仕入屋錠前屋58 荒削りでも前へ 4

 あいつの名前は、エイジっていうんだ。そう、哲坊のじいちゃんと同じだよ。字は違うけどな。
 うちの孫は栄えるのエイに、漢数字の二で栄二。そう、次男坊でね。分かりやすいだろ。栄二の親は、俺の三男で、栄二は母親よりは父親に似たんだと思うよ。
 三男の嫁さんって言うのは気の強い女でね、うちのやつともどうにも合わなかったねえ。仲が悪いってんじゃないよ、いい子はいい子なんだけど、まあ、人間だから合う合わないもあるわな。嫁と姑でなくたってそうなんだからさ。
 ああ、違う違う、栄二の話だ。あいつは高校くらいから悪くなって、原因は俺も知らん。祖父さんなんて、一緒に住んでなきゃ何も分からんもんさ。
 元々はどっちかと言うと大人しい子だったかなあ。まあでもあれだ、普通だよ、普通。良くも悪くも十人並だな。それが、何でか悪いのとつるむようになって……哲坊も随分悪かったって佐崎が言ってたけど、本当かい? そうかぁ。栄二より余程ちゃんとして見えるけどねえ。
……そうそう、二か月くらい前だったかな、ふらっと来たのは。
 荒削りでいいって言うんだよ。仕上げ削りは、余所に頼むってね。冗談じゃないと思ったよ。荒削りだけで人に渡すなんて、そんなの納得いかないだろ。大体何を削るのかって訊いても要領を得ないしさ、何かあるなって……思ったよ。思ったんだよ、確かに。
 けどなあ。哲坊の言うとおりさ、寂しいんだよ。若い人には、幾ら言っても分からんだろうね。俺だって昔は分からなかったよ、こんなの。
 かみさんも逝っちまってさ——同級生なんかも、櫛の歯が欠けるみたいに死んだりすると、叫び出したくなることがあるもんさ。寂しい、怖い、って……ああ、吸いなよ。俺だって吸ってんだから。灰皿いっぱいだな、捨ててこようか。いい? 悪いねぇ。
 そう、栄二に何か頼まれたことも、あいつがここにくること自体も、何年かぶりだったんだ。俺は馬鹿みたいに舞い上がってさ、じいちゃん、頼むよ、なんて言われていい気分になって——間抜けだな。
 飯を食って行けって言ったらあいつは断らなかったよ。ただ、飯代が浮くと思っただけかも知れんが、嬉しかったねえ。
 寿司の出前取って、ビールなんか飲みながらさ、栄二に言ったんだよ。
 分かった、やるってね。荒削りでもいい、って。最初は散々渋ったからあいつも喜んだ。栄二の笑った顔を見るの、いつ以来だったかねえ……。目に入れても痛くない孫、ってわけじゃなかったけどさ……。
 分かってる、分かってるよ。もう栄二が来ても削らない。
 何か、怖いものなんだろう。いや、いいよ。何となく想像はつくからさ。
 あいつは、どうしてあんなんなっちまったんだかね。何もかも十人並みだっていいじゃねえか、なあ、そうだろう? 人より抜きんでたことがなくたって構わないんだ。そりゃ、あるに越したことはないけどさ、なくたって、どんな人間だって、真っ当に生きてれば幸せになれる。
 荒削りでもいい、真っ直ぐ前に進んでくれさえしたら——。
……精神論ってのかね、こういうのは流行らないんだろうな、今時。
 なあ、どう思う、哲坊?

 

 吉富の家を辞去してから、哲の口と足はすっかり重くなっていた。
 吉富が削ったものが何に使われていたのか、結局口には出せなかった。寂しい、と呟いた老人をこれ以上傷つけても仕方がない。知ったところで吉富の懊悩は軽くならず、寧ろ深くなってしまうだろう。
「で、どうするんだ」
「——どうするって、何が」
 足元に落ちていたペットボトルの蓋を蹴飛ばす。白くて軽いプラスチックはさして遠くまでは飛んで行かない。小さく間抜けな音とともに、アスファルトの上を滑るようにして止まってしまった。
「今まで出回ってる分」
「……んなこと言ったってよ」
 もう削らない、という吉富の言葉は、多分守られるに違いない。吉富はどこまでも堅気の人間である。自分の削ったものが何に使われているのか、想像はしたかも知れないが、知らなかったから今まで平気でいられたのだ。例え詳細にではなくとも、知ってしまえばそれは確かに実体を持った何かになる。罪悪感、それとも恐怖。それが何かは人それぞれに違いないが。
 だが、秋野の言うとおり、これからは削らないにしても、今まで出回っている分をどうするかが問題だった。放っておいても問題ないかもしれないが、万が一それを使った事件でも起こされれば面倒になる。哲にとっては売人である孫はどうでもいいが、吉富に累が及ぶのは気分がよくない。自業自得とは言え、何も犯罪を起こそうとして削ったわけではない。
 責任がないとは決して思わない。吉富は孫の頼みを断ることもできたのだし、暴力で脅されたわけでもないのだ。だが、だから罰されてもいいのだとは、どうしても思えなかった。
「俺、よく分かんねえんだよな、そっちのこと。どんだけ作ったか確認して——」
「集めて回るってか? どれだけかかると思う」
「……だな」
「話、通してやるか」
 秋野の低い声が暗がりに滲むように吐き出される。哲の首筋にかかる息が、言葉に合わせて揺れた。
「誰に」
「お前の大好きなキツネ顔のおっさん」
「俺が好きなんじゃねえよ、あっちが俺を好きなんだろ」
「そうか」
「って、そうじゃねえだろ。なんでナカジマのおっさん」
「北沢は銃の売買をシノギにしてる」
「だからって」
「数が少ないから手も口も出してはいないが、ある程度把握してるはずだ。流通経路も、した先も。扱いが大きくなってくればすぐに潰すか、そうでなきゃ紐をつけようとしてたはずだからな。あそこに回収させれば俺やお前が動くより余程早く片がつく」
 振り返らない哲の背後で秋野が身じろぎしたのが感じられた。じわりと額に滲んだ汗は、腕に纏わりつく生温い空気のせいか。
「ヤクザと関わんのはご免だ」
「だから、俺が話をつけてやる」
「てめえだってあいつらと関わる気はねえだろう」
「あるわけないだろ。分かりきったこと訊くな」
「おっさんが今まで俺らに構わなかったのは、本人が言うような理由じゃねえよな。商売に関わってこねえからだろうが。得になると思ったら手のひら返したように食いついてくるぞ」
「お前に講釈されるまでもないよ」
 繁華街と違って、この時間になると辺りに人通りはまるでなかった。住宅街ではあるが、若い人間が少ないのだろう。築年数の経った民家や、隣接した何らかの施設。以前は町工場の集まる地域だったのだろうが、今は稼働していないものが大半のようだ。
 ガタガタと風に揺れる、外れかけ、錆びた雨樋の音が秋野の声にかぶさって聞こえる。いつからか営業を止めた大きな工場の外階段が軋む音、割れた窓ガラスを風が通り抜ける細い音がやけに心細く、寂しく聞こえた。
「……タダでやってくれるわけねえだろ、ヤクザが」
 振り返ると、秋野は思ったより離れて立っていた。いつの間に銜えたのか、煙草の穂先が光っている。風に乱された前髪の先が頬骨の上にかかっていた。
「勿論。その辺はうまくやる」
「ったって、お前な。その辺のチンピラ相手じゃねえんだぞ」
「分かってるって。そんな心配するな」
 にやにや笑う顔に唾を吐きたくなる。
「心配じゃねえ、阿呆。面倒くせえだろうが、てめえがヤクザと揉めたりしたら」
「お前まで巻き込まれるって?」
「それはご免だからな」
「大丈夫だって、逃げ足は速いよ、俺は」
 足の速さなんて問題ではない。街灯が照らす人気のない道の真ん中でつまらないことを言い合っているとイラついてきた。
「足の速さなんてどうだっていいだろうが。お前がそこまで」
「じゃあ、競争するか」
「ぁあ?」
 思わず声がひっくり返った哲を見て秋野は笑い、煙草を靴の裏で踏み消した。秋野の指がゆっくり上がり、哲の背後を指差した。長い指が指し示す方へ思わず肩越しに振り返り、操られたような気分に盛大に舌打ちする。秋野は喉の奥を鳴らして低く笑いながら、大きな、閉鎖された工場に指先を向けた。
 なんの面白みもない四角い鉄筋の建物は、コンクリートの外壁が雨に汚れて黒い筋になっていた。五階建てのその棟を囲むように、大小様々の小屋のようなものが建っている。何の工場だったのかは既に分からないが、それなりの規模であったらしい。
「あの、一番でかい建物の正面玄関に先についたほうが勝ち」
「……意味分かんねぇ」
「こんなところで言い合ったって埒が明かんだろう。俺が勝ったら大人しく任せるんだな。お前が勝ったら地道に集めて回るなり、忘れるなり、好きにすりゃいい」
 肩を竦めた秋野はそう言うが、だからと言ってかけっことは、小学生でもあるまいし。文句を言いかけた哲に、秋野は屈んで摘み上げた吸殻を振って見せた。
「これが落ちたらスタート」
「マジかよ」
「じゃんけんでもいいぞ」
「それこそガキかって」
 秋野が目を細め、低く笑う。薄茶の目が街灯に一瞬煌めき、吸殻が白い蛾のように夜空に舞った。