仕入屋錠前屋60 パートナー 2

「結婚詐欺ぃ?」
 哲が上げた声に、んもう、とエリの大きな声がかぶさった。
「誤解しないでよね、あたしが引っかかったわけじゃないわよ!」
 エリが、頼みがあるという電話をかけて来たのは二時間ほど前のことだ。哲のバイトが休みなのは、秋野か耀司に聞いたのだろう。たまには二人で飲みに行かないか、という誘いに欠伸で返すと、エリは電話の向こうで苦笑した。そうして少し黙った後、お願いしたいことがあると言い出したのだ。
 指定されたのは、秋野の知り合いがやっているとかいう小さなバー。半白髪の、寿司職人のような風体のバーテンダーが今日も一所懸命カウンターを磨いていた。
 隣のスツールに座るエリは、一昨日とはまるで違う。
 どちらかというと今日のいで立ちの方が異常なのだが、慣れというのは怖いもので、似合わない化粧と女物の服を身に纏ったエリこそ、哲にとっては普段のエリだ。
 グレーと黒のボーダーニットワンピースに白いボアのパーカーを着て、足元はムートンブーツ。黒いスパッツに包まれた脚は些か逞し過ぎ、思わずそれを指摘するとスパッツではなくレギンスというのだと、おかしなところで説教された。
「うちのお店の子でみづきっていう子がいるのね。あたしとは違って、神様が性別ラベルを貼り間違えたような子よ」
「そんなラベルがあんのか」
「知らないわよ」
「俺のは合ってんだろうな」
「てっちゃんの場合は人間と獣の鑑札を間違えたっぽいけどねえ。オスはオスだから」
「吠えるぞ」
「ちゃんと聞いてくれないと保健所呼ぶわよ。それでねっ、そのみづきが!」
 どっちがどう話を迷わせているかには触れず、エリは哲の膝頭をばしりと叩いた。
「痛っ」
「悪い男に引っかかっちゃったのよ……っていうか、私たちは、あれは結婚詐欺まがいじゃないかと思うわけね」
 エリが左手に持った中南海の煙の筋が、哲の鼻先をゆったりと流れていく。
「私たちって?」
「アイーダのみんな。みづき以外全員」
 哲は、大人しそうなママの顔をぼんやりと思い浮かべた。エリの勤務先であるゲイバーアイーダには何度か訪れたことがあるが、みづきという女——というか男——に覚えはない。見透かしたような顔をしてちょっと笑い、エリは流れた煙を手で払った。
「覚えてないんでしょ。期待してないわ。みづきはね、白くて細くてちっちゃくて、存在感がないくらい儚げで、多分本物の女の子でもてっちゃんが興味持ちそうにないタイプ。でも男の人にはそういうのもてるのよ」
「ああ、まあ、そうよな」
「でね、もう本当にいい子なの。みんなあの子が好きなのよ。だから、騙されてるんじゃないかと思うと気が気じゃなくて」
「で、お願いって?」
 水滴のついたグラスの表面に指先を滑らせて長方形を描きながら尋ねた。続けているとエリが覗きこみ、何それ、と訊いてくる。エリの顔を指差すと、平手で思いっきり腿を叩かれた。
「いってえ!!」
「失礼しちゃうわっ」
 頬をふくらませ、エリはグラスの中身を呷る。なかなか似ていると思ったのだが、睨まれたので掌で拭って消した。エリは鼻を鳴らして煙草を吸いつけ、穂先を灰皿に押し付けた。
「あのね、みづきは今男と住んでんの。っていうか、男がみづきのとこに転がりこんでるのよ。籍入れようって話もしてるって。でもね、家賃光熱費食費はみづき持ち。そこだけでも腹が立つっていうのよね」
「甲斐性のねえやつだ」
「んもう、親父臭いわねえ、その表現。で、男が持ち込んでる私物の中に手提げ金庫があるんだって」
「はあ」
 気の抜けた声を出す哲に、エリは非難がましい目を向けた。話の内容はもう分かったが、遮るのも面倒なので肩を竦めて続きを促す。エリは二色のグラデーションになった爪で吸殻を転がした。人差指の爪にはきらきら光る石がついている。
「絶対触るな、って言うんだって。みづきが掃除するのに避けただけで物凄い剣幕だったっていうのよ。絶対やばいものが入ってるに違いないわ」
「で?」
「……だから」
 エリは哲より背が高い。スツールに座っていてもそれは同じだ。見下ろしながら上目遣いをするという器用なことをやってのけるのは、やはり商売柄かもしれない。
「一緒にみづきの部屋に行って、金庫を開けて欲しいのよ」
「それはあれか、みづきって子は了解済みか」
「そりゃそうよ。みづきがいないのにどうやって部屋に入るの? 幾らなんでも勝手に入ったりしないわ。友達の家に」
 本気でむっとしたらしいエリに片眉を上げて見せると、エリは煙草の箱に手をやった。取り出すのかと思いきや、箱をいじるだけで煙草は取り出さない。うつむいた横顔は相変わらずいかついが、何となく女くさかった。
「悪ぃけど、断るわ」
「……って言われると思った」
 爪の先で眼尻を拭うエリに、哲は思わず低く呻いた。
「あのなあ」
「分かってるわよ。ご想像の通り、みづきは全然乗り気じゃない。彼がろくでなしでもいいんだって」
「そんなら」
「だけどね、てっちゃん」
 エリは、多分無意識に、煙草の箱を握り潰した。きれいな色の、きらきら光る長い爪。装いは女、心も女、しかし怒りの発露の仕方は男のものだ。指摘するまでもなく分かっているのがエリだったから、哲は敢えて煙草の箱から目を逸らした。
「あたしたちにとっては結婚って、見果てぬ夢なの。今はだいぶ変わったわ。でも、日本全国どこでも同性婚できるわけでもない。世間体だってある。籍入れるって言っても、養子縁組がせいぜいなのよ。でも、それでもそこまでしてくれる男はそういないわ。そういうことを持ち出して騙されるのが一番傷つくの。だから、みづきが騙されてるなら傷が浅いうちに助けてあげたい」
 何も言わない哲の顔を一瞬見て、エリはカウンターに目を落とした。
「結婚詐欺にあった女の人も辛いでしょう。でも、彼女たちは女である限り次がある。でも、あたしたちには次、はない——「今」もないのに」
「なんで分かる?」
 弾かれたように顔を上げたエリに見つめられ、哲は銜え煙草のまま低く続けた。店には他に一組の客がいるだけだ。聞こえはしない距離だったが、エリの風体に好奇の視線が送られているのは分かっていた。
「何で、今も次もねえんだ。そうやって決めつけてどうするよ」
「——てっちゃんには分からない」
「そりゃそうだ。誰も他人のことなんて分かんねえだろ」
「だから…………」
「あんたはみづきって子のことが全部分かんのか」
 切りつけるような哲の物言いに、エリがびくりと肩を竦めた。
「みづきって子が、本人が金庫を開けてくれってんならやってやる。電話しろ」
 財布から札を抜いてカウンターに置き、哲はゆっくり立ち上がる。灰皿に吸殻を押しつけ、立ち上る煙を数秒眺めた。
「てっちゃん、案外優しくないのね。秋野の方がましかも」
 エリが眉を寄せて顔を上げた。非難するような口ぶりだが、そういうわけではないのは顔を見ればよく分かった。
「何言ってんだ。あいつは優しいからあれなんだろ。まあ、誰にでも優しいってわけじゃねえけど」
「……てっちゃんのほうが優しいと思ってたわ」
「俺は他人に関心がないだけだ」
「あたしにも?」
 問い返すエリのつけ睫毛に縁どられた瞳を眺め、哲は迷わず頷いた。エリが傷ついたような表情を浮かべたが、嘘をついても仕方がない。
「好きだとは思うけどな。何かあれば手助けしたいとも思ってるよ。けどな、あんたの人生に介入しようとは思ってねえ。あいつはそういう自分を律してるだけで、本当のところはそうじゃない。だからあんたにうるさく説教垂れるだろ。心配だからだ。俺はあんたの好きなようにすりゃあいいと思うが、それは優しさとは全然違う」
「誰にも関心ないの?」
「俺が関心持ってるのは、あのくそったれだけだ。胸糞悪いが、そうなんだから仕方ねえ。だからってあいつを好きかって訊かれりゃそんなことねえよ。あんたのほうが余程好きだね」
「……正直さって残酷と紙一重よね」
 エリは潰れた箱から煙草を引っ張り出しつつ、小さく呟く。哲は肩を竦め、髪を掻き上げた。
「そうじゃなくて、俺は単にデリカシーがないんだろ」
 溜息を吐いて手を振るエリを残し、哲はバーを後にした。半白髪のバーテンダーのありがとうございましたと言う声を聞きながら、自分のどうしようもなさに心底呆れて溜息を吐いた。