仕入屋錠前屋61 この出会いに意味など無くとも 2

 猪田が会った頃、哲は一時の荒みっぷりも落ち着いたところだったという。父親が亡くなって祖父と同居を始め、せめて高校だけはまともに出ろという言葉に同意した頃。
 喧嘩はしてはいたらしいが、自分から売るのも危ない相手との喧嘩も止め、出来るだけ何事もなく一年を終えようとつとめていた、そんな時期だった。
 だから猪田は、幸か不幸か、哲が本気で喧嘩をしているところも、本当に切れたところも見たことがない。
 何人かに絡まれてあっという間に勝ってしまう強さを何度かは目にしたが、それはどれも高校生相手のものだ。留年した哲にとっては後輩にあたり、基本的に哲に対して腰が引けている相手との喧嘩など、今思えば程度が知れた。
「おらぁあ!!」
 腹の底からの気合とともに右手が一閃し、木の棒きれが太った男の腹に食い込んだ。
 ボウリング場は、備品がすべて搬出され、レーンだけの姿になっていた。取り外せるものはすべて取り外された娯楽施設は、必要以上に悲しげに見える。小さな古いボウリング場であったが、こうして何もなくしてみるとやたらと広く、寒々しかった。
 フロアの隅に積まれたごみの山から、男の一人が木の棒を拾い上げてきた。しかし、それを構えて哲に殴りかかった張本人はすぐそこの床で大の字になって伸びている。
 男たちと哲が殴り合いを始めてそれほど時間は経っていない。最初は猪田の横に一人がついていたのだが、男の一人がのされたので泡を食って参戦してしまい、猪田はどうしていいか分からないまま、ただその場に突っ立っていた。
 男から失敬した棒で坊主頭の腹を殴った哲は、駆け寄ってきたもう一人の男の襟首を掴むと引き摺りよせ、棒を掴んだ手の甲で男の背中の真ん中を強打した。呻いてくずおれた男を蹴り飛ばし、哲は起き上がろうともがく巨漢に向きなおってその腹に踵を落とした。
「一般人まで巻き込みやがって、いい加減にしやがれこの野郎」
 ふざけて凄む声とはまるで温度の違うそれに、猪田の足は竦んで動かない。
 高い位置にある窓から場違いに華やかなネオンが見える。地面に倒れた太った男の脂ぎった頬に、何とも不似合いなピンクと青の模様が踊った。
 男の太い声も、哲に負けじと張り上げられた。意味を成さない威嚇の声は、映画や何かでヤクザ役が口にするものによく似ていた。
 巨体の割に敏捷な動きで哲の足を払いのけ、跳ね起きるように立ち上がった男が哲の横面を張る。たたらを踏んだ哲はそれでも踏み止まり、獣が唸るような声とともに男に突っ込んだ。
 迫力が違う、と思い、猪田は笑う膝を支えきれずにへたりこんだ。
 太った男の身体の圧力は確かにある。
 しかし、哲が吐き出した何かは、そんなものとは比べ物にならなかった。
「スーツが汚れる」
 低い声に我に返ると、秋野が猪田の二の腕を掴んでいた。
「あ——秋野さん」
「こんばんは」
 壊れた玩具の人形のように簡単に引っ張り上げられて立たされる。どこか気違いじみた哲の気迫にも顔色を変えず、薄い色の眼を眇めて秋野は口元に薄く笑みを浮かべた。
「災難ですね」
「や、ええと、その……」
 思わず秋野の目を見つめてしまい、猪田は慌てて目を逸らした。不自然すぎだと思い直し、再び秋野に目を戻すと、怪訝そうな表情が目に入る。黒い髪に縁取られた鋭い輪郭と、金色にも琥珀色にも見える薄茶の目は、間近で見ると何とも言えない迫力があった。
 秋野は片方の眉を上げて僅かに首を傾げたが、気を取り直したように哲に目を向けた。若い男は胎児のように身体を丸めて床で呻いており、立っているのは哲と坊主頭だけだ。
「やっぱりあれか。懲りない男だ」
「どっちがですか……」
「両方。まったく」
 秋野は酷く億劫そうにそう言って、煙草を銜えて火を点ける。まったく似たところがない二人なのに、その仕草はどうしてか哲と似て見えた。
 時間が経つほど、ひとつ殴打が当たるほどに、明らかに哲が優位に立っていく。男も決してやられるままではないが、インクが紙に滲むように、怯えがうっすらとその顔を覆っていった。
 殴られた哲の鼻から鼻血が滴って唇に垂れる。無意識なのだろう、伝う血液を舌で舐め、哲は吼えた。
 猪田の二の腕にびっしり鳥肌が立ち、うなじの毛が逆立つのを生まれて初めて実感した。獣の咆哮に酷似したそれに、男の眼の中に恐怖が浮かぶ。秋野が金色の瞳を細め、煙草の煙を吐き出す中に低い笑いを忍ばせる。
 男の口元に叩きつけられた木の棒が、ぞっとするような音を立てた。

「なあ、こいつ、今回は誰に引き渡しゃいいんだ?」
 哲はこちらを振り向いて、血のついた棒をぶらぶらさせながらそう言った。
「知らんよ」
「使えねえなあ、おい!」
「それより歯医者に引き渡すべきだと俺は思うよ」
「んー? ああ、折れたな、前歯」
 哲はそう言い放ち、棒きれを男の頭のそばに放り投げて、そこでようやく猪田を見た。
「……怪我してねえか」
「してないよ……立って見てただけし、俺」
「そうか。ならいい」
 突然不機嫌になった哲を量りかね、猪田はただその場に立っていた。哲は秋野の顔を一瞥すると、煙草吸ってくる、と言ってフロアの端へ歩いて行った。ゴミの山の横にある、詰め物が飛び出したボロボロのソファを乱暴に蹴飛ばして移動させる。ソファに腰掛けて煙草を銜え、煙を天井に向けて吐き出した。
「猪田さん」
「え、あ、はい?」
「家まで送りましょうか」
 秋野の低い声はあくまで穏やかで、床に三人の男が転がっているのが見えていないかのように平静だった。
「いや——帰れます、自分で。それより、哲が」
「ああ」
 秋野は哲に目をやって猪田に目を戻し、ふと笑った。
「大丈夫ですよ。怒ってるんじゃないから」
「え」
「あれは、猪田さんが好きなんでしょう。自分の周りには少ない真っ当な人間で、大事な友達だと思ってるから。多分、こういうところを見せるのも嫌だし、巻き込むのも嫌なんだと思いますよ。そういうのは柄じゃないのに、あなた相手だとそうならざるを得ない。だからイラついてるだけで、あなたのせいじゃない」
 古いボウリング場の低い天井の下で、それでも秋野は颯爽として、そしてやはり恐ろしく見えた。頭から食われるなよ、と言った己の忠告は案外的を射ていたのではないかと今更ながら猪田は思う。
 哲は人並み以上に口数が多いわけではないし、他人に理解してもらおうと言葉を尽くすタイプでもない。その哲をこれだけ的確に理解するということは、この人はもしかしてあいつの脳みそを食ってしまったんじゃないか、と頭に浮かんだ怖い想像を猪田は慌てて打ち消した。
「俺は、ただの友達で」
「だからでしょう」
 煙草を持った右手で額を押さえ、俯く哲に目をやった。
 今日から同じクラスに編入するという、噂の佐崎先輩の挨拶。短いがごく普通の、ありふれた言葉。教室の後ろの席に追いやられ、腫れ物に触るような扱いを受けていても、「今までの素行からして、当然じゃねえか」と笑った哲。
 自分は哲にとって、単なる同級生でしかない。それでも、哲が暮らすこういう世界——それを目の当たりにするのは初めてだったが——とごく普通の世界を繋ぐものが自分だとしたら、それはとても誇らしいことなのだと、猪田には思えた。
 高校で同じクラスになっただけ。秋野と哲の濃い繋がりとはまるで違う。それでも、この出会いに意味など無くとも、哲にとって何がしかの価値が自分にあるなら、会えてよかったと素直に思った。
「哲、俺帰るから」
 声をかけると、顔を上げないまま、哲が煙草を持った右手を上げた。秋野に頭を下げ、踵を返す。足元の床に飛び散った誰かの血を避けながら、猪田は何故か微笑んでいた。

「酷い顔だな」
 結局、猪田が帰ってすぐに手配し、急いで男三人を搬出——動かない彼らは正に搬出されていった——して、秋野はようやく哲の前に立った。
 猪田が帰ってからもソファに陣取ったままの哲は、顔を上げて秋野を見た。既に止まってはいるようだったが、鼻血が唇から顎までを赤く染めている。
「うるせえ。失せろ」
「呼んだくせに、よく言うよ」
「あいつがいたからだ。もう用はねえ」
 不機嫌な哲はまるで腹を空かせた野犬のようだ。秋野は哲の顎に手を添え、骨ごと掴んで上を向かせた。哲は歯を剥き、喉の奥から濁った唸りを押し出した。坊主頭がここにいたら、前歯を隠して逃げたに違いない。
「帰る」
 立ち上がった哲の二の腕を掴み、前に進もうとした身体を押しとどめた。
「この」
 左手で顔を掴み、右手で後頭部の髪を掴む。固定された顔を引き寄せ、上唇の上をべろりと舐めた。
「うわ、ちょ、止めろ馬鹿!」
 さすがに驚いたのか声を上げる哲に構わず、鼻の下から顎まで舌を這わせていく。金気臭い血の味は不快だったが、憤懣に息を荒げてもがく哲を押さえつけるのは愉快極まりない。
「この変態」
「どうも」
 血に濡れた舌を喉の奥まで突っ込むと、哲が更に激しく暴れる。頭を押さえていた手をうなじに回し、がっちり固定してやると、哲の唇の端から飲み込み切れずに赤い唾液が零れた。脛を蹴りつけてくる足を払い、かくりと膝が折れたところでソファの上に押し倒す。ずり下がる哲の身体に圧し掛かり、じっくりと時間をかけて口腔内を味わった。
「死ね!!」
 唇が離れた途端哲が喚く。腹に拳を食らい、秋野は咳き込みながらもどうにか笑った。
「まだ死にたくないねえ」
「にやにやしてんじぇねえぞ、この——」
 哲の口が開いたままになり、視線が一点で止まったまま身体が硬直した。振り返ると、顔を真っ赤にした猪田が、哲の携帯を手に持ってボウリング場の入口に立っていた。
「えー、と、その、しばらく行ってから気がついて…………」
「猪田……」
 地獄の使者が発するような声が哲の歯の間から漏れ聞こえる。
「お前——…………」
「ごめん、哲!! でもほらっ、鼻血拭いてっていうか舐めてもらって顔がきれいになってよかっ……」
「どいつもこいつも今すぐ消えろ、くそったれ!!!」
 がらんとしたボウリング場に、哲の怒声が響き渡った。