仕入屋錠前屋58 荒削りでも前へ 2

 老人の名前はヨシトミ、と言った。
 哲が初めて見た時に、彼は既に年寄りであった。それもそのはず、吉富敏弘は祖父より三つ年上であり、当時高校を出たばかりの哲にとっては「おじいさん」以外の何者でもなかった。
 たまたま祖父英治と居酒屋で隣り合ったのが縁、と聞いた。錠前に一方ならぬ情熱を燃やす祖父と、錠前の部品を削り出すことを生業としている吉富。特に親密だったわけではないようだが、錠前屋を志す孫を引き合わせる程度には親交があったのだろう。
 当時は吉富の細君が存命で、英治と哲は夜中に何度か自宅と同じ敷地内の工場を訪れた。削り出したばかりの部品を見せてもらい、英治の講釈を受ける。まともな鍵屋ではないであろう英治をどう思っていたのか知らないが、吉富は英治の商売について詮索したり、追及したりすることはなかった。
 以前吉富が漏らしたところによると、吉富の孫は哲に劣らぬ素行の悪さだったらしく、学校を出た後はそのままろくでもない生活を送っている、とのことだった。
 成程英治の商売を云々しなかったのは、己の孫のほうが余程悪いと思ったか、そうでなければ身内の恥を晒す藪蛇になるかと危惧したからに違いなかった。この孫が件の孫だとすれば、納得のいく話ではある。
 思い出す吉富の姿は、年齢の割には色つやがよく、老人という言葉とは少々隔たっていた。髪は白くなりこそすれ豊かで、灰色の作業着を着込んだ背中はいつも真っ直ぐ伸びていた。
 銃を売りにきた男は別の名前を名乗っているが本名は吉富。故買屋が何故彼の名前を知っているかというと、故買屋自身の別れた女房が吉富の遠縁なのだそうだ。それもあってこんなものを売りに来るんだろうが、と故買屋は哲に肩を竦めて見せた。
「俺と女房が別れて十年経つんだけどねえ。こっちは親戚とも何とも思っちゃいないのに、迷惑な話さ。あの若造をどこかに売れば、俺まで疑われるよ。親戚だったってだけで、血も繋がってないのにさ」
 本当に迷惑そうに、痩せた顎を上げて男は宙に視線を据えた。ここにはいない遠縁の若者を責めているのだろう。
「まあ、そういうわけだから、誰がこれを買おうが俺は知らないし、行先を知りたくもないね」
 そうして哲の手に渡った拳銃は、紙袋とナイロンの袋にくるまれたまま、開けられることもなく目の前にあった。自分の部屋に置いておきたい代物ではないが、かと言って下手なところに預けるのもまた面倒のもとだ。
 携帯を取り出し、こんなものを買わねばならなくなった元凶——実際の所そういうわけでもないのだが、そうでも思わないと腹に据えかねる——の番号を押す。呼び出し音が二度鳴って繋がった。
「幾らだった?」
「うるせえ」
 前置きなしの質問にそう返し、哲は煙草を取り出した。声を聞くと途端に煙草が吸いたくなるのは、神経が昂るせいかもしれない。
「頼みがあんだけどなあ」
「幾らだ?」
 笑いを含んだ低い声が耳朶をくすぐる。まったく、むかつく野郎だと独りごち、意味がないと分かっていつつも携帯に煙を吐きつけた。
「電話越しだから煙くないよ、馬鹿だね」
「っせえな、何してるか見えんのかよ」
「目の前にいるからな」
 声に振り返ると、秋野がそこに立っていた。舌打ちし、電話を切る。昨日のラフな格好と違い、ノータイで着崩した細身のスーツが怖いほどよく似合っているが、哲の目にはどうにも胡散臭いだけだ。
 黒のシャドウストライプは、派手ではないが、間違っても野暮ったくはない。白いシャツから覗く首筋と鎖骨。道行く女が一人残らず振り返ろうとどうしようと、別に知ったことではない。それより、こういうモデルのような服装と佇まいの男が気配一つなく誰かの背後に立つ、そのことに驚くというものだ。
「何か用かよ」
「何言ってるんだ、お前が電話してきたんだろうが」
「顔見る必要はねえんだっつの」
「俺は見たいね」
「一遍死ね」
「ご挨拶だな」
 にやにやしながら言い、秋野は哲の向いの床に腰を下ろした。スーツが皺になるとか、そういうことは考えないらしい。時と場合に応じて身なりに気は遣うが、洋服そのものへの執着がないのは明らかだ。
「頼みって何だ。俺は倉庫番じゃないぞ」
「分ってるならいちいち訊くんじゃねえよ。根性悪ぃな」
「火貸してくれ」
「何だよ、ライターくらい持って歩け」
 投げつけた百円ライターを受け止め、秋野は煙草に火を点けた。斜めに傾けた顔の先で火が点る。立ち上る煙を追うように、薄茶の眼球がゆっくりと動いて哲を見た。
「で、そもそもそれをあの故買屋に売ったのは誰だって? そこから教えろよ」
「お前に関係ねえだろ」
「関係はないが興味はあるね」
 秋野は唇の端を曲げて笑い、濃い煙を吐き出した。

 

「祖父さんの知り合い、ね」
 哲の簡潔に過ぎる説明でもどうやら通じたものらしい。もっとも最近は唸っただけでも通じることがあり、驚くとともに気色悪くなったりもする。楽と言えば楽なのだが、別に秋野と通じ合いたいとも思わない。
「で、お前はどうしたいんだ」
「さあ」
「さあ、じゃないだろ」
 呆れたように笑い、秋野は二本目の煙草を灰皿に押しつけた。百円ライターを指先で弄りながら、哲を見る。
「どうにかしようと思うから大枚はたいて買ったんだろうに。それともどっかで使う気か」
「その時は真っ先にてめえを撃ってやる。別にどうかしようって考えはなかったんだけどよ……誰かに買われて犯罪にでも使われたら吉富さんが不憫つーか」
 アパートの外階段を上る足音がする。どこかの部屋の住人か、それとも訪れてきた友人か、恋人か、もしかすると単なる宅配業者か。
 そういえば、半年ほど前久しぶりに訪ねた吉富の家は、荒れてはいないものの、やはりどこか寂しげだった。女手がなくなるというのは、ああいう形で目に見えるものなのか、と改めて思ったものだ。特別散らかっているわけでも、汚いわけでもない。なのに、どこがどうとは言えないが、寒々しいのだ。
 工場は今も営業しているが、仕事が終われば従業員は帰っていく。専務を務め、現在は実質的に工場の指揮を執る長男にも、余所に住まいがあって家庭があるのだ。訪れる者の殆どない家での一人暮らしはやはり孤独なのだろう。どうしようもない孫が久しぶりに訪ねてねだれば、内容はどうあれ目を瞑って引き受けてしまう程には。
 秋野の指先がライターを撫でる。テーブルの天板にプラスチックが当たってカタカタと乾いた音を立て、薄緑の中でガスがゆらゆらと左右に揺れた。
「多分、分かってねえか、分かってても」
「別にどっちでもいいさ。お前がそうしたいなら」
 秋野はライターを掴んで立ち上がり、ついでのように紙袋に手を伸ばした。
「鍵のかかってない部屋に置いておくものじゃないからな。空き巣でも入って盗まれたらどうにもならん」
「悪ぃ」
 高い所にある薄茶の目が、蛍光灯の白っぽい光を反射する。秋野は開いたシャツの襟元から手を突っ込んで、自分の首筋を軽く揉みながら首を傾けた。
「今日は疲れた。さっさと帰って寝たいんでね。長い話をしたい気分じゃない」
「仕事か、女か」
「仕事だ」
「そりゃ気の毒にな」
 秋野は頬を歪め、通りすがりに哲の頭に手を突っ込み、ぐしゃりと掻き回して玄関に向かった。頭を振って髪を直し、広い背に目を向ける。黒いスーツと無地の紙袋の組み合わせが、まるで葬式か披露宴帰りのようだ。
「おい、秋野」
 名前を呼ぶと、秋野がゆっくりと振り返った。瞳に一瞬鋭い何かが見え、すぐに消える。
「何だ」
「幾らだ。保管料」
 訊ねると、秋野はすぐに笑みを浮かべた。
「手付金は百円でいい」
 手の中のライターをポケットに突っ込みながら秋野は言った。
「残りは、俺が疲れてないときに年寄りには優しい錠前屋一人だな」
「てめえは年寄りじゃねえだろうが、三十代」
「こういうときだけジジイ撤回か。どうせ俺はエロジジイだ、遠慮しないでそう呼べよ」
 喉の奥を鳴らすように笑い、秋野は玄関のドアに手を掛けた。哲が投げつけた煙草の箱は、既に閉まりきったドアに当たって三和土に転がった。