仕入屋錠前屋60 パートナー 1

 空間中に色とりどりの花が咲いたようだ。そんな風に感じたら、些か心許ない気分になった。何せ、花というものに縁がない。

 エレベーターホールには大きなアレンジが置いてあり、花の香りがそこら中に立ち込めている。黒いスーツとドレスの群れがあちらこちらで数名の集団を作り、談笑している最中だった。
 哲は人を避け、受付に進みながらぼんやりと周囲を見回した。知っている顔は見えないが、誰もが楽しそうに笑っている。
「本日は誠におめでとうございます」
 口から出た低い声は若干棒読みではあったが、受付の女は別に気にする風もなかった。耀司と真菜、どちらの知人なのか哲にはよく分からない。祝儀袋が積み重なった黒盆に哲のそれを重ねると、臙脂色のドレスを着た女は座席表とペンを差し出した。
「こちらにお名前をお書きください」
 言いながら、ちらりと笑みを見せる。頭にはドレスと同系色のでかい花。花嫁と被るから、とかいう理由で頭に花飾りはマナー違反じゃなかったっけか、と年寄りくさいことを考えながら、哲は身体を屈めて住所と名前を書き込んだ。いかにも荒っぽい自分の字に顔をしかめながら振り返ると、人込みを避けるようにしながら秋野が立っていた。
 哲が袱紗を畳んでいるのをおかしそうに眺め、僅かに首を傾ける。
「さすが」
「何が」
 ポケットに突っ込もうとしている濃紫の袱紗を顎で指し、秋野は目を細めて薄く笑った。
「袱紗に包んでご祝儀持ってくる若者はあまりいないだろうな」
「そういうこと知ってる混血もあんまいねえだろうな」
 二人の傍を通りかかった女性がちらちらと秋野に視線を寄越す。まったく、目立って仕方がないとイラつきながら、哲は大股で一歩秋野から遠ざかった。しかし、長い脚の悠々とした一歩で、秋野は再度哲の傍らに立った。
 身体にぴったり合った黒いスーツは如何にも高級そうに見えるし、バランスのいい長身によく似合った。光沢のある象牙のような色のネクタイは、淡い水色と赤味のないこげ茶、そしてシャンパンゴールドのレジメンタル。無造作に後ろに撫でつけた前髪がまばらに頬骨の上にかかって、薄茶の瞳が際立って見えた。
「コンタクト、しねえのか」
 大勢の人の前だ。不思議に思って訊ねると、秋野は軽く肩を竦めた。
「ん? ああ、変なのは来てないから。どうせ偽名だし」
 つらっと言い、哲が脇に挟んでいた座席表に指を伸ばす。開いてみると、哲の名前の横には秋野隆、と書いてあった。
「誰だ、タカシって」
「知らん。真菜に適当に書いといてくれって言ったらこうなってた」
「まあ、確かに苗字のが違和感ねえけど、なんつーかこう、不自然な」
「俺が俺じゃないみたいで不安なんだろ。遠慮しないでそう言えよ」
「絶対一遍死んだ方がいいぞお前」
 哲は鼻を鳴らして再び手元に目を落とした。よくよく見ると、右隣が秋野で、左隣にはエリの本名が書いてある。
「…………俺、なんかすっげえ嫌な席なんだけど」
「まあそう言うな」
 哲はにやにやしながら肩を叩く秋野に唸りながら歯を剥いて、控え室へ案内しようと近づいてきたホテルの案内係を本気で怯えさせることになった。

 

 鏡が張られているせいで、室内は実際より大分広く見えていた。
 招待客は八十人前後だろうか。フローリングの床に鏡張りの壁、柔らかい照明が鏡やテーブル上のカトラリーに反射して、きらきらと光の粒をまき散らす。着飾った女の首元や耳元がそれに加わって、眩しいとは言わないまでも、なかなか壮観ではあった。
 テーブルの真ん中には、白と緑で統一された花が飾られている。ワイングラスにシャンパングラス、その他にもいくつかのグラスが並べられ、皿の上には凝った字体で名前が書かれた席札が、複雑に畳まれたナプキンに寄り掛かって立っていた。
「すごいすごい、素敵!」
 エリ——というか、勝——は、予想に反してどこからどう見ても男だった。初めて見る姿に逆に驚き、哲は思わずエリを上から下まで眺めてしまった。
「なに……んだよ、じろじろ見て」
「いや、本当に男なんだなあと思って……」
「ちょっと、やだ!! 嬉しいこと言わないでよ」
「はあ?」
「それってあた……俺が女……いや、っていうか普段のほうがいいってことで、って言うことは何? 今は仮の姿なんだけどでも」
「何言ってっか全然分かんねえ」
 二人のやり取りを呆れたように横目で見て、秋野は自分の右隣、真菜の幼馴染だとか言う男と、初対面の当たり障りない世間話を交わしている。
「それ、あいつらに言われたのか?」
 何となく尋ねてみたが、エリは何のことか分からないと言いたげに、つけ睫毛のない目をぱちぱちさせた。こうして見ると、エリは案外男前だ。いかついのはいかついのだが、普段の思わず仰け反ってしまいそうな迫力はない。あれは、この骨格に無理に化粧を乗せているからなのだろう。
 こういう、ごつい男が好きだという女だって多い。決してむさ苦しくはないエリは、昔はそれなりにもてたのではないかと思う。だからこそ辛かったのかも知れないと思えば、男前、という感想をエリに言うのは憚られた。
「いや、変だってことじゃねえんだけど、見慣れねえから」
つい言い訳がましく言った哲に、エリは不思議そうな目を向けた。
「——ああ、格好のこと? まさかあ、耀司と真菜がそんなこというわけないじゃない。そのまま来ていいって何回も言われてたけど、さすがにそれはねえ。あた……俺が恥かくだけならいいけど、そうじゃないし」
「そうか」
「そういえば、てっちゃんに頼みたいことが」
 何か言いかけたエリは、新郎新婦の入場を知らせる司会者の声で入口に向きなおった。ライトが光り、開いた扉の向こうから、耀司と真菜が入場してくる。
「てっちゃん見て、うわあ、すっごい綺麗」
 真菜は本当にきれいだった。秋野が選んだクリーム色に近い白のドレスは、オレンジがかった照明のせいで時折金色にも見える。ノースリーブのシンプルな身頃に飾りはない。ふんわりと広がったスカートには何重にも重ねられたアンティーク調のレース。ドレスにも結婚式にも興味がない哲ですら、趣味がいいと認めざるを得ない衣装だった。
 アップにした髪には長いベールがかかっている。挙式は家族だけで済ませているから、披露宴ではあるが、ベールが登場したのだろう。
 挙式には秋野も招かれたらしいが、断ったと言っていた。その後一週間真菜が口をきいてくれなかったと言ってしょげていたのが、今思い出しても酷く笑える。どちらもお互いを思いやった結果なのだから、傍から見れば微笑ましいだけだ。
 デジカメを構えてシャッターを押しまくるエリから視線を外し、哲は秋野に目を向けた。
 目の前を通り過ぎ、自分たちのテーブルへ向かう二人の背中を秋野の視線がゆっくり追う。多分他の誰が見ても穏やかなその顔は、しかし哲には感極まっているように見えた。涙こそ浮かべていないが、つつけば今すぐ崩れ落ちそうなほど脆く見える。
 テーブルクロスの下で脛を軽く蹴っ飛ばす。秋野は目だけ動かして哲を見て、唇の端を軽く持ち上げた。身体を傾け、哲の耳元に顔を近づけると、秋野はごく低く、聞こえないくらいの小声で呟いた。
「……泣きそうだ」
 掠れた声に哲が何か返す前に、秋野はゆっくり身体を起こし、何事もなかったように前を向く。再度二人に目を向けた秋野の目は、いつも通り穏やかで、涙などどこにも見えてはいなかった。