仕入屋錠前屋58 荒削りでも前へ 5

 秋野の足は速かった。背が高くて脚が長い分ただでも有利だと思うのに、走るのも速い。ただ、それだけでいうなら哲もかなり速いほうだから、歴然、とまで言うほどの差はないはずだった。一番大きな建物の周りには放置されたままで赤茶に錆びた廃材やトタン、ブロックなどが積み上げられて通路を塞ぎ、更に心ない人間がこれ幸いと投棄した大型家電やタイヤが山になっている。工員が歩いていたはずの道筋は今やガラクタで埋められ、正面玄関までは障害物競走の様相を呈していると言ってよく、小回りが利く方が通り抜けるには有利に思えた。
 勢いで足は動いていたが、哲は半ば呆れ、映画を見るように先を行く秋野を目で追った。
 背の低い物置のような建物。壁に立てかけられたブロックと窓枠を足がかりに容易く屋根の上に立った秋野は、音も立てずにバランスの悪いガラクタの上に飛び降りた。膝と全身のバネが緩衝剤代わりなのだろうか。殆ど四つん這いに近い、獣のように低くした姿勢から信じられないくらい簡単に障害物を踏み越える。
 哲も乗り越え、飛び越えられなくはない。だが、こんな風には無理だろう。秋野の動きはまるで地形の起伏を軽々と越えていく野生動物のようだった。
 秋野の体重を受け止めた物置の屋根が悲鳴のような音を立てて軋む。秋野はその音に我に返ったように突如動きを止め、立ち止まった。辺りを睥睨する姿は獰猛な肉食獣そのままに見えた。
 人を殺したことがあるというのは、秋野自身の口からも、第三者の口からも聞いたことがある。最初は、事故のようなものだったらしい。銃で撃ったこと、そのことを繰り返し夢に見てうなされているのも知っている。だが、その後の事に関してはまったく知らなかった。
 ついこの間、耀司が口を滑らせるまでは。
 銃の話を聞いたその日、飲みに行った先で哲は耀司の隣に座った。秋野とエリが話し込んでいる間、何故か話がそちらの方に行ったのは、耀司に何らかの意図があったのかも知れないし、単に酔った耀司の回想が垂れ流しになっただけなのかも知れない。
 海外の民間警備会社に所属し山岳ゲリラの訓練をしていたこともあるアンヘルという男が、秋野に人の殺し方を教えたのだと耀司は言った。関東を離れ、どこかの山奥に籠って軍隊の真似ごとのようなことをしたのは、アンヘルの性質の悪い暇潰しだったのだ、とも。
 風が秋野の黒い髪を乱し、羽織った半袖のシャツの裾をはためかせた。シャツの白さが暗がりの中で幻のように儚く滲む。秋野は立ち止まって己を見つめる哲を見つけ、薄く笑って易々と地面に降り立った。
「どうした」
「勝てる気がしねえよ。お前みたいなのに」
「まだ終わってないぞ」
 言うなり秋野が身を翻す。勝てないと分かっていても、挑発されたまま退くのは癪に障る。哲は全力疾走で秋野の背を追い走り出した。
 息が上がり、生ぬるい空気に全身に汗が滲む。近くに見えた工場の玄関は思いのほか遠く、先を走る秋野との距離は縮まりそうでいて、その実どうやっても縮まらないと、そう見えた。

 

 自分の吐き出す息が、何もない空間に木霊すように聞こえる。
 久々の全力疾走に、流石に息が上がってしまった。喧嘩と走るのとでは使う筋肉も違うし、懸命に走ることなど普段の生活ではあまりない。
「ほんっと……」
「ん?」
 目の前で煙草を銜えている男は、相変わらずの涼しい顔だ。
「お前って奴は」
「俺の勝ちだな。ナカジマには話通すぞ。まあ、お前の名前も俺の名前も出さんようにするがね。間に何人か置くし、気にするな」
 薄汚れた壁に凭れ、秋野が煙を吹き上げる。工場は完全な形で残ってはいなかった。どういうわけか、向こう半分がないのだ。こちらから見ると完全だが、まるで芝居の大道具のように向こう側が骨組だけになっている。壊し掛けで金がなくなり止めたのだろう、と言う秋野の推測が近いように思えた。
 長い前髪が、反対側からまともに吹き付ける風に揺れる。薄い色の目が前髪の間から哲を見据えて瞬いた。
 すぐ傍に光源があるわけではないが、秋野の顔ははっきり見えた。今や人の多く暮らす場所に、辺りが見えない程の闇などない。あるとすれば、それは目に見えないどこかにあって、そんな深くて複雑なものは少なくとも哲の中にはなかったが、吉富や、この男の中にはあるのかも知れないとぼんやりと思う。
「何なんだよ」
 無意識に呟くと、秋野は煙を殊更ゆっくり吐き出して首を傾げた。
「何が?」
「何がって、だから」
「それじゃ分からんよ」
「嘘吐け」
「嘘? そんなことはない」
「何でそうまでして手を出したがんのか、分かんねえ」
「お前が入れ込んでるのは、誰のためだ?」
「吉富さんの」
「吉富さんのため? まあ、そうかも知れんが、本当のところは違うだろう」
「……」
 答えずにいると、秋野は暫くの間の後、祖父さんのためだろう、と呟いた。
「お前が死んじまった祖父さんのために必死で何かするのを見ると、何とかしてやらないといけない気になる。吉富さんと変わらんな。子供の幸せを願う親みたいな気分になるんだよ」
「誰が親だ、ふざけたこと抜かすな、くそったれ」
「たとえだろ、譬え」
「だったらこんな——……」
 哲は、咄嗟に出かけた憎まれ口を飲み込んだ。別に隠すことではないが、言う必要があるとも思えない。
「何だよ」
 秋野が訝しげに訊き返した。
「別に。くだらねえこと。早く帰ろうぜ」
「哲」
 秋野の、虎のような瞳が眼前にあった。底光りするそれは容易く哲の動きを止める。湧き上がる闘争本能と、紛れもない恐怖。背骨が震えるような感覚に、握り締めた拳をゆっくり開閉した。
「言いかけたら言えよ。気になって眠れないだろう」
「そういう奴に限って人よりよく眠るんだ」
「哲」
 煙草を持っていない左手が、哲のうなじを掴んで引き寄せた。身体を捩って秋野の手から逃れ、脚を軽く蹴りつける。吹き込んだ風にどこかで何かが崩れる喧しい音がする。
 無表情になった秋野の顔を見ていたら急におかしくなってきた。密造銃を回収する相談をしていたかと思ったら、半分壊れた工場で競争している。しかも相手は傭兵に訓練されたらしいろくでなしの混血男で、自分は箸にも棒にも引っかからない程度の低いチンピラだ。まったく、くだらないことこの上ない。
 秋野の指先の煙草を掠め取り、一口吸いつけて、哲はゆっくり口を開いた。
「親みたいな相手に、こんなにのめり込むってことはねえな、と思ったんだよ」
「……」
「何固まってんだよ。別に今に始まったことじゃねえし」
 わざわざ面と向かって言ったことはないかも知れないが、と胸の内で呟きながら、哲は足元に転がる錆びた鉄屑を蹴り飛ばした。吉富の工場にあったものとは違う、何かの残骸だ。
 吉富の顔が脳裏に浮かぶ。真っ当に生きてさえいれば——、そう、あんたの言うとおりだ。あんたは誰に恥じることなく生きてきた。だから、幸せになる権利がある。
 哲は視線を戻し、顔の前でたゆたう煙を透かして秋野を見上げた。
 幸せなんてくそ食らえ、だ。
 例え他人の幸せを願っても、我が身のこととなれば話は別だ。親が子の幸せを願うように? よりにもよってこの自分に何を言うのかと思うと胸糞が悪くなる。フィルターを噛み締めて、ふと気付いた。秋野の癖が、いつの間にかうつっている。忌々しい。
 哲は地面に吐き捨てた吸殻を靴の底で滅茶苦茶に踏みにじった。
「俺は、不幸でいい」
 呟く哲の目を覗き込み、秋野は僅かに首を傾ける。
 吉富も、ろくでなしの孫も早く幸せになれ、と思う。心の底から、そう思う。削った物も、削り滓も、記憶すら屑入にぶち込んで、出来る限り幸せになれ、と。
「今更真っ当に生きたり出来ねえよ。紛い物の幸せで誤魔化されるより、真っ当でない奴にとことん不幸にされるほうがいい」
 秋野の瞳が眇められ、垣間見える獰猛な本性に口が乾いて声が震えた。
 秋野が一歩哲に近付く。地面から足を這いあがる薄い煙が顎をくすぐる。暗がりで見ると殆ど色のない秋野の虹彩に浮く金色の斑点がすぐそこにあって、威嚇するように瞬いた。

 

 工場の壁は硬く、吹き下ろす風は強く、秋野の息は熱かった。
 祖父の友人のため、すなわち祖父のため。自分でもしかと認識してはいなかった吉富への肩入れの動機を容易く指摘した秋野に対して、苛立ちと同じだけ感じるのは飢えに似た何かだ。
 嫌いではないが好きでもない。ただ、秋野でなければ意味がないと思うだけだ。こじ開け、引き摺り出し、引き裂いて、この男の最後のひとかけらまで意地汚くしゃぶってみたかった。
 こうなることは分かっていたはずだ、と頭の隅で誰かが揶揄する。
 秋野が食い込ませた牙は、多分抜けることがない。
 明日、そのまた明日、それより先の今は見通せない先。どの時点でこのろくでもない男が飽きるのかは知らないし、そうなったらその時のことだ。だが、自分の飢えが満たされる日は来ないような気がする。絡みつく舌に歯を立てながら、驚くほど冷めた頭で哲はそんなことを考えた。