仕入屋錠前屋62 なみだのわけ 1

 まったく、どうかしてる。

 ここ数日何度も繰り返した呟きが一体誰に向けてのものなのか分からない。
 自分になのか、尾山になのか、それとも多香子になのか。
 秋野は煙を吐き出し、目の前の女に目をやった。

「——満足か」
「満足っていうか……納得した」
 多香子はあの頃と変わらなかった。確かに美人ではあるが、人並み外れて美しいわけではない。だが、男の目を惹く魅力は確かにある。儚げな佇まいも、どこか頼りない繊細さも、計算ずくなら鬱陶しいが、彼女の場合はどこまでも本物だった。
「あの子に私は必要ないんだなって」
「今更要るも要らないもないだろう」
「うん。そうよね」
 無意識に髪をかき上げる左手の薬指に、シンプルな指輪が嵌っている。結婚したのだから当然だし、思ったほど胸は痛まなかった。内心がまったく波立たなかったと言えば、それは嘘になるだろうが。
「でも、よかった。多分、断られると思ったから」
 多香子の視線が外に向く。ガラスの向こうでは、哲が利香に手を引っ張られて走り回っている。この寒いのに、と多香子は微かに笑みを漏らした。利香を見つめる多香子の横顔が利香と似ているのかどうか、秋野にはよく分からない。

 

 尾山から連絡があったのは二日前の夜、珍しく機嫌のいい哲——どうやら川端からまわってきた解錠の仕事がやりがいあるものだったらしい——と酒を飲んでいる最中だった。
 三科の経営するバーに行くのはいつかのクリスマス以来だ。たまたま近くに用事があったからで、哲を誘うとまさかあのおねえちゃんはいねえだろうなと及び腰になった。絶対に来ないと口から出まかせを言うと渋々ついてきたが、美也は余程強烈に印象を残したらしく、結局晩飯二日分を奢る羽目になった。
「出先か?」
 店内のBGMが聞こえたのか、尾山は秋野が電話に出るなりそう言った。
「そうですが、大丈夫ですよ。どうしました?」
「お前、明日か明後日の昼間、暇じゃないか」
「明日……土曜はだめですね。仕事が入ってます。明後日なら都合つけますが」
「そうか」
 そう言った後、尾山は言い淀むような間を置き、僅かに低い声でゆっくりと言った。
「多香子が利香に会いたいと言ってる。悪いが、連れて行ってやってくれ」
「……な」
 絶句し、秋野は無意識にカウンターに掌を擦りつけた。年配のバーテンダーと相撲の話をしていた哲がこちらを見ているのを感じたが、眼を向ける余裕はない。
「何ですか、それ」
「ご主人の転職で九州に行くらしい。ご主人は九州の出身らしくて、まあUターンってやつだな。福岡が拠点の会社で、支社があるのは四国までだとか言ってた。だから、もう関東に戻ることはないんだそうだ。それで、最後に顔を見たい、と」
「自分勝手もいいところじゃないですか、そんなの。俺は」
「秋野」
 尾山の声は穏やかだ。困ったように笑う顔が目に浮かび、秋野は目の前のグラスを握りしめた。関節が白く浮き、指の間をグラスの表面の水滴が濡らす。ぎしり、と鳴ったのはグラスだったのか骨だったのか、哲の手が伸びてきて秋野の手から細いグラスを引っこ抜いた。
 思わず哲の顔を見たが、銜え煙草の哲は既に秋野を見ていなかった。秋野の手から救い出したグラスを呷り、バーテンダーとの雑談に戻っている。
「秋野?」
「……はい」
 秋野は首筋を押さえながら天井を見上げた。決して明るすぎないダウンライトが何故か目に痛い。首の後ろに突如現れた強張りがぎりぎりと神経を絞り上げるような錯覚に陥った。
「多香子は何も利香を返せと言ってるんじゃない。あの子はそんな子じゃないよ。お前が一番よく分かってるだろう」
「——そう思ってたこともありましたけどね。随分前の話です」
「そう言うなよ。俺と女房が利香を連れて行ったら、多香子は辛いだろう。それにお前ももう一回会っておいたほうがいいんじゃないのか」
 天井の太い梁。照明と梁が作る影の中に何かが見えはしないかと、秋野は無理に目を凝らした。
「焼けぼっくいに火がついたらどうしてくれるんですか。面倒なことになるのは目に見えてるってのに」
「その可能性はないんだろう。じゃなきゃそんなことを言わないよな、お前は」
「…………」
「燿司も、もう多香子のことはいいんだって言ってるぞ。お前には手のかかる犬がいるらしい」
 溜息を吐いてカウンターに突っ伏す。その寸前、またもや哲の手が伸びて、前髪が入りそうな位置にある灰皿を持っていったのが目の端に見えた。
「それとこれとは」
「別だって言い張るならそれでいいさ。本当に多香子のことはもういいのか、確かめておくのも悪くない。お前はあれだけ苦しんだんだからな」
 優しげな尾山の声に、不意に鼻の奥が痺れたように熱くなった。
 くそ。
 口のなかで呟いたつもりがしっかり耳に届いたとみえ、尾山の笑い声が聞こえた。
「多香子と利香を連れて愛の逃避行をするなら手を貸すぞ」
「勘弁してください」
 唸るように言うと、尾山は笑いながら電話を切った。頭を抱えた秋野の前に新しいグラスと灰皿がそっと置かれる。バーテンダーの節くれだった指の先が、静かに視界から去っていく。
「先帰るぞ」
 哲の声には心配も気遣いも何もない。いつもと変わらない声に、秋野は顔を上げずに頷いた。スツールを下りる音、スニーカーのゴム底が床を擦る音。遠ざかる足音を数えながら、秋野は喉の奥から声を絞り出した。
「哲」
 声が届くか届かないか微妙な距離。それでも哲の足が止まったのが足音で分かった。
 すぐに呼び止めればよかったのにこんな真似をするのはどうしてだ。自分に訊ねてみても確たる理由などないのだから無意味だった。
 新しいグラスの表面につきかけた水滴がガラスを曇らせる。秋野は、紙のコースターに滲む水分をぼんやりと見つめながら口を開いた。
「明後日、時間があったら付き合ってくれ」
 背後からはBGMと、客の笑い声しか聞こえない。
「電話する。頼む」
 哲が歩き去る音がした。返事は一切なかったが、拒否されなかっただけ幸運なのに違いない。
 秋野は煙草を取り出して銜え、フィルターをきつく噛み締めた。

 

「勝手よね。自分のことで精いっぱいで迎えにこようともしなかったのに、もう一回会いたいなんて」
「そうだな」
「はっきり言うのね」
 多香子は悲しそうに微笑んだが、その表情には安堵に近い何かも浮かんでいた。
 ホテルのラウンジはそれなりに客が入っていて、穏やかな音楽と笑い声、囁くような話声に満ちていた。中年の女性客グループ、カップル、親子連れ、会社員。中庭には哲と利香のように子供を遊ばせる親や、手を繋ぐカップルの姿も見える。陽射しが出ているし今日は気温が高いほうだが、それでも利香の頬は真っ赤になっている。
「尾山さんが何でも話してるって知って驚いた。私ね、色々言い訳を考えてたの。私は利香ちゃんの叔母さんよ、とか、従姉妹よ、とか言おうと思って。そしたら会うなりおかあさん、だもの、びっくりしちゃったわ」
「こういうことは、隠してもいつかばれるっていうのが尾山さんの信条らしい」
「秋野」
 名前を呼ばれ、秋野はガラスの向こうから眼の前の女に注意を戻した。
 ティーカップを包む指の細さ。睫毛の長さ。唇の形。
 どれだけ彼女を大切にしていたか。たくさんの女と付き合ったが、愛していると——月並みすぎて陳腐だが——本気で思ったのは多香子だけだった。あの頃の記憶が堰を切ったように蘇り、一瞬で体内を駆け巡った気がして秋野は束の間息を飲んだ。
「色々、ごめんなさい」
 済んだことだ。気にしてない。
 言いかけた言葉を飲み込んで、秋野はまた窓の外に目を戻した。
 利香が哲に飛び付き、哲が苦笑しながら利香を抱き上げる。荷物を持つように片腕で利香を支えた哲が身体を回し、まともに視線がぶつかった。僅かに眇めた目が秋野の視線を捕らえ、あっという間に逸れていく。
 まったく、あれは本当に手厳しい。
 テーブルの上の、口をつけていない紅茶の表面を眺めながら、秋野は思わず苦笑した。吐き出すべきことは今ここで吐き出せと、哲はそう言っているのだ。
「——多香子」
 向き直って真正面から見つめると、多香子は一瞬無防備に秋野を見つめ返した。
「お前との子供が欲しかった」
 多香子が息を呑み、カップの中身がゆらゆら揺れた。
「お前が利香を俺とお前の子にしたいっていうなら、俺は別にそれでもよかったんだ」
「でも」
「お前が消えてから、俺がどんなだったか知らないだろう。会いたかったよ。寂しかったし、辛かったし、自棄になって……今思い出すと恥ずかしくてたまらんよ」
 利香と哲が手を繋ぎ、中庭を突っ切って歩いてくるのがガラスに映る。ウェイトレスが隣のテーブルにケーキを三つ運んできた。多香子の指輪に嵌めこまれたごく小さなダイヤが陽射しを反射してきらきらと光り、そんなことに気付く自分の余裕に少しだけおかしくなった。
 あきの、と利香の声がする。秋野は笑みを浮かべて振り返り、ラウンジの入口の利香に手を振った。
 多香子と利香はあまり似ていない。まったく似ていないと言ってもいい。多分、利香は父親似なのだろう。認めたくなかっただけなのだと不意に悟って、自分の馬鹿さ加減が身に沁みた。
「私のこと、恨んでるよね」
「……嘘吐いても仕方ない。長いこと、恨んでたよ。そういうふうに思うことも辛かった」
 多香子の顔が曇ったが、秋野はそのまま語を継いだ。
「だけど、少しずつ忘れていくもんだ。いつの間にかお前のために割く時間も気持ちも、少なくなったよな。思い出すことも減った。今は、一緒に暮らしてた頃のことをはっきりとは思い出せないよ。まあ、それでも恨み事なら幾らでも言えるけどな。あと二時間はここにいてもらわなきゃならないけど」
「恨み事を何時間も言えるようになったなんて、秋野も歳を取ったわね」
 多香子がからかうように言って微笑み、そんな自分に驚いたように口を噤んだ。ちりちりと胸を刺すのはただの懐かしさなのだろう。冬の控え目な陽射が冷えた指先をあたためるように、無害なものに違いない。
「そうだな。歳も取ったし、変わったよ。——いや、変わったんじゃないのかも知れないな。お前の前では見栄も張ってたし。格好いい、頼りになる男だと思われたかったから」
 多香子の右手にそっと触れる。多香子は秋野の目を見たまま、身じろぎひとつしようとしない。持ち上げた華奢な手を引きよせ、手の甲を自分の頬にゆっくりと押し当てた。
 ひたと秋野を見据える目に、離れていた時間がもたらした変化が確かに見える。多分、多香子にも見えているのだろう。ダージリンのような色。多香子は昔、秋野の目の色をよくそう表現した。どんなに多香子にまいっていても、秋野はついに紅茶という飲み物が好きになれなかった。
「若くて馬鹿だったよな」
「お互いにね。私のほうが救い難い馬鹿だったけど」
 多香子は首を傾げ、やわらかく笑う。多香子の手は温かく、滑らかだった。
「元気でな」
「秋野も」
 秋野が力を抜くと、多香子の手はするりと離れ、元の場所に戻って行った。
 立ち上がった多香子は、秋野を振り返らずに利香の方へ歩み寄る。身体を屈めて利香と何か言葉を交わす。利香がにっこり笑って多香子に何か言っている。秋野からは、多香子の細い背中しか見えなかった。ガラス越しの光が多香子のまわりを少しだけ明るく照らしているように見え、秋野は僅かに目を細めた。
 多香子は結局振り返ることなく立ち去った。呆気ないものだ、と思う。長いこと秋野の中にあったなにかは今、酷く小さくなっていた。いつか、そう遠くない日に、その小さななにかも消えるのかも知れない。そうであってほしいと思いながら、秋野は静かに椅子を引いた。