振ってやる。ドアが閉まり、階段を下りる二人分の足音が遠くなっていく。秋野は保冷剤のパッケージに目を落とし、瞬きした。
 一体何だと言うのだ。
 鈍痛が顔の半分を覆っている。確かに痛い。痛いが、痛みで泣いたことなどこの十年一度もない。泣きたいくらい痛い、なんてとんでもない。アンヘルに痛めつけられた経験を思えば、哲の一発など足を踏まれた程度のものだ。
 保冷剤の上に水滴が落ちる。滴はビニールの表面をゆっくりと流れ、秋野のジーンズに小さな丸い染みを作った。平らでないところにあったのか、保冷剤はぐにゃりと曲がった形で固まっている。薄らとくもった表面に指で触れた途端、指先が濡れたような錯覚を覚えた。
「…………くそ……」
 堰を切ったように溢れるなみだのわけが、秋野自身分からなかった。
 悲しくはない。辛くもない。それなのに胸を押し潰すようなこの感情の正体を掴めずに腹が立つ。
 泣くのは、一体何年ぶりだろうか。欠伸を堪えて滲む涙とは違う、瞼を熱く重くさせるそれはみっともなく頬を濡らし、唇の隙間に入り込んだ。
 秋野は握った保冷剤を頬に当てた。硬く凍ったそれは氷塊と変わらず、広範囲には湿布の役目を果たしそうもなかった。右手で顔を覆い、喉の奥から洩れる嗚咽を噛み殺す。
「くそったれ!!」
 保冷剤を思いっきり壁に叩きつけ、秋野は天を仰いで顔を覆った。掌の下で瞬きを繰り返し、これ以上涙が零れないように歯を食いしばる。自分を叱咤か、あるいは呪うように吐きだす悪態は、無意識のうちにこの国の言葉ではなくなっていた。

 

「何だよ、まだ居たのか」
 部屋に入るなりそう言い、哲は靴を蹴るように脱いでしかめ面をしてみせた。他人の家に入る時は揃えて脱ぐくせに、自分の部屋となると後も見ない。三和土に転がったスニーカーの片方は、秋野のブーツに乗り上げている。
「居たら都合でも悪いのか」
「別に。そうじゃなくて——」
 言葉を途切れさせて秋野の顔を数秒見つめ、哲は肩を竦めて床に腰を下ろした。
「ちゃんとタクシー乗って、玄関まで送ってったからな。心配なら電話して確認しろ」
「いや、いいよ。別に心配で待ってたわけじゃない。鍵を閉めないで帰るってのも気が引けてな」
「どうだっていいだろ、お前ん家じゃねえんだから」
 もっともな意見だが、そういう問題ではない。
「まったく……帰るよ。カレーライス、ご馳走さん」
「とっとと帰れ」
 哲は振り向きもせず、興味なさそうに言いながら煙草を銜えて火を点けた。
 秋野が積み上げ直した山から手に取った新聞にすべての意識が向いているのが分かり、秋野はつい苦笑を漏らした。聞こえたのだろう、哲が振り返って秋野を見上げ、またすぐに顔を戻す。笑ったせいで、殴られた頬が不意に痛んだ。
 俺はそんなに酷い顔をしていたのだろうか、とブーツに足を突っ込みながら考える。
 部屋から出て行ったふりをして一時間この場に突っ立っていたとしても、新聞を読む哲は秋野に気がつかないかも知れない。さすがにこの狭い部屋でそれは非現実的だが、あり得なくもないと思う。それくらい哲が秋野の普段の行動に無関心なのは今更だ。そんなふうに秋野が何をしようが思おうがどうでもいいと思っている哲が、敢えて一人で利香を送って行ったのは、秋野をここに一人で残すためだったのだ。多分、自分が戻ってきたときに秋野がまだここに居るとは思わなかったのだろうが。
 泣きたいくらい痛えだろ。
 秋野の屈折した内面を僅かなりとも知る哲は、秋野が泣くには理由が必要だと思ったのかも知れない。あれは多分、哲が秋野に向けた初めての——そしてかなりの確率で最後になりそうな——優しさだった。
 そんなもの、野良犬にでも食わせてやればいい。突然猛烈に腹が立ち、秋野はブーツで思いきりドアを蹴りつけた。背後で哲が何か言ったような気がしたが、叩きつけるように安っぽいドアを閉め、哲の部屋を後にした。

 まだ宵の口、暗くなってはいるが人と車の気配がする夜の空気を吸い込んで立ち止まり、秋野はポケットに両手を突っ込んだ。
 今度こそ本当に去って行った多香子への想いの残滓も、利香の父親には決してなり得ない苦悶も、不可解な涙に洗われ、身体の奥に流されて、そうしてようやくそこにすっぽり収まったような気がした。決して己から切り離すことができないのなら、ありのままを受け入れるだけのことだ。幾ら足掻いても努力しても、変えられないことは無数にある。
 涙が出そうだ。アパートの外階段を下り、一歩踏み出したその場で佇んだまま足元に視線を落とし、秋野は眇めた目でアスファルトの凹凸を睨みつけた。
 かつて誰よりも大事だった女より、愛くるしい彼女の子供より、哲が欲しい。俺のことなどどうでもいいと本心から言えるくせに、この喉笛に食らいついて離れない狂犬のようなあの男が欲しい。強烈な執着にさっきとは別の涙が出そうで、秋野は奥歯を軋らせた。決して手に入らないから欲しいなんて、そんなのは嘘だ。
「……そう信じてたのにな」
 呟き、両手で顔を擦る。自分に嘘を吐いてきたわけではない。そうではなくて、今気が付いただけのことだ。哲がどう思おうと、どんなに抵抗してみせようと、そんなことは関係ない。あの男の睫毛一本まで自分のものにしてみせる。
 顔を上げると、秋野は深く、ゆっくりと息を吸った。冷たく乾いた空気が肺を満たす。少しずつ吐き出す息は寒さに白く色を変え、一瞬形あるもののように踊って見せて、あっという間に消えていく。ジーンズのポケットの中で電話が振動し始めた。秋野は電話を取り出すと、一瞬躊躇してから応答した。
「いつまで突っ立ってんだ、不審者」
 電話を耳に当てたまま哲の部屋の窓を振り仰ぐ。カーテンは閉まったままで、その向こうにも人影は見えない。
「何で俺が突っ立ってるって分かるんだよ。見てもいないくせに」
「うるせえ、早く消えろ」
 唐突に電話が切れた。
「……まったく」
 携帯をポケットに押し込み、煙草を取り出す。銜えて火を点け、もう一度、カーテンしか見えない窓を見上げた。哲は、いつものように床の上に新聞を広げ、猫背になって紙面を読んでいるのだろう。
 煙を吐き出しながら喉の奥を鳴らして笑い、秋野はまた歩き出した。