仕入屋錠前屋58 荒削りでも前へ 6

「すまんな」
 秋野にボストンバッグを渡し、男は一言も発さずに立ち去った。短髪、中肉中背、擦り切れたジーンズにカーキのTシャツ。多分、すぐに追いかけても人ごみの中で見失う。そんな特徴のない男だった。
 祝日の夕方、普段なら誰かしらがいるはずの古いオフィスビルに人気はなかった。正面玄関は施錠され、鉄柵のようなものが下りてすべての人間の立ち入りを拒んでいた。
「行くか」
 普段通りの穏やかさで秋野が言う。哲は壁に預けていた背を起こし、男が消えた廊下の向こう、裏口に向かう秋野の背を負った。
 入居する企業が使う駐車場も、今日は閉鎖されていた。管理会社が置く管理人も普段と違って一人、もうすぐ終業時間なのだという。管理人は自衛隊を定年退職した後は現金輸送の仕事をしていたという老人で、秋野が声をかけるとテレビから顔を上げ、にっこり笑って手を振った。
 彼のいる管理室のガラスの小窓の横を通り、重たいスチール製の扉を出る。何の変哲もないボストンバッグは、そこそこ膨れていた。恐らく、服とかタオルとか、適当なものが入っているのだろう。
 オレンジ色になりかけ低くなった陽光が、秋野の削ったように鋭い横顔に濃い陰影をつける。哲は、複雑な色に染まる人間の肌の、単純な美しさに暫し見惚れた。
 ほんの十メートルほど歩くと表通りに出た。傾きかけているとは言え、陽射しにはまだ十分な熱さがあり、アスファルトはオーブンで焼いたように温められていた。街路樹が落とす影の中を移動する人ごみは道の両端に集中している。それに倣い、哲と秋野も歩道の端を並んで歩いた。
「まったく、くそ暑いな。頭が働かねえ」
「いつもだろ」
「うるせえ。余計なお世話だ」
 哲が秋野の脚を蹴飛ばすと、秋野はバッグを哲の腰骨にぶつけてきた。思わずよろけて悪態を吐く。黒いバッグの中は、殆どはただの布。そして、その中には幾つかの分解された銃の部品が入っている。これが最後の一丁だった。

 

 吉富が削った部品をひとつだけ。秋野が要求した報酬はそれだけだった。
 それ以外はすべて溶かされ、別のものになるのだそうだ。どこかを留めるための一本の螺子、それは、元は銃の一部であったかも知れない。そうして、秋野や哲のような人間ではなく、吉富のようなまともな人間が使うものの一部になるのかも知れない。
 新婚家庭に似合いそうな白いパイン材の食器棚の蝶番。
 日曜大工が使うホームセンターの木螺子。
 吉富の孤独と苦悩はそんなものの中に溶けていくのかも知れず、本当にそうなら、どこまでも原形を留めず溶かされ、様々なものに形を変えていけばいいのに、と強く思った。
 天井に目をやり、ダウンライトの柔らかな光の向こうに思いを馳せた。削った物も削り滓も、必要なら記憶も罪悪感もすべて屑入にぶち込んで、そうして吉富が少しは楽になればいい。善人ぶるつもりもないし、優しい気持ちになったわけでもない。だが、秋野の言った通り——癪に障るが——祖父が生きていたらどうしたかったか、何を望んでいたかと無意識のうちに考えているというのは真実だ。
 吉富の孫が、祖父に対してどういう感情を抱いているのかは分からないし、知りたくもない。所詮他人は他人、余所の家族のことなのだ。哲が英治を想うように、吉富の孫が祖父を大事に思っていなければならないということはない。軋轢も、愛憎も、本人達のもので他人のものではないのだから。
「…………っ」
 ぼんやりしていたら秋野に唇を塞がれた。抗議しようと開いた口に、舌が遠慮なく押し入ってくる。秋野の頭に手をまわし、乱暴に髪を掴んだ。引き寄せ、他人の粘膜という大して魅力的ではないものを隅々まで探り、味わった。
 抱き合っているからといって愛情など感じはしない。それなのに、秋野に囚われがんじがらめになっていく、そんな確信に腹が立ち、その反動のようにして昂った。
 さっきようやく出て行ったものが、もう一度深く、奥まで突き立てられて体内を侵す。圧迫され、内側から押し広げられる不快感に思い切り秋野の腰骨を蹴りつけた。バッグではなく踵でだから、多分それなりに痛かったはずだ。
 さっきまで秋野が持っていた黒いボストンバッグも今はない。
 洒落たホテルは、以前ヨアニスという白人と会った場所だった。直接秋野に対応した支配人は、どうも秋野の知り合いらしい。彼にバッグを預けた秋野は、差し出されたキーを一瞬躊躇ってから受け取った。女と来たこともあると言っていたが、それ以前に普段から商談で部屋を使っているらしく、支配人は連れの哲を見て、今回も商談と判断したらしい。
 何の商談だか、そのままシックな内装の上等な部屋に連れ込まれて今は裸だ。部屋が何に使われたか知ったら、支配人は目を剥くだろう。まったく、どうしようもないのは面倒くささに負けて拒まない自分か、その気もなかったくせに誘った相手か。考えるまでもなく両方だ。
「——お前、何に使うんだ、あんなの」
 絞り出した声はしゃがれ、まるで寝起きのようだった。あんなの、の途中から殆ど掠れて消えかけたのは、秋野が身体を動かしたからだ。
「あんなのって?」
「だから……あんな部品」
「別に、使わない」
「って……じゃあ何で欲し…………くそ、後で覚えてろ……っ」
「うん? いいならいいって言えよ。溶かしちまうのも惜しい気がするだけだ。何となく。昨日、吉富さんに会ったんだろ。どうだった」
「余計なとこ触んじゃねえ、クソ野郎! い…………一気に、老けこんだっつー感じだったけど、安心もしたって感じで——また顔見に…………おい、止めろって」
「忘れるさ、そのうち。大丈夫だよ」
 秋野は優しげな声でそう言いながら哲の腰を掴んで揺すり上げる。秋野の前腕に指を食い込ませ、哲は怨嗟の声を上げた。
「も、死ぬ、勘弁……くそ、抜けって……死ぬっつってんだろうが、人の話を聞けくそったれ!!」
 さっきまでの行為の残滓が、腹の中で粘つく不快な水音を立てる。ダウンライトが不規則に明滅して見える。白い天井が二日酔いの朝のように歪み、回転して見える。すべてのことに腹が立ち、哲は秋野の頬骨のあたりを殴りつけた。横面を張られた癖に涼しい顔をして、秋野は哲の前髪を手荒く掴む。頭を押さえつけられ、罵詈雑言を吐き出す哲をおかしそうに見下ろして、秋野はいかにも根性が悪そうに口の端を曲げて笑った。
「だから、いいならいいって言えよ」
「ぁあ? そんな、つまんねえこと、聞きてえのかお前は……」
 息を荒げながら言う哲を見下ろす秋野の前髪の間から、細められた金色の目が覗く。
「たまには。別に罰は当たらんだろう」
「訳分かんね……んな、くだらねえ」
「物好きだな、不幸でいいなんて。普通は紛い物でもいいから幸せを手に入れたがる。それが当たり前なのにな」
 言いながら、声音と裏腹に酷く乱暴に突き上げられ、目の前に金属を削る時に出る火花のような光が散った。
「お前が俺に不幸にされたいってんなら、そうしてやる。だから、たまにはくだらない俺に付き合えよ」
 哲は腹をうねらせ、喉の奥から低い呻きを押し出しながら秋野の腰に脚を絡めて引き寄せた。脚の間に深く銜え込んだものが、性器ではなく凶器に思えた。
 吉富の部品が嵌め込まれた銃を、額に強く押し付ける。そんな幻が脳裏に浮かび、哲は一度瞬きした。銃把を握るのは自分の手なのか、それとも秋野の手なのか分からない。
「なあ、哲」
 仕入屋の、低く、底なしに深く耳に心地よい声がする。
 一体この男は何なのか。自分とは違う世界を見てきた人間。
 過去には銃を売り、易々と人の命を奪い、惚れた女が別の男と作った子供に愛情を注ぎ、眠れないから傍にいてくれと懇願した。笑って誤魔化し認めないに違いないが、多分吉富のために部品をひとつ預かって、意味などないと笑う男。
 てつ、と秋野がもう一度呼ぶ。
 吉富が鉄を思いのままに削るように、秋野は太く鋭い鉤爪で、哲の何かを容赦なく削ぎ落とす。
 旋盤が単なる金属の塊の形を変えていくように、削り出された何ものか。その細かい部分は未だ見えない。硬く冷たいそれが仕上げに入る前の荒削りだというのなら、それでも別に構いはしない。ただ、握り締めて前に進むだけ。後戻りは性に合わず、脇道を自ら潰してきたのは事実なのだから。
 すげえ、いい。よすぎて死ぬ、と吼えるように吐き捨てると、秋野はおかしそうに笑い、「そうか、俺もだ」と見せかけの甘さを滲ませた声で囁いた。
「これで満足か、クソ野郎……っ」
「いいや、まだだ」
 底意地悪い虎のように頬を歪め、秋野は更に身体を進めた。
「お前の望みなら何でも叶えてやる、錠前屋。——約束する」
 苦痛と快楽と憤怒に哲の背がしなり、喘ぐ息の合間に獣じみた唸りが迸る。
 安請け合いすんじゃねえ、阿呆、と返す自分の声が、どこか遠くで微かに聞こえた。