仕入屋錠前屋59 救い手

 シンクの鈍い銀色の上に、赤い色が広がった。自分の吐いた唾を一瞬眺め、蛇口を捻る。
 排水口に向かって螺旋を描くように動く水が、赤い筋を引き込みながら流れていくのを見送って、哲はもう一度唾を吐いた。今度は先ほどより薄い赤が水の上に散り、すぐに流され消えて行った。
 水を止め、テーブルの上からティッシュを乱暴に掴み取って口を拭う。丸めて投げたティッシュが屑入の縁に当たって床に落ち、哲は大きく舌打ちした。
「ゴミはゴミ箱に捨てましょう」
「うるせえ」
 秋野は喉の奥で笑って長身を屈め、ティッシュを拾って捨てなおすと、顔を上げて哲を見た。
 薄茶の目には、まだコンタクトが嵌ったままだ。本来の薄茶とたまに装用する黒は見慣れているが、今日はかなり薄い、青みがかった灰色。瞳孔が際立ち、まるで寒い地方の犬の目だ。普段と違う目の色は、哲を酷く落ち着かない気分にさせた。
 視線を逸らすと、秋野が笑った気配がした。くそ忌々しいが、改めて目を合わせるのが嫌で仕方がない。そのまま秋野を避けて部屋の中央に戻り、床に直接腰を下ろす。ソファに頭を預け、天井の安っぽいクロスに視線を向けた。
「喧嘩も結構だが、俺が仕事してる近くでは止めてくれよ」
「知らなかったんだから仕方ねえだろ」
「まあ、そうだけどな。流石に焦った」
「撃たれちまえばよかったんだ、てめえなんか」
「それが本心だってことは知ってるけどな、幾らお前の望みでもそれは叶えかねるねえ」
「死ね、イワノビッチ」
「誰だそりゃ」
「知らねえ。ロシア人だろ」
 秋野の不思議な色の目が哲に連想させたのはロシアだったが、別に秋野はロシア人になりすましていたわけではなかった。
 何かの——それが何かは聞いていないが——品物の受け渡しに、秋野は英語圏の人間を装って立ち会っていたのだという。黒髪に青い目というのがいないわけではないだろうが、金髪碧眼というくらいだから、青い目は金髪に多いのだろう。例えば緑は赤毛に多いし、だから灰色というのはそれなりに考えられた結果なのかも知れない。
 元々混血している秋野は、どこの国の人間にも見えるというか、要するに掴み所がない容姿をしている。肌の色はアジア人ほど黄色くはないが、白人のようにピンクがかった白でもないし、顔の彫りは深いが明らかに欧米人、という造作でもない。今は日本語で考えているらしいが、若い頃は頭の中も英語だったと言うから、あらゆる意味で偽装には無理がなかった。
 埠頭のコンテナ倉庫というのは如何にも芸のない場所だが、食品輸入会社を通じての取引だったらしいから、まあ妥当なのだろう。どちらかと言えば場違いなのは哲のほうで、まさか殴り合いをしていた現場の向かいから秋野が出てくるとは思ってもみなかった。
 瞳の色が違う。
 それを見てとった瞬間に目を逸らすくらいの分別は哲にもあった。ここで知人のような顔をして秋野の取引をぶち壊せば、それこそどんな災禍が我が身に及ばないとも限らない。
 秋野のことは頭から追い出し相手を殴り倒すことに専念する。終わってみるといつの間にか秋野が舞台監督よろしく拍手しながら現れて、哲を喧嘩に巻き込んだ知人は目を丸くして秋野を見ていた。多分、本物の外国人だと思ったのだろう。
「何であんなとこに居たんだ、お前」
 顔を戻すと、秋野が灰皿とミネラルウォーターのペットボトルを哲の前に置いた。
「酒の方がいいか?」
 見下ろす瞳についつい見入り、秋野の瞬きで我に返った。見とれているというのとは違う。多分、蛇に睨まれた蛙に近い。たかだか瞳の色ひとつ違うだけで。まったく、どこまでも頭にくる。
「——口ん中切れてるから水でいい」
「で?」
 立ったままの秋野の顔は、頭上の蛍光灯の影になっている。埠頭で見かけたときと同じ、眼だけが薄らと光るその恐ろしさ。まるでホラー映画じゃねえか、と内心で毒づいて、哲は無理矢理秋野から視線を外した。
「昔の知り合いに喧嘩しねえかって誘われたから」
「……そういう誘いもあるんだな、世の中には」
「人気があんだよ、俺は」
 苦笑する秋野が喉を鳴らす低い音が、ゆっくりと下りてくる。
「それはどうか知らんが、楽しそうだったな」
 指が、哲の髪に触れた。
 頭を振って振り払ったが、指先は怯むことなく髪の中に差し込まれた。右手で秋野の手を掴む。そのまま払いのけようとしたはずなのに馬鹿力で押し返され、ソファの座面に両手を纏めて縫い留められた。万歳に似た格好が、腹を見せているようで気に障ることこの上ない。身体を捩り、テーブルを蹴っ飛ばす。ペットボトルが転がって、ごとん、と重い音と共に床に落ちた。
「落とすなよな」
「離せ」
「どうして?」
「どうしてじゃねえ!」
「あ、電話」
 秋野は涼しい顔でジーンズから携帯を引っ張り出した。片手一本で簡単に動きを封じられていることに腹が立ち、こめかみの血管が脈打って頭ががんがんする。膝を秋野の鳩尾に突っ込んだが、下げた左の肘できれいにガードされ、濁った唸り声が漏れる。
「ちょっと黙れ、うるさい」
 その言い種にむかついて歯を剥いたが、秋野は横眼で哲を一瞥しただけで電話を取った。一瞬後、秋野の口から流暢な英語が流れ出して、哲は何となく黙り込んだ。
 仰のかされているせいで、大して明るくもない蛍光灯がやたらと眩しい。瞬きする度瞼の裏にちらつく残像が癇に障った。秋野は哲に覆い被さるように圧し掛かったまま電話を続ける。忌々しさにその腹を蹴っ飛ばしたが、口の端を曲げるばかりで秋野は退かない。顔が近づき、電話の向こうの声が哲にも聞こえた。
 ハスキーな外国人女性の声。やたらと色っぽいその口調に合わせるように、秋野は哲の耳元で低く宥めるような声を出す。その甘い声が自分に向けられた欲望の表れではなく、哲に向けられた嫌がらせだということを、電話の向こうの女は勿論知る由もない。
 まるで哲に話しているかのように哲の目の中を覗き込み、秋野は女と会話を続けていた。唇に息が触れるのが鬱陶しい。間近の唇に齧りついてやろうかと本気で狙いを定めた瞬間、女が何か気の利いたことを言ったらしく、秋野が目を細め、声を上げて笑った。
 間近で見る秋野の笑顔に、意外なことに胸の奥に突き刺さすような痛みを感じた。
 訓練されたものではなく、身に染みついた言語。秋野は日本語と同じように英語とタガログ語を話し、本人は日常会話レベルだというスペイン語をも話す。どれも母親の母国、フィリピンで使われる言語なのだそうだ。
 島国日本では流暢な外国語を操ることができるのは一種の特技だ。だが、それが秋野という一個人の社会的な地位向上に役立つかといえばまったくそんなことはない。寧ろ、それはより一層、秋野を日本という国そのものから遠ざける。
 低く深い秋野の声で紡がれる異国の言葉。哲自身は、外国語を話す秋野に羨望も覚えず、感心することもない。ただ、何か苦いものを舌の先に感じるだけだ。
 青みがかった薄い灰色が、まるで薄茶が褪色してしまったように見えてぎくりとした。冷たい冬の空のような眼の色で哲には分からない言葉を話すこの男が、まるで知らない誰かに見える。
 可哀相だとか、同情するとか、そういうことではない。
 不当に扱われることなど、誰にでも、幾らでもある。秋野を不幸だとは思っても、そのこと自体は仕方がない。要は、自分でどうにかする気があるか、ということだ。
 秋野がどれだけのものを犠牲にし、叩き潰し、売り捌いて今の自分を手に入れたのか、詳しいことを哲は知らない。ただ、過去の秋野の食いしばった歯の軋る音を、なめらかな外国語の合間に聞きとってしまったというだけの話だった。
 モデルのような外見、洒落た身なり。一見穏やかで洗練された物腰を剥ぎ取った後に残るのは、取り扱いに注意を要する獰猛な男だ。秋野をそうしたのは、幾らかは本人の資質かもしれないが、大部分は哲の育ったこの国だ。どうしようもないくそガキが安穏と暮らしていたその間。秋野に見える己の未来は、一体何色だったのだろう。
「何だ、その顔」
 電話を切った秋野はゆっくり瞬きしてからそう言った。間近で見ると睫毛は濃く、長い。女が羨ましいと言いそうだ。そんな睫毛、むしって幾らでもくれてやる。痛いのも、間抜け面になるのも俺じゃない。心の中でくだらないことを言う間、返答まで僅かに間が空いた。
「生まれつきだ」
「今の間は?」
「二時間黙ろうが俺の自由だ。とにかく顔は生まれつきだっつってんだよ」
「嫌な子供だね。まあ、そういうところがたまらないって大人もいるかもな」
「うるせえ、黙れ、くされ成人が」
「おお、新しいな、それ。面白くないが」
 言いながら、電話の端で秋野は哲の頬をなぞった。丸みのある硬い物体が顎を伝い、唇に当たる。思い切り齧りついてやったら表面の塗装に薄く傷がついた。呆れたような溜息とともに、秋野は電話を床に放り投げ、空いた片手で哲の顔を骨ごと乱暴に捕まえた。
「何が気に食わないんだ」
「お前の全部が常に気に入らねえ」
「それは知ってるが、そういうんじゃないだろう」
 形のいい眉が寄せられ、低く穏やかな声がいつもよりほんの僅か平板になる。冷たさが滲むそういう声音を出す時に、秋野を怒らせるのは得策ではない。
「……何か国語も話せるって、どういう気分なんだろうな、とか思っただけだ」
「何も——俺にとっては当たり前だ。努力したから話せるようになったってわけでなし……それが何だ」
「別に」
「哲?」
「何でもねえよ、離せってんだろ、さっきから!」
 秋野の手を振りほどき、腰のあたりを蹴っ飛ばす。僅かに離れた身体を押し退け、哲は秋野の下からようやく逃れる。横にずれただけの哲を不思議そうに見下ろして、秋野は前髪をかき上げた。
「何だよ」
「だから何でもねえって! ただ」
 斜め上からじっと見つめられて言葉に詰まった。
 何を言おうとしていたのか分からない。口の中に金気臭い味が広がって、切れたところを無意識にまた噛み締めたのだと気が付いた。
「くそったれ」
 低く呟いたのは哲ではなくて秋野だった。呻くように絞り出された一言と、その顔に一瞬で広がった剥き出しの感情。おおよそがろくでもないお互いの人生。そのほんの数年を背中合わせに過ごしただけだ。ただそれだけのことなのに、秋野の過去の苦渋の切れ端が、哲の心臓を掴んで締め上げる。
「お前に同情なんかされたくない」
「してねえよ。よりによって同情なんか」
 秋野が獣のように素早く動き、哲の両肩をソファに押し付けた。加減のないその力に、体中の血が滾る。欲望で声が掠れた。忌々しいこの手を手首から噛み切って、爪まで余さず食ってしまいたいという欲望で。
「思い上がんな、仕入屋」

 お互いの服を剥ぎ取り、殴り、噛みつきながら罵り合い、揺さぶられながら秋野の尻を強かに蹴飛ばして、そうして秋野の過去の切れ端を破り捨てながら哲は思う。
 俺もお前も、自分以外の誰かに救われたくなどない。だから奪え。お互いに、容赦なく。
 排水口に吸い込まれていく血の筋が目に浮かんだ。ああやって、いつかはすべてが薄くなって消えていく。苦悩も、煩悶も、罪悪感も、秋野の悪夢も。
「お前は救い手なんか欲しくねえんだろう」
 灰色の眼の奥で、金茶の炎が揺らめくのが確かに見えた。歯の間から低い唸り声を漏らしながら、秋野はぎらつく目で正面から哲を見据えた。
「——ああ、そうだ。例えそれがお前でも」
 しわがれた、断固とした声でそう吐き捨て、秋野は哲の身体の奥深く、何かを刻むように己を突き立てた。