仕入屋錠前屋60 パートナー 3

 みづき、というのはてっきり通称だと思っていたら、本名なのだという。しかし、本当は「づ」ではなく「ず」の「みずき」で、苗字なのだと聞いて納得した。
 エリの描写の通り、細くて、小さくて、白い。
 通称みづき、本名水木智一はどこからどう見ても女に見えた。
「……こんばんは」
 細い声は、声変わりしたことがないのかと思うほど高く、首も細い。確かに、生まれる時に性別を間違ってしまったというエリの台詞ももっともだ。
「どうも」
「でかいのがいてごめんねえ」
「お前に言われたくないよ、勝」
 秋野が不機嫌に返す。
「なによぉ、いいじゃないのさっ」
 秋野をばしばし叩くエリを見て僅かに微笑み、みづきはどうぞ、と三人を室内へ促した。

 みづき本人から依頼があれば手提げ金庫を開けてやる。
 そう言い残してエリと別れたのは一週間と少し前だ。エリの話を聞いた限りでは本当に連絡が来るとは思わなかったから驚いた。おまけに待ち合わせ場所に行ったら秋野がいて、何故か同行するというから一瞬帰ろうかと思ったが、約束した以上は断るわけにも行かなかった。
 結局でかい男——うち一人は、心は女——三人揃って、みづきの住む新築マンションにお邪魔する運びとなったのである。
「みづき、彼氏、今日は遅いの?」
「今日は泊まりなの。なんか出張とか……」
「彼は、仕事は何を?」
 秋野が僅かに身を屈め、やわらかく訊くと、みづきの耳がさっと赤くなった。こいつのフェロモンは男にも効くらしい。まあ、男と言ってもみづきは殆ど女だが。
 件のフェロモンの影響を受けた試しがない哲は呆れ半分、感心半分でみづきの横顔に目をやった。
「えーと……営業? っていうか、企画……っていうか……その、イベント会社とかで、あとたまにタレント発掘みたいな、プランナーっていうか」
 あまりにも歯切れが悪く要領を得ない説明から男の職業はよく分からないが、要するにまともな仕事ではないのだろう。秋野はそうは言わず、黙って頷いた。何も言われなかったことに拍子抜けしたのか、みづきが戸惑った顔をする。まるっきり分かっていないわけではないのだと、細い顎を見ながら哲は思った。
「ほら、突っ立ってないで」
 入口からは予想外の広さのリビングに、エリは残る三人を誘導した。新築だけあって洒落ているし、内装の趣味は悪くない。ばかでかいソファは白い布張りで、あっという間に汚れてしまいそうな代物だ。
「すっごいでしょ? 広くて、きれいで。羨ましいわあ」
「父が、結構大きな会社をやってて」
 みづきはエリに微笑みかけ、哲と秋野を交互に見た。
「私がこんななの、父も母も自分たちのせいだと思ってるの。罪滅ぼしなのか、家があれば女の子のお嫁さんをもらう気になってくれると思ったのか——分からないけど」
 エリがみづきの腕をそっと掴む。エリがみづきを気遣っているのはよく分かった。同じ性癖を持ってはいるが、エリとみづきの外見はまるで違う。みづきを心底から思いやるエリに、ひとかけらの劣等感もないはずはない。ないはずはないが、それが瑣末なことになってしまうところに、エリの人間性が表れているようだった。
「座って座って!! はい、秋野はそこ、てっちゃんはそこね」
 まるで自分の家のように皆を案内し、座る場所まで決めていく。みづきはそうされるのに慣れているのかにこにこするばかり。エリはお茶まで淹れてきて、ソファに座ると「さて」と身を乗り出した。
「で、金庫だけど」
「うん」
 みづきは頷いて、エリが淹れたハーブティーを一口飲んだ。ハーブのものらしい、草っぽい、妙に青臭い匂いが部屋に充満し、哲はげんなりして眉を寄せた。
「私はね、彼のお金が入ってると思ってたの。あんなに大事にしてるんだし。それなら私がとやかく言うことじゃないでしょう。幾ら持っていたって、私のじゃないんだから」
 金持ちの家の子供らしい鷹揚さに、エリが眉を下げて溜息を吐いた。
「でも、何かこの間、彼が開け閉めしてる時にちらっと見えちゃって。あれ、お金じゃないと思うのね。そしたらエリちゃんに言われた通り、見ておいたほうがいいのかなあとか、思えてきて。でも、プライバシーは親しくたって必要なんだし、まだ迷ってるのは本当」
「そうなの」
「うん」
 みづきはふんわりと微笑む。事前に聞いていなければまったく分からないほど、みづきには男性らしさが欠如していた。それはみづきにとって良いことなのかどうか、哲にはまったく判断できなかったが。
「で、中を見て、何かやばいものだったらあんたはどうするつもりなんだ」
 哲が言うと、みづきは困ったように微笑んだ。小さな顔を縁取る緩いパーマのかかった髪。白い顔に配置された目鼻はどれも整った形をしている。男の頃は、女にもてたに違いない。
「うーん、どうしようかなあ」
「あのね」
 エリが眉間に深い皺を寄せたまま秋野に視線を向け、またみづきに目を戻した。
「彼の知り合いがね、薬を売ってるの」
 みづきはぴんとこなかったらしく、ドラッグストア? と呟いた。こういう商売をしてはいるが、基本的に育ちがいいのだろう。
「じゃなくて、もう、やあねえ、法律違反の薬よ。ドラッグよ!」
「ああ」
 ぱちぱちと瞬きし、ようやく合点がいったように頷く。ハーブティーのカップをガラスのテーブルにそっと置き、みづきは膝の上に手を置いた。
「私にそういう話をするってことは、光司も関係してるってこと?」
 黙っていた秋野がソファの上で僅かに身じろいだ。みづきはエリの顔を見ていたが、哲は気配につられ、秋野に視線を移した。目が合い、秋野の右の眉が僅かに上がる。ハーブティーに似た琥珀色の虹彩は一瞬きらめき、すぐにみづきに向けられた。
「俺の知人で、そういうことに手を出してる人間がいるんですが」
 エリの目配せで秋野が話し出す。低い声には感情を抑制している不自然さがあったが、みづきのように初対面の人間には、穏やかで感じがよく聞こえるだろう。
「そいつは、若者向けのドラッグを顧客に売る。顧客は友達に売ったり分けたりしてもいい。大量には買えないから、怖いお兄さんたちに目を付けられることもない。顧客はそこそこ裕福な大人ばかりで、所謂ジャンキーはいない。もっとも、今後使い続ければどうなるかは自明ですが」
 秋野の低い声が、語尾のほんの僅かだけ、掠れて消える。そんな些細なことに気がついた自分に顔をしかめ、哲はソファに深く身を沈めた。無性に煙草が吸いたくなったが、テーブルの上に灰皿は置いていなかった。
「光司さんは、その知人と付き合いがある。金庫の中身は多分お金じゃない」
「彼」
 みづきが顔を俯けると、緩いパーマの髪が頬にかかった。男として生まれたことが間違い以外の何物でもないと、すべての人に思わせる人間。両親がどういう思いでマンションを買い与えたか知らないが——哲はやたらとふかふかするソファに沈みながら考えた。みづきにとっては、女でいることが幸せに違いない。
「他にも付き合ってる人が……女の人がいるんじゃないかって、エリちゃんと金庫の話したら急に不安になって」
「みづき」
 エリの心配そうな声に目を上げ、みづきはちらりと微笑んだ。
「最近、出張がすごく多いの。何となく上の空だし。でもね、いつかはそうなるの、最初から分かってるもの。結婚したいなんて、男の私に本気だなんて、そんなふうに思えるほど世間知らずじゃないよ。でもやっぱり悲しくて……だから、金庫の中、きっと相手との写真とか、プレゼントし合ったものとか——そういうものが入ってるんだと思ったの」
「だから急に見たいって」
「うん」
 こういう話は苦手だった。哲の眉間には自然と皺が寄ったが、みづきの話に胸を痛める顔に見えるのだろう。エリが哲に目を向け、たちまち涙目になる。
 何て可哀相なの! ね、そう思うでしょう?
 とんでもない、走ってこの場から逃げ出したい、今はそれしか考えていない。可哀相だとは思うのだが、感情移入はできない。感受性のなさは生まれつきである。
「だから、金庫の中身が薬なら、見なくていい」
 きっぱりと言ったみづきは、真っ直ぐ秋野に目を向けた。エリがちょっと、と呟いたが、みづきはにっこり微笑み、膝の上の手を組み合わせて握り締めた。
「いいの、エリちゃん。私、光司が好きなの」
 秋野が僅かに首を傾げると、前髪が揺れた。頬骨にかかる黒い毛先が、瞳に幾筋もの影を落とす。みづきは一瞬気圧されたように目を伏せ、そしてまた真正面から秋野を見た。
「馬鹿ですよね。分かってます。光司がろくな男じゃないのは分かってるけど、でも——」
 口を噤んだみづきを囲んで、エリも秋野も黙りこんでいた。沈黙に耐えられず哲が吐いた小さな溜息が、はからずもみづきの背中を押したようだった。
「でも、それでもいいの。私だけは、何があっても彼の味方です」