仕入屋錠前屋58 荒削りでも前へ 3

「逮捕されてないかい」
「されてたら来てねえよ。毎回同じこと訊くなよな、吉富さん」
 吉富は毎度同じことを訊く。分かっていて訊いているだけで、別にボケが来ているわけではない。その証拠に今日もにやにや笑って銜え煙草の先を揺らしたが、哲の後ろの秋野に目をやり、ちょっと驚いたように笑みを引っ込めて目を瞠った。
「こんにちは」
 秋野は軽く会釈し、低い声で静かに言う。その様子からはこの男の本質である獰猛さは微塵も伺い知れず、吉富は恐らく穏やかそうな男前、とでも思ったに違いなかった。
「いや、こりゃどうも」
 秋野に銃を預け数日頭を捻ったが、哲にいい考えは浮かばなかった。自分の頭の程度では当然だと思うが、かと言って他の人間に頼めるようなことではない。
 結局吉富に会いに行くという哲に、秋野は興味なさげに頷いただけだった。そして、何の感情もこもらない声で一緒に行くと言い出した。何の得があるのか知らないが、別に拒む理由もない。好きにしろと言ったら本当についてきたというだけである。
「知り合い。見てみたいっつうから。物好きなんだよ」
 もっとも、吉富に本当のことを言っても仕方がない。適当にそう言うと、吉富は視線を哲に戻してにっと歯を剥いて笑ってみせた。
「……哲坊の知り合いにしちゃ随分と品がいいなあ、おい」
「見かけはな。一皮剥いたら俺よか性質が悪ぃ」
「知らないのか、世の中見かけだぞ、哲坊」
 大口を開けて吉富は笑う。仏頂面をした哲に秋野が目を向け、唇の端を曲げて微かに笑った。

 吉富の工場は「こうじょう」より「こうば」と呼ぶほうが似合っている。住宅と工場が同じ敷地にあり、どちらも既に年月による傷みが隠せない。二つの建物は繋がってはいないがコの字になって隣接しており、真中に中庭と言っていいのかどうか、とにかく草と木の生えたスペースがある。
 住宅の玄関の横をまわり、中庭を突っ切って工場に入る。日曜の今日、工場は休みで、従業員は誰もいなかった。中庭に面した引き戸を開けて建物に入る。哲には名前の分からない機械が何台も置かれ、機械油と金属の匂いがした。
「ほら」
 入んな、と吉富が二人を手招いた。作業台と思しきテーブルの上、何かの部品の失敗作なのか、どう見ても灰皿には見えない筒状の金属の中に吸殻がぎっしり詰まっている。
「いつも思うんだけどよ、煙草ってまずいんじゃねえの、こういうとこで」
「まずいも何も、ねえと俺が死んじまうよ」
 吉富は銜えていた煙草を無理矢理山の中に突っ込んだ。
「ほら、背の高いお兄さんもこっち来な。脚長いんだからそのへんのもんは勝手に跨いでな」
「秋野と言います」
 秋野は床に転がった鋼材の端切れらしきものを跨ぎながら言い、吉富が頷く。
「アキノさんねえ。どっかの国の元大統領にそんな名前の人がいたっけな」
「そのどっかの国の血も入ってますよ。名前は、その人とは無関係ですが」
「へえー、東南アジアの血が入ってるようには全然見えないけどね……おい、変わった友達だな、哲坊」
「友達じゃねえよ、気色悪いな」
 顔をしかめた哲を不思議そうに振り返りつつ、吉富は工場の奥へと進んで行った。

 

 吉富の工場では、昔から錠前のパーツを作っている。組み立てはやっていないからここにあるのはばらばらの部品ばかりだ。吉富は旋盤工としては腕がいいらしく、高級スーツケースの錠前などに使うものの受注も多いらしい。
 一頻り新しい金具を見たりして時間を過ごし、吉富に誘われて自宅へ上がった。秋野も当然一緒だが、存在感があまりないので忘れそうになる。実のところ強烈な存在感と威圧感を持ち合わせているくせに、こういう時に自分の存在を主張することはないのが秋野のそつないところで、哲に言わせれば性質の悪いところだ。自然と場に溶け込んでいるだけに排除しにくいところが憎たらしいが、今はごちゃごちゃ言っても仕方がない。
「あんた、アキノさん、コーヒーでいいかい。俺はコーヒーが好きでさ、それなのに哲坊は緑茶がいいって、俺よか余程じじむさいよ」
「うるせえなあ、緑茶好きで悪ぃかよ。コーヒーでいいよ」
「悪かないけどなあ」
「何でも頂きます」
 軽口を叩きながら吉富が台所に消える。がちゃがちゃとコンロにやかんを乗せる音、点火する音が響く。哲は煙草を取り出し、火を点けた。長年の使用で天板が傷だらけの卓袱台は、昔から変わっていない。ばかでかい青い陶器の灰皿は底にピンクの花の絵が描いてあるのだが、既に溜まった吸殻でその殆どは隠されている。
 隣は仏間で、丁度哲から見える位置に亡くなった細君の遺影が飾られている。ありふれた外見の、多少身体が弱そうな女性だ。その横には明らかに安物の印刷された版画の額、少し下がったところに燃料店のカレンダーがかかっていた。
 カレンダーの田舎臭いデザインをぼんやり見つめる哲の胡坐の膝を、秋野が軽く蹴飛ばした。哲が顔を上げると、吉富の前にいるときとはまるで別人のような秋野の黄色い瞳がそこにあった。底光りするような眼の、そこだけ漆黒の瞳孔に何かを根こそぎ持っていかれそうになる。哲は舌打ちし、秋野の足先を手の甲で乱暴に払い除けた。
「——何だよ。忘れてねえよ」
 小声で呟くと、秋野も低い声で短く返す。
「ならいい」
「アキノさん、砂糖とミルクはいるかい」
「いえ、結構です」
 いまどき珍しい木製の玉暖簾の向こうから吉富の声がする。愛想良く答えながら、秋野が射抜くような視線を哲に向け、哲は秋野の瞳の迫力に舌打ちしつつ、溜息を吐いた。
「はいよ。受け皿なんてもんはないから我慢してくれな」
 吉富はそれでも一応丸い盆に載せたマグカップをそれぞれの前に置いた。吉富のものは明らかに何かの景品だが、秋野と哲に出されたものは、かつて夫人が買ったと思しき花柄のものだった。所々が剥げた金色の縁、ピンクと赤の花柄が今時古臭いが、大事に使われていたのだろう。
「頂きます」
 秋野の穏やかな低い声に胸の内で文句を垂れ、哲は煙草の穂先を灰皿の縁で払った。
「吉富さん」
「何だい」
「最近、お孫さん元気?」
 吉富の笑顔が曇り、うんまあ、とはっきりしない返事が返ってきた。
「この間も言ったろ? あれはチンピラでね。孫だからそりゃ可愛いが、どうにもならんよ。いつか人様に迷惑かけるんじゃないかと思ったら心配でさ」
「そっか」
「何だい、藪から棒に。哲坊あいつに会ったことあったっけ」
「一回顔見たことあるかも知れないけど覚えてねえよ」
「そうだよなあ」
 哲はコーヒーを啜り、華やかで田舎臭い花柄のカップを握り締めた。
「寂しいからなのかな」
「え?」
 吉富は持ち上げかけたマグカップをテーブルに下ろして訊ね返した。初めて会ったときから変わらないと思っていたその顔に老いの色が濃くなっていることに今更気づく。単に自分が鈍いのか、そうではなくて結局人は、他人のことに無関心なのか——判断はつきそうもない。
「変なこと頼まれても断れないくらい、可愛いか。孫って」
「何の事だい」
「最近、夜中に機械回してるって、隣の婆さんが言ってたぜ」
 吉富の顔が明らかに強張った。嘘ではない。偶然家の前を掃いていた隣の住人にそれとなく訊いたら、彼女は皺だらけの顔を歪めて話してくれたのだ。
 ここ一ヶ月くらいねえ、夜中もちょっと機械動いてるよねえ。不景気だし、大変なんだろ。奥さんも亡くなってさ、さみしいのかねえ。することないのかもね、吉富さんは仕事が好きだし。うちはほら、亭主が十年も前に心筋梗塞で逝っちゃったけどね、女は強いからさあ。可哀相だよねえ。
 腰の曲がった女より余程疲れた顔をして、吉富は唇を噛む。根が善良で真っ当な吉富は嘘をつくのも下手なのだろう。
「最近人を減らしたからさ……大変なんだ」
「……ふうん」
「だから」
 何を続けようとしたのか、言葉はそこで詰まって飲み込まれる。吉富の顔は紙のように白く、哲の前で、彼は今にも二つに裂けてしまいそうだった。