仕入屋錠前屋61 この出会いに意味など無くとも 1

「哲?」
 こちらが何か言う前に発音されたその言葉は、確かに友人の名前のはずだ。呼び慣れた二音、実際自分もつい今しがたまでその名前を口に出していた。
 それなのに、まったく違う言葉のように耳に響くと感じ、何故か心許なくなった猪田は空いた指の先で箸置きを数度つついた。
「あ、えーと、佐崎哲の携帯ですが」
「ああ」
 柔らかい雰囲気の、けれども底になにかを沈めたような声。何とも表現し難いが、低い深みのある声が、特に驚くこともなく語を継いだ。
「——尾山と言いますが」
 液晶には番号しか表示されていなかったから、相手の名前は分からない。オヤマ、という苗字にも心当たりはなかったが、何となく頭に浮かぶ顔がある。
「あいつ今店の外に煙草買いに行ってて……居酒屋にいるんです。電話させますね」
「いや、急ぐ用じゃありませんから」
「……アキノさん、ですか」
 言った途端、耳に押し当てられていた物体が突然消え、聞こえていたはずの声もどこかに消えた。
「切っちまえ」
 携帯は、座っていた猪田の背後に立つ哲の手に収まっていた。煙草のパッケージを持った哲は、猪田から取り上げた携帯を睨みつける。
「いいのかよ」
「何が」
「電話。いきなり切るなんて失礼だと思うけど」
「いいんだよ。あの野郎にはこのくらいの失礼、屁でもねえ」
「……ふうん」
「何だよ」
 顔をしかめながら、哲はだらしない格好で椅子に腰掛けた。買ってきたばかりの煙草のパッケージを開けて一本銜える。哲は銜え煙草のまま、携帯をジーンズの尻ポケットに突っ込んだ。
 ビールのお代わりを運んできた店員が枝豆の皿を下げ、魚のすり身の揚げたのを置いていく。揚げ物から上がる細い湯気の向こう、哲の顔はいつもと何も変わらなかった。
「なあ、哲」
「熱いうちに食え」
「うん、食うけどさ。さっきの電話」
「もうかかってこねえよ。食えって」
「だから食うって」
「…………」
「哲らしくない」
 揚げ物の横に添えられていたかいわれ大根を摘みながら言ってみる。哲が灰皿の縁にこすりつけていた煙草の先が一瞬ぶれ、大きく、長い溜息がテーブルの上に吐き出された。

 

 猪田が、哲と親しい「秋野」という人物を実際に見たのは二回。どちらも短時間のことである。
 年齢は哲や猪田より幾つか上、恐らく三十代の前半から半ばくらいだろう。背が高く、無駄な肉が見当たらない細身の体に小さい頭が乗っている。プロポーションだけでなく、その瞳の色からも混血なのだろうと見当がつく彼は、整った顔立ちの男前だ。
 彼を目にした瞬間、モデルかな、と思った。そして、如才ない、やわらかくさえあるその態度の向こうに何か酷く怖いものが隠れているような、そんな気がしたのを今でもはっきり覚えている。
 哲とはよく一緒にいるようだったが、哲の様子を見るとべったりというのでもないらしい。仲がいいというよりは、用事があるときだけ顔を合わせているというほうが正確なのではないかと思ったし、だからあのとき、二人を見ても嫌悪感が湧かなかったのかもしれなかった。
 従兄弟の勤めるレストランに食事に行った夜。巻き込まれてしまった揉め事を収めるのに席を立った哲は、なかなか戻ってこなかった。暫く従兄弟と話をし、いい加減待ちくたびれて様子を見に店を出た。道路を渡り、人気のない路地が入り組んだあたりを探してみると、男と言い争っていた綺麗な女性が、秋野という人が好きだと言って泣いていた。
 立ち聞きする気はなかったが、声をかけそびれ、成り行きを見守ったまま突っ立っていた。ようやく女性と、話の内容からして彼女の兄らしき人がレストランへ戻って行く。今度こそ声をかけようとしたら、突然それが始まったのだ。
 まるで、噛み付き合ってじゃれている犬を見ているようだ、と思った。しかし実際のところそれが男同士のキスであるのは疑いようがなく、猪田の知る限りそういう意味合いにおいては男には一切興味がない哲が何故そんな行為を——喜んではいないにしても——受け入れているのか、訊いてみたくないわけはない。
 あれから散々逃げられ避けられ、ようやく観念した哲と飲みに行くことになった。それでも哲は往生際悪く足掻いていたのだが、いい加減逃げられないと悟ってくれたらしかった。
 煙草の灰を灰皿で払い、哲はしかめ面を猪田に向けた。口の端に銜えた煙草は二本目だ。猪田がジョッキのビールを三分の一空け、すり身の揚げ物を二つと鰹のたたきを三枚食べる間に黙って一本目を吸い切った哲は、物も言わずに二本目に火を点けたのだ。
「……で」
「でって、何」
「何が訊きてえんだよ」
「何がって……訊いたら教えてくれる気になったのかよ」
 哲は眉を寄せ、銜え煙草のまま不機嫌に言った。
「お前、案外しつこいからな。仕方ねえだろ、一生逃げ回るわけにはいかねえんだし」
「そうだけど。食わないの? 美味いよ、これ」
「食えよ、サラリーマン。仕事で疲れてんだろ」
「そんなの、お前だって一緒だろ」
「こんな話題、食欲も失せるだろうが」
「なあ、秋野さんと付き合ってんの」
「……お前が言うのが女と付き合うのと同じ意味なら、付き合ってねえよ」
 哲は珍しく猪田から目を逸らし、所在なさげに指先でテーブルを叩いた。間三年くらいが抜けているが、哲との付き合いはそれなりに長い。しかし、こんな哲はあまり目にした覚えがなかった。
「じゃあ」
「寝てんのかって訊きたいなら、その通り。あの馬鹿と寝てる。くそ」
 吐き捨て、哲は顎を上げて天井を睨んだ。
 猪田は思わず箸を置いて哲を見つめた。あれから想像する時間はたっぷりあったし、お互いもう子供ではない。だから驚いたのは哲の答えにではなく、その表情に、だった。
 寄せた眉の下の目は相変わらずの鋭さで、だが、どことなく弱さが見える気がした。本当に言いたくなかったのだというのが伝わってきて、興味本位で訊ねたことを猛烈に後悔した。
 ジョッキについた水滴がひとつ流れ落ちてテーブルに届き、水たまりを作る。猪田は無意識に掴んだおしぼりで手元を見ずにジョッキの底を拭きながら、哲がゆっくりと顔を戻すのを見守っていた。
「哲……ごめん」
「何でお前が謝るんだよ」
「いや……、だってさ」
 おしぼりを渾身の力を込めて握り締めていることに気付いたのは、哲が苦笑しながら猪田の手からおしぼりを引き抜いた時だった。
「別にあの野郎を好きってわけじゃねえし、言ってもわかんねえだろうけど、寝るのも勢いっつーか、喧嘩みてえなもんで……って、言い訳か、これ」
 何も答えることができずにただ哲の顔を見つめる猪田に、哲は一瞬困ったような顔をした。いらっしゃいませ、という威勢のいい声の後、数組の客が立て続けに入ってきた。外の風が一瞬吹き込み、哲の髪を僅かに揺らす。哲と猪田のテーブルの脇を、サラリーマンの二人連れが何か言い合って笑いながら通り過ぎた。
「——あのな、分かってると思うけどよ、俺の友達とか知り合いってのは、大体がろくでもない奴なわけ」
 口を開いた哲の声は低く、どこか酷く真剣だった。
「…………」
「お前はだから、なんつーの? すげえ、いい意味で普通で——勿体ねえのな、俺には。そういう奴には知られたくなかったって……まあ、単なる見栄だ」
 不覚にも、鼻の奥がつんとした。哲にこんなことを言わせる気はなかったのに。あまりにも軽々しい自分の質問を取り返してシュレッダーに叩きこんでやりたくなった。
 哲は銜え煙草のまま頬を歪め、椅子の背に身体を預けて猪田を見た。男臭いその顔と仕草が、何となく胸に迫る。こみ上げるものを誤魔化そうと、猪田はビールを一口飲んだ。
 哲が恋愛ではないというならそうなのだろう。それでもあの人と寝ているというのなら、哲には哲なりの理由と欲求があるのだろう。それをどうこういう気は猪田にはまったくないし、その事実のせいで哲を見る目が変わることはないと、どうしても伝えたかった。
「哲、俺さ」
「ああ、お前っ!?」
 サラリーマンの次に入ってきた客の一人がテーブルの横で大声を上げた。居酒屋の喧噪がボタンを押したかのように一瞬で止まり、妙な静寂が店の中をいっぱいにした。テーブルの脇に立つでかい男は仁王立ちで哲を見下ろしている。哲は男を横目で一瞥し、すぐに猪田に目を戻した。
「お前と飯食ってると、どうもろくなことがねえなあ」
「……哲の人徳じゃねえ?」
「うるせえ」
 立ち上がりながら笑う哲の笑顔は、猪田が見たこともないくらい凶暴な色を見せていた。

 

 坊主頭の男と哲の関係はよく分からない。詳細を訪ねる前に、哲ごと車に乗せられてしまったからだ。

 居酒屋に客として現れた男は、坊主頭で顎が四角く、目が細い。太った身体はただの肥満というよりは、テレビに出てくるプロレスラーか柔道家のようで、いかにも悪そうな顔と相まって、悪人でございますと書いた看板を背負っているように見えた。
 男には二人のチンピラ風の連れがいたが、そのうち一人がどこかから車を持ってきた。外に出ろと喚く男に「はいはい、ただいま」と呑気に返し、きちんとレジでお金を払って、哲は店の外に出て行った。お前はここにいろと言われたが、はいそうですかと座っているわけにはいかない。そう思って後について行ったら一緒に車に押し込まれたというわけだ。
「あんたの組ってどこだったけ?」
 走る車の中で、哲がのんびりと言った台詞に猪田は座ったまま固まった。組。組と言ったらこの場合、学校のクラスとは絶対に違う。助手席の男が身体を強張らせ、肩越しに哲を睨みつける。そのご面相たるやお寺の門を守る木像なみだったが、哲はと言えばまるで小学生でも見るような顔をしていた。
「ああ、そう。かわいそうになあ、結局おっぽりだされたのか」
「……うるせぇ……」
「そりゃあ関係ない俺に八当たりもしたくなるわな。けど仕方ねえんじゃねえの、上に黙って得物使ったのはあんたなんだし、あんたみたいな下っ端一人のために北沢との関係悪くしてもなあ、組のためになんねえもんなあ」
 哲の台詞に顔を見る見る真っ赤にした男は、数度口をぱくぱくさせたが結局何も言わずに前を向いた。言わなかったのではなく、適切な言葉が思いつかなかっただけかも知れない。
 車は五分くらい走って止まった。遠いからではなく、逃がしたくないから車を使ったのだろう。
「おら、降りろ、こらぁ」
 語尾がだらしなく伸びるのが威圧的だと勘違いしたチンピラがそう言って哲の肩を押す。哲は大人しく車から降り、眼の前の建物にかかる、電気の消えた看板を見上げた。
「へえ、来月取り壊すボウリング場ね」
 哲は大声でいいながらポケットに手を突っ込み、猪田の身体を自分の背に庇うようにしつつ、猪田のポケットに自分の携帯を放り込んだ。
「……哲」
「電源入ってっから、そのまましとけ。そのうち来る」
 低い声は、猪田にしか届かない音量だった。どうやら通話状態にあるらしい哲の携帯を指先で確かめながらその顔を見返すと、哲は何故か嫌そうな表情で溜息を吐いた。
「お前がいなきゃ呼びゃしねえんだけどよ……仕方ねえ」