仕入屋錠前屋62 なみだのわけ 2

「にーんじーん」
 適当な節をつけ、利香はさっきから歌いっぱなしだ。
「たまねぎ、おにくー」
「利香、お前それ小せえだろ、人参」
「だって切るの楽しいんだもん」
「もんじゃねえ。それじゃ煮てるうちに溶けちまうだろうが」
 哲の部屋は相変わらず、汚れてはいないが散らかっていた。床に積み上がった一週間分の新聞の下からテレビのリモコンらしきものがはみ出しているが、本当にリモコンかどうか、定かではない。
「このくらい?」
「それじゃでっけえよ」
「むずかしいよ」
「まあいいわ、でかくても小さくても食えよな」
「いいよ! 人参好き」
 多香子と別れた後、どこか行きたいところはないかと利香に訊いたら、なぜか哲の家、という答えが返ってきた。とっ散らかってるし何もねえぞ、と言いながら、哲は嫌がるでもない。結局哲の部屋で利香に晩飯を食わせることになり、こうして狭い部屋に集まっているというわけである。
 利香は元々哲が好きだが最近はとりわけ懐いていて、今もテーブルを台にしてシンク前の哲の横に並び、一所懸命カレーの具を刻んでいるところだ。
 擦り切れたジーンズにネルシャツの腕を捲った哲と、淡いアイボリーのワンピースが汚れるからと哲の青いTシャツを被せられた利香。親子には見えないが、兄妹にも見えない。何ともおかしな図ではあったが、仲がよさそうなことに変わりはない。
 秋野が多香子と話している間ずっと遊んでもらったからか、利香は哲にべったりだった。秋野ほど頻繁に会わないから珍しいというのもあるだろうが、それにしても哲の後をずっとついて歩いている。屈託ない仲の良さに嫉妬心がちらりと胸の奥を過った。子供が親離れすると、こういう気分を味わうのかと何となく思う。
「手を切るなよ、利香」
 秋野が声をかけると、利香は手元に集中しながらはぁい、と返事を寄越した。
「哲、大丈夫か、利香に包丁持たせて」
「気をつけてゆっくりやりゃ何ともねえだろ」
 そう言いながら哲は振り返って肩越しに秋野を見た。
「どうしても心配なら別のことさせるけど」
「えー! あたし人参切りたいよ」
「ちょっと待て、秋野がいいって言ったらな」
「つまんない」
 頬を膨らませた利香を見ていると強いことは言えなくなる。見ているのが哲だし、滅多なことはないだろうと自分を納得させて秋野は小さく溜息を吐いた。
「分かった、任せるよ。きちんと見ててくれ」
「はいよ。お許しが出たぞ、秋野おじさんの」
「誰がおじさんだ」
「秋野おじさーん!」
 利香が笑って哲を見上げる。哲も微笑み、利香の頭を撫でた。
「おい、拗ねんな、イモの皮剥かせてやるから」
 小さく舌打ちしたのが聞こえたのか、哲が肩越しに振り返って意地悪く笑う。秋野は手の中のライターを哲の尻に向かって思い切り投げつけた。

 

 カレーは利香のために甘口で作られたが、それなりに美味かった。アルバイトとはいえ料理で給料をもらっている人間が作ったのだから、まずいわけはないのだが。
 サラダはレタスの上にグレープフルーツとチーズ、ミモザにしたゆで玉子が乗っかっている。女が作るようなサラダだなと言ったら、女が喜んで食うんだよ、と脛を蹴飛ばされた。勤務先居酒屋のメニューをそのまま再現しているあたり、本当の料理好きではないのが窺えるというものだ。
 利香は一所懸命食べている。普通の大きさのスプーンも利香が持つと大きく見えるから不思議だ。そう思うと愛しさがこみ上げて、秋野は手を伸ばして利香の頬にそっと触れた。
「なあに?」
「なんでもないよ」
「おいしいね」
「ああ、そうだな」
 利香は秋野の顔を見てにっこり笑ったが、目を瞬いて秋野を見つめ、スプーンを握り締めたまま首を傾げた。
「秋野?」
「何だ」
「秋野は、あたしのおとうさんじゃないよね?」
 哲が箸でつまんだグレープフルーツの房が半分に割れてレタスの上に墜落する。
「くそ、いや、別にお前のことじゃねえからな」
 珍しく哲が秋野に弁解したが、秋野の気分はそれを面白がるには程遠かった。
 利香はいつの間にか大きくなった。とは言ってもまだ十歳にもなっていないから、ませたことを言い始めるには少し間がある。その利香の台詞だけに、一瞬何を訊かれているのか分からなくなった。
 狭いテーブルに乗った三人分のカレーライスとサラダ。一見和やかな家族団欒の小道具のようでいて、実のところ他人が三人寄り集まっただけの食卓だった。血の繋がりがなければ家族でないなどと言う気はないが、それとこれとは別の話だ。
 何かの景品だったという、青いラインの入った白い皿。蛍光灯を照り返す安っぽい陶器の表面を視線が滑る。何をどう繕おうと、子供ならではの鋭さで利香はそれを見抜くだろうか。
「俺は、お前の父親じゃないよ。でも、そうだったらよかったと何度も思った」
「よくわかんない」
 利香は目をぱちくりさせて言い、皿に残っていたカレーをひと匙掬って口に入れた。子供の食べ方は大人とは違って見える。同じ咀嚼し嚥下しているのに、どうしてかすべてが愛らしい。利香は今口に入れたカレーを飲み込むとスプーンを置き、両手でグラスを支えて水を飲んだ。
「でも、秋野がお父さんでなくてよかった」
「——利香」
 哲が低い声を出す。利香は哲の声音に驚いたのか目を丸くして哲を見上げたが、グラスを置くとすぐに秋野に顔を向けた。
「うんとね、お母さん……さっきのひとがお母さんなんだよね? お母さんと秋野はこいびとだったんだって、しげパパが言ったの」
「……そうだな」
「あたしはほんとうはお母さんとお父さんの子供だけど、お母さんとはいっしょにいられなくて、パパとママの家の子になったんだよ。だから、もし秋野があたしのお父さんだったら、いっしょにいられないってことでしょう? 秋野があたしのお父さんで、お母さんみたいにどこか遠くに行っちゃうんだったらいやだから」
 突然食う気が失せたカレーライスをぼんやりと見下ろす。僅かな時間放っておいただけで、その表面には薄い膜が張っていた。
 人間だってそうだ。秋野は自嘲とともにそんなふうに思う。誰より愛していると思っていても、離れて数年経てばそれも薄れる。他人の内心など、容易に見えなくなるものだ。お互いの心に張った膜はカレーとは違う。スプーンで簡単に避けてしまえるものではなかった。
「利香、俺は昔、お前のお母さんが好きだった。耀司が真菜を好きなように。だけど、お母さんは俺のことがそんなに好きじゃなくなった。分かるか?」
 利香が頷く。子供なりに理解したのか、神妙な顔つきだった。
「だからお母さんは、別の好きな人のところへ行ったんだよ。そうしてお前を産んだ。知ってるな」
「うん。しげパパに聞いた。お母さんはね、ぐあいがよくなかったんだって。だからあたしはパパとママの子供になったんだよ」
「そうだな。だから俺はお前のお父さんじゃない」
「そっか」
「お前のお父さんになれたらよかったな。お母さんにもそう言ったが、色々事情があってそうはいかなかった。だけど、どっちだって同じだ、利香」
 利香がじっと秋野の目を見る。多香子にはあまり似ていない利香。だが今、もう一度多香子のあの目を覗き込んでいるかのような気がした。
「お前を置いてなんかいかないよ」
「……うん。それならいいの」
 大人びた口調で言い、利香は秋野の目をじっと見た。この子の親になれたら幸せだっただろう。思っても仕方のないことを無理矢理頭から追い払い、秋野は利香から目を逸らした。
「利香、飯食ったらプリン食うか」
 哲が利香にそう訊ね、利香はどんな無骨な男でもうっとりしそうな愛らしい笑みをうかべて哲を見、頷いた。
「うん! 食べる!」
「よし。それ食っちまいな」
「哲、あたしと半分こする?」
「秋野が本気で拗ねるからやめとけ」
 真面目な顔で言う哲に返した秋野の苦笑は、ほんの僅かばかり引き攣っていた。