仕入屋錠前屋60 パートナー 4

「どこ行くんだよ」
 バイト先の裏口で煙草を吸っていたら、いつもの通りふらりと現れた秋野に、バイトが上がったら飯を食いに行かないかと誘われた。別に教えたわけでもないのに、早く上がる日だというのはとっくに知っているらしかった。
 どうせいつものラーメン屋か定食屋だろうと思っていたら、秋野が足を向けた方向はそのどちらとも違っていた。サークルの飲み会なのだろうか、大学生らしい大人数がチェーン店の居酒屋前でたむろしている。狭い路地のような通りには人が溢れ、どこもかしこも昼間のように明るい。対照的に、建物と建物の隙間には何が潜んでいるか分からない暗闇が澱んでいた。
「おい」
「もうすぐ着く」
 秋野は肩越しに振り返り、哲に不機嫌な一瞥をくれた。吐き捨てるように言って煙草を取り出したが、一瞬手を止め舌打ちし、乱暴にコートのポケットに突っ込んだ。
「お前なあ」
 追いつき、隣に並んで、秋野の手ごと煙草の箱を引っ張り出す。秋野がきつく握り締めるパッケージから一本引き抜き、哲は僅かに曲がり気味の煙草を銜えて通行人を避け、道の端まで歩いた。おかまバーと書いてあるのに、中年の髭の男が呼び込みをしている店の前で立ち止まり、火を点けた。
「ほら、吸え。カリカリしてんな、落ち着け、年寄り」
 一口吸いつけ、煙を吐き出しながら秋野の口に煙草を突っ込む。秋野は嫌そうに顔をしかめたが、結局右手の人差指と中指の間でしっかり支え、深く吸い込み、溜息と煙を同時に吐いた。
「あらぁ、アキちゃん元気」
「——ああ」
 髭の生えた中年男の呼び込みが、何故か女言葉で声をかけてきた。思わず一歩後ずさる哲ににんまり笑い、秋野にもう一度目を向けると「今日はご機嫌ななめねえ」と歌うように言いながら、男は店の中へ引っ込んだ。
「中華の店だ。嫌いじゃないだろ」
「何だって食うけどよ。俺が訊いてんのはそういうことじゃねえよ。分かってんだろうが」
「この間のな、エリの友達いたろ」
「みづき?」
「ああ」
 秋野は顔をしかめ、空に向かって煙を吐きだした。
「あの子の彼氏、そろそろやばそうだ」
「やばいって、何が」
 周囲には聞き耳を立てていそうな人間は誰もいなかったが、秋野は哲に近寄り、声を潜めた。
「仕事仲間に売ってたみたいなんだが、買った奴が出会い系サイトで知り合った女子高生と使ったらしい。女の子は、身体に合わなかったんだろうな。結局途中で具合が悪くなって、心配になった男と暫くホテルで休んだ後、もう一遍会う約束をして別れた。女の子は男のことをどうこうしようと思ったわけじゃないが、不用心にもその話をSNSに投稿した。偶然警察の目にとまったらしくてな、女子高生は事情を聴かれてる。芋づる式にみづきの彼氏が挙げられるのは時間の問題だろう」
「で、中華料理屋には誰がいるんだよ。みづきの彼氏か」
「……いや」
「じゃあ、誰よ。その不機嫌面はどっから来んだ」
「チハルだ」
「は?」
 予想外の名前に、哲は思わず間抜けな声を上げた。チハルと言えば、哲を拉致してナイフをつきつけた、あのきれいな顔の男のことだ。どこか子供じみた憧れと嫉妬で秋野を嫌う、近野千晴という男。
「あいつが薬を流してる。みづきの彼氏は直接チハルと取引してるわけじゃないがな。俺はあいつが嫌いだし、関わりたくもない。ヤクザと揉め事を起こそうがどうしようが知らん。あいつは日本国籍を持った日本人だ。俺たちが捕まるのとはわけが違う」
「秋野」
 低く掠れた早口で話し続けていた秋野は、哲に名前を呼ばれて口を噤んだ。さっきまで居酒屋の前にいた学生集団がこちらに向かって歩いてくる。楽しげなお喋り。ほろ酔いの男子学生が調子っぱずれの歌を歌い、仲間に頭を叩かれておどけて見せた。
 そういえば明日、酒井の講義休講だって。やった!
 楽しそうな声が遠ざかっていくのを、哲はぼんやりと聞いていた。哲は欲しくなかったから望まなかった、それだけのああいう生活。秋野は、望むべくもなかったのだ。
「——チハルが捕まると、悲しむ年寄りがいる。あの馬鹿のためじゃなく、その人のために忠告だけはしておきたい。俺が電話をかけても出ないからな、知り合いに呼び出してもらってる。その男と直に繋がっていなくても用心に越したことはないし、今ならまだ間に合うだろ」
 大学生に視線を向けながら、秋野は低く呟いた。集団が通り過ぎ、秋野の視線が哲の顔の上に戻ってくる。刃物で撫でられたように寒気が走り、哲は大きく舌打ちした。
「……まったく、俺には理解できねえ」
「どこが? 売春? ドラッグ? それともSNS?」
「違う」
 哲は、ブッテロだか何だかいうブランドの秋野のブーツの爪先を踏みつけた。
「そういうのにいちいち傷つくてめえの神経が」
 秋野は笑いかけたが、うまく誤魔化せなかったと見えた。立ち上る紫煙が、口元を歪めたまま凍りついた秋野の顔を薄らと覆う。揺れる前髪の間から覗く薄茶の瞳が眇められ、歯を食いしばった顎の線が硬くなった。
「優しいのもほどほどにしとけ。自分でそうは思ってねえんだろうが、いちいち自分の痛みにしてたらお前、そのうち気が違っちまうぞ」
 スニーカーの薄い底を通し、秋野が身じろぎしたのが伝わってきた。
 溺れかけ、沈みながら縋りつく人間を振り払い、一人生き残る冷たさと強さ。確かにそれを持っていながら、同時に秋野は他人への優しさを失くさない。相手が誰かれ構わず発揮されるものではないにしろ、主に社会的弱者に向けられる秋野の優しさは、自身の生い立ちと無関係ではないのだろう。
 今となって思い出せば、ずっと以前、手錠が取れなくなった女のために金を払った行為もそういうことだったのだと腑に落ちた。あの頃は女に優しいだけかと思っていたが、母と同郷のあの女に、秋野は母親の苦労と己の苦境を見たのか、と想像できる。それは複雑な内面を抱えた秋野の特に人間らしい一面だったが、哲と違って秋野は人の痛みを理解する分、身に応えるのではないかと思うのだ。
「で、何で俺が行かなきゃなんねえんだ」
 秋野は哲のスニーカーの下からブーツを引き抜くと、苛立たしげに煙草を吸いつけた。忙しなく吸い切り、足元に落して靴底で踏みにじる。険しい色を湛えた眼が底光りしているようで、哲の首筋の気が逆立った。金色の斑点がネオンを反射し、虹彩より一段暗い金色に煌めくのが怖いくらいに美しい。
「——居て欲しいから。それだけだ」
 吐き捨てるように言い、秋野は吸殻をそのままに哲に背を向けた。哲は、人ごみより頭一つ高い長身の男の背を眺めた。
 ただ優しいだけの人間に興味はなかった。ただ心地よく、温かい関係にも。
 耀司と真菜のように、愛し合い、それよりも信頼し合える関係に羨望を抱かないと言えば多分嘘になる。およそ他人に無関心な自分であるが、好きだった女とそうなれればいいと願ったことも人並みにあった。だが、今となってはそれも遠い感情で、夫婦とか、恋人という名を冠することで型に嵌められる、それが厭わしいと思ってしまう。
 何があっても彼の味方をすると言い切ったみづき。
 信頼なのか、自己満足なのか、寄り掛かっているのか、それとも甘やかしているだけなのか。耀司と真菜の関係とはまた違うそれは、パートナーのあり方として正しくないのかも知れない。本当に、何があっても男の味方につけるのか、みづきはこれから自問自答することになるのだろう。
 振り返らず歩を進める秋野をひとつ睨みつけ、溜息を吐く。無残な姿になった吸殻を拾い上げ、ポケットから取り出した携帯灰皿に突っ込むと、哲は秋野の背を追って歩き始めた。
 傍に居て欲しいと吐き捨てる、秋野の本心はどこにある。甘えか、依存か。
 他の人間なら——例えばみづきなら——ありそうなそれらの理由は、哲の頭に浮かぶ端から消えていく。そんなふうに求められているのだとしたら、多分、自分の足が秋野の背を追うことはないはずだ。
「居て欲しいから、って何だそりゃ。俺は保護者か」
 毒づきながら、哲はポケットに手を突っ込み、人の流れに逆らって歩を速めた。背筋の伸びた長身に追いつき、横に並んで長い脛を蹴っ飛ばす。
「奢りだろうな」
 見下ろす秋野の強張った頬が徐々に緩む。
「どうして?」
「俺は千晴とかいう奴に恨めしげに睨まれんだからな、その分てめえが埋め合わせろよ」
「はいはい、何でも殿の仰せのままに」
「抜かせ、くそったれ。その二枚舌を引っこ抜いてやる」
 ザーサイと白髪葱、小龍包、春巻、回鍋肉に蟹炒飯、呪文のように呟く哲の目を見つめ、秋野は一瞬、酷く無防備な笑顔を見せた。
「……お前、そういう気の抜けた面は女にでも見せろ、みっともねえな」
 一瞬胸をつかれたのは、一体何故か分からない。顔をしかめた哲から目を逸らし、秋野は細い路地に入っていく。雑居ビルが隙間なく立つ暗い路地に、秋野の低く深い声が落ちる。
「なあ、哲」
「ああ?」
「多分、お前の前にいるときが一番みっともないんだよ、俺は」
 酷く静かな秋野の声。晩秋の冷たい風が、哲の頬を撫で、秋野の声をさらうように吹き抜けた。